2011年8月26日金曜日

キリスト教は環境破壊の原因?



「キリスト教は人間至上主義で、自然搾取、環境破壊の原因になってるんじゃないですか?いわゆる先進国のあり方はそうでしょう。」

「聖書は人間が世界を支配せよと言っている。人間のために自然がある。だから、人間は自由に自然を望むがままに搾取していい。どうもキリスト教を土台とした西洋の文化にはそういうところがある。一神教より、汎神論のほうが平和的で、自然にやさしい。」よくある意見じゃないでしょうか。

では、この質問に答えてください。

1.はじめに神が創造した理想の園、エデンの園では人間と動物、あらゆる自然がバランス良く生活してたのではないですか? 神はそれを見て、「良し」とされたのではないですか?(創1:31)

2.なぜ、ノアの箱船には動物が乗っていたのでしょうか?神が動物も救うように命じました。神は動物をケアしないのでしょうか?(創6:19)

3.もし、神が英知を注ぎ込んで、この物質的な世界も造られたなら、(実際、この世界はすばらしくよく出来ています。)創造の主である神はご自分の創造した世界をケアしたいと思いませんか?(箴言8:30−31)

4.ローマ書、8章21−22節には、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子供達の栄光の自由のなかに入れられます。被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。」とあります。人間の罪によって呪いの下に置かれている被造物すべてが解放の時を待っているというのです。神の購いのご計画は人間のみならず、神が造られた世界全体を含んでいるのです。これは神が造られた世界を大事に思っておられるからではないですか?

宗教改革の神学者、カルビンはこう述べています。「人間を扱うと同様に動物に対しても正しく扱わなければならない。」

人間のために自然があるという解釈は聖書ではなく、アリストテレスの哲学から来ているのです。自然資源の搾取は、むしろ、ダーウインから発生した優性主義、社会進化論、適者生存などの思想から推進されるようになったのです。聖書が教えているのは人間が地上を占領するのではなく、責任もって統治するということです。(創世記1:28の正しい意味)イエスも焼いた魚を召し上がった。適切な食物連鎖は神の定めた自然界の秩序であるとも言えます。ただし、聖書は、人間のどん欲を戒めています。限りない欲望は人間を滅ぼします。

ちなみに、汎神論的な日本人がキリシタン迫害で、島原では20万人が雲仙の熱湯に入れて殺したといいます。汎神論者が平和主義とは限らないのです。また、一神教を否定する、無神論の共産主義も中国の文化大革命で多くの犠牲者を産み、キリスト教国でない、カンボジアのポルポト政権の下、大虐殺が起こりました。アジア的汎神論や多神教のほうが寛容で、平和でいいとは一概には言えません。

厳密にいうとキリスト教は1神教ではないのです。イスラムの神と同じではありません。あえて言えば三位一体教です。父、御子、御霊の3つのパーソナリティがあるから、関係があり、愛がありうるのです。その愛が被造物(人間を含め)に溢れ流れているのです。その神は搾取の神ではなく、その一人子さえ、お与えになる(ヨハネ3:16)惜しみなく与える神なのです。真にイエスに従えば、搾取より、与える者になるのではないでしょうか。
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2011年8月14日日曜日

「あなたはら何て答える?キリスト教の難問」



さまざまな難問にクリスチャンとしてどう答えるのか。これを、キリスト教弁証論、英語ではApologeticsといいます。現代のインテリ都会人に伝道するのに、避けて通れないことでしょう。また、キリスト教、聖書に関して多くの誤解もあります。それを解いてゆくことも伝道の大きなステップでしょう。しばらく連載で、このテーマを扱ってみましょう。まず、第一問。


「聖書って現実離れした精神主義の世界でしょ。キリスト教は禁欲主義だから、オレなんかはついていけないな。」


答え:
キリスト教は精神主義ではありません!

えっ、そうなの? まず、旧約聖書を土台とするユダヤ教は精神主義ではないし、禁欲主義でもありません。旧約に登場する人々は、生身の人間で、非常に人間臭いのです。雅歌はソロモンが書いたといわれるラブソング集ですが、ホットな性的な関係を描いています。神が世界(目に見える物質世界)を創造された時、すべては良かったと言われました。神の姿に造られた人間は肉体を持つ者として、創造されたのです。そこに矛盾はありません。神は土から人間の肉体を作り、ご自身の荷姿(内面)を造られたのです。


キリスト教は、精神主義や禁欲主義ではありませんが、ギリシア哲学(とくにプラトン主義)の影響を受けた神学者たちが、ずれた解釈を始めたのです。目に見えぬ神がイエスとして、肉体をとってこの世にこられた。これが聖書のメッセージです。かえって、異端のグノーシス主義が、神は悪しき肉体をもって人間になることはありえない。イエスは仮に肉体として現れたのだと主張しました。これを仮現説と言います。しかし、これは聖書の主張ではないのです。


