2012年11月28日水曜日

コーチングのPowerful Questions



Focus the Conversation
相手の意思を尊重して、話し合う内容をフォーカスする。

1.今日は何を話しましょうか?
2.今、話したい緊急と思われる課題がありますか?
3.いろいろあるでしょうが、どれが優先順位のトップでしょうか?
4.この時間を一番有効に用いるにはどうしたらいいでしょうか?
5.あなた自身にとって一番必要を感じている事は?

Explore Options
選択肢をいろいろ想像してみる

1.この時間が終わった時、どんな結果が出る事を期待していますか?
2.起こりえる一番いい事は何でしょう?
3.失敗があり得ないとしたら、どうしますか?
4.他の人が、その分野でうまくやっているのを観察したことがありますか?彼らはどうしていますか?
5.それは1つの選択でしょう。他に何かアイディアありますか?

Plan the work
やることを絞る
1.いろいろな選択の中で、一番あなたにグッとくるものは?
2.初めに何をすべきですか?
3.成功させるため、何が必要でしょう。誰を仲間に入れるべきでしょう?
4.誰と話す必要があるでしょう?
5.そういった行動は、あなたが達成しようとしている目標にどう貢献しますか?

Address Obstacles
障害となるものを知る

1.あなたの成功をさまたげているものは何ですか?
2.何が足りないのでしょうか?
3.どんなリソースが必要でしょうか?
4.それについてあなたの会社(組織)の誰と話すべきでしょうか?

Review
確認する

1.あなたがこれからしようとしている事を言ってください。いつまでにそれ
をしますか?
2.今回の話し合いを通して、何を得ましたか?何を適用しますか?
3.次回会うまでに、何を達成しますか?
4.次回はいつ会えますか?
5.あなたがしようとしている事をサポートするため、私に何をしてほしいですか?

コーチングのスキル
1.相手が言葉で表していない部分を汲み取る。
2.以上の効果的な質問を用いる。
3.愛をもって真理を語る
4.常に励まし、結果を一緒に喜ぶ。

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参考になりましたか?
asktmc@gmail.com (栗原)

2012年11月8日木曜日

「再びオーガニックチャーチを考える」



今回のおすすめ本
Missional Renaissance – changing the scorecard for the CHURCH
By Reggie McNeal

教会というより、Missional Communityという表現が最近よく使われる。特に日本の教会の場合、信仰持つ事で家族との軋轢も生まれ、あちこちから個人が集まって教会を形成しているケースが多い。しかも、電車に乗って日曜礼拝に集うとなると、教会堂が存在する地域コミュニティとの関係が薄くなる。励ましの場としての合同礼拝や聖書からのティーチングは、日曜にやるにしても、週日、生活の場でクリスチャンが少人数で集まり、深い交わりを持ち励まし合い、生活圏でクリスチャンの影響を周りに及ぼしてゆく「場」がどうしても必要になってくる。ホープチャペルのラルフモア師は、これをミニチャーチと呼んで推進している。

上に挙げた本は「この世」に置かれた「使命を持った」クリスチャンの集まりとしての宣教的コミュニティを提案している。前回Beyond Christianityで述べたように、キリスト教が文化となり、習慣化して、自らの運営にフォーカスしているあり方から、使命をもって地元コミュニティへのインカーネーション(受肉)してゆく方向性が必要なのではないか?

伝統的教会が衰退する中で、この本は教会の新たな方向性を示している。


The change of mindset on CHURCH  
教会のあり方を変革する

- Kingdom focused  神の国指向  生活の場、社会、世界が舞台。

- Connectors     組織の会員という考えより、人々を結びつける方向性

- Program to people  プログラムから人へフォーカスを移す。

- Attractional to Incarnational 魅力あるプログラムでこちらに引っ張り込むのではなく、コミュニティに出て行って、そのただ中で影響を与える。著者は地元少年野球のコーチとして奉仕することや、NPOなどで地域奉仕活動に参加することを勧めている。

- Proclamation to Demonstration 説教より、行いで見せていく

- Institutional to Organic  制度的教会から生命体としての教会へ。

- From church job to Kingdom assignment 神の奉仕は教会内の奉仕、仕事という考えから、神の国を広めるため、この世に使命をもって遣わされているという意識。この世の仕事の再評価。