もう一度言いましょう。神は人間を男と女に、肉体を持ったものとして造られたのです。そして、造られた後で「良かった。」と言われたのです。これは肉体の肯定です。否定ではありません。雅歌では男女の愛、それも肉体的な愛の表現を肯定しているのです。もちろん、奔放な性は慎むべきですが、夫婦間のセックスはむしろ勧められているのです。神は「生めよ、増えよ、地に満ちよ。」と命令までされているのですから。

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2011年8月8日月曜日

「なぜ神はいなくならないのか? 新無神論にどう対処する」



まず、最近出版された本を紹介しよう。英語のタイトルはWhy God won’t go away SPCK出版)でキリスト教界では広く支持されている英国の神学者 アリスター マクグラスが著者である。

事の発端は利己的遺伝子の提唱者のリチャード・ドーキンス博士が書いた「God Delusion」(和訳あり)での攻撃的なまでの無神論提唱にある。しかし、ドーキンス博士はなぜ今更、そこまで攻撃的に1昔前に型のついた無神論を蒸し返すのだろうか。それは裏をかえせば、ニーチェが「神は死んだ」と宣言して以来、今日まで神は死ぬどころか、居なくなりもしていないということではないか。

本書ではドーキンス博士の他、この新無神論の提唱者としてThe End of Faithの著者、Sam Harris, Breaking the spellDaniel Bennett, そして、新無神論のネットワークである“Edge” のJohn Brockmanを取り上げている。

ドーキンス博士の主張は「神は証明できず、したがって宗教は、非合理で非科学的である」とするもの。何ら一昔前の無神論と違わないように思えるが、9・11からのパラダイムではモノを言う。つまり、


「証明できない神を信じる宗教は非合理で非科学的。それどころか非道徳的でさえあり、放置しておくと9・11のように破壊的活動に出る可能性がある。従って、世から神と宗教を抹殺することが世界の平和につながる。」


要はそういう論理で、単なる哲学以上に実践的、政治的色合いの濃いのが特徴である。思想とそれを語っている人間をも区別せずいやみは攻撃をしてくるようだ。(彼らが自負するほど理性的、道徳的とは思えないが)

生物学者のドーキンス博士の論理はユニークである。Memeという神を信じさせる遺伝子がビールスのように人間の頭脳に伝染しているという。一見、科学者らしい論理に見えるのだが、実はなんら証拠がない。それこそイリュージョンなのではないかと言いたくなる。マクグラスが指摘するように、それが遺伝子の働きなら、無神論を信じるのも遺伝子の働きとなるはずだ。科学と人間理性を、ことさらに賛美する新(新しくもないが)無神論はポストモダン哲学からは「遅れている」ということにならないか。新無神論者は18Cの啓蒙主義こそ帰る場所だとするが、ポストモダン哲学者達は、とっくに理性の限界を認識して、理性を信じていない。彼らに言わせれば時代錯誤もはなはだしいとなるだろう。また、彼らの言う科学認識もアマチュア的で、科学が何でも解決する的なナイーブなものだ。実際は、科学の「仮説」もどんどん変わっている。また、真の科学は第三者的批判に公平に耳を貸す。ところが、宗教の偏狭性を指摘する新無神論者は、人の話に耳を傾けない、自らが偏狭なファンダメンタリストとなってしまっている。

真の問題はここだ。それが宗教であれ、政治であれ、何であってもファンダメンタリストにはそれなりの律法や儀式、主義、ヒーローが存在する。彼ら自らも他を攻撃するアブナイ存在になってゆくのだ。ブログでの中傷はエスカレートし、仲間うちで内ゲバ闘争のようになっていく。マクグラスが指摘するように、要は宗教の問題というより、宗教であっても政治であっても哲学であっても、白黒をつけ、自分以外を異端とする「fanaticism - 熱狂主義」に問題がある。本当に神がいないのなら、誰も人々にテロをやれと語るものもいない。つまり、自分たちの判断で動いているわけで、すべては人の側の問題となる。純粋な人災である。いない神を非難できないのだ。しかし、反対者たちにとっては罪をなすりつけられる神がいてくれたほうが便利なのではとまで思いたくなる論の展開だ。

神がいないなら、神を非難できない。すべては人間の問題となり、ボールは自分に戻ってくる。この新無神論運動も、結局、神を消し去ることはできないようだ。実際、神を信じる人々は増え続けている。世界のクリスチャンは増加している。世俗化の進むアメリカでもはっきり無神論を宣言する人は4%にとどまる。

どうやら、神はいなくならないようだ。自分の推測としては、純粋な無神論より、物理科学と融合したようなニューエイジ的スピリチュアリズム(多次元、集団無意識、宇宙意識など)がポピュラーになっていくのではないか?

それでは次回からは、実際に現代人がよくする質問にクリスチャンはどう答えるのかを見てゆこう。
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