- Life is mission trip 信仰生活は日曜だけでなく、生き方そのもの。生活、人生そのものが神と共に歩む宣教旅行。

- The way of life それは生き方そのもの

- From Worship service to Service as worship
日曜朝の礼拝という儀式から、人々に仕えることが礼拝という意識へ。実際、礼拝は24 hours/7daysであるべき。(ローマ12:1−2)



私達、TMCではオーガニックチャーチを試みている。著者によるとオーガニックチャーチの特徴は・・・

Organic church
- Decentralized 中央集権ではない

- Simple シンプル

- not membership driven 会員制度を強調しない

- synched with normal life routines 日常生活と同期している

- not dependent on clergy  教職者に頼らない

- focused on the spiritual development of the participants 活動の多さよりも参加者の霊的成長にフォーカスする。

- The people are the church. (not “attending the church”, not “going to the church” nor “supporting the church”. 教会は「人々」なので、「教会に出席する」「教会に行く」「教会をサポートする」という言い方はしない。


例えば、私達は毎週水曜日、銀座のレストランで集まっている。「銀座エクレシア」と呼んでいる。エクレシアは「教会」と訳されるが、新約では会堂の意味で使われたことは一度もない。常に人々を指している。1つの場所で人数を増やすことを目的とせず、深い、正直な関係を築くことを目的としている。多くても8人。一人の牧師が常にメッセージするということをしない。(新約聖書にその例は見出せない)宣教師がいても、ビジネスマンが進行役を勤める。レストランという日常の雰囲気の中で、分かち合いが為され、食事をし、聖書が開かれ、祈り合う。プログラムはいたってシンプルでフレキシブル。新来会者がいれば、その人の話を聞いて終わる事もある。先生と呼ばれる人はいない。正直になれる安心感がある。集うのはビジネスパーソンなので、必然的に会社の話やビジネス戦略の話も出る。日常生活にシンクロしている。特別なマスクをつけなくていい。変に霊的に繕わなくていい。みことばが開かれ、1)気になったところ、心に留まったところを分かち合う。2)疑問に思えるところを分かち合う 3)アクションポイントが示されれば分かち合う。全ての人が参加し、コメントを言う。一方的に聞いたメッセージより心に残る。時々、ノンクリスチャンも参加する。彼らも自由に聖書の言葉から感じた事を分かち合う。最後は、実生活での必要を分かち合い、祈り合う。ビジネスの成功も祈る。仕事関係で出会うノンクリスチャンのためにも祈る。そのような中で参加者は解放され、霊的成長を体験する。自分にとっての霊的命のオアシスとなる。人生を共に歩む「友」が与えられる。水曜以外でもお互い自由に会って交わったり遊んだりする。メンバーの一人は他の新しく始められたビジネスマン向けの教会の開拓を手伝うことになった。ここにとどまらず、神の国の働きが広がっている。そういうことが起っているのです。
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コメントお待ちしています。
asktmc@gmail.com (栗原)

2012年11月1日木曜日

Beyond Christianity?



 2012年10月7日のクリスチャン新聞によると、日本全国のプロテスタント教会の数は一昨年より33減って、7948。一教会あたりの礼拝出席者は40名。2010年以降、首都圏の教会数さえも減少。東京の教会は978で礼拝者数は一教会あたり平均66名。東京の人口が5万人ほど増加していることを考えると、人口増加には追いついていない。一方、バングラディッシュではイスラム文化圏で500万人がイエスに従うムーブメントにかかわっているという。しかも、それは英会話やゴスペルクラスという魅力的なプログラムによる訳でもないし、宣教団という組織によるものでもない。ちょうど、中国で宣教師が追い出された後、家の教会ムーブメントが始まったように、聖霊の働きである。

私達は通常、教会開拓というとまず、建物を確保して集会をやって人に来てもらいますよね。10名程だと「伝道所」と呼ばれ、50名くらいになって経済的に独立すると「教会」と呼ばれる。それ自体、おかしな事ですが、マタイ28章の大宣教命令は「弟子作り」命令なのであって、教会建設命令ではないのです。弟子をつくれば、信徒の群れである教会は結果として生まれるのです。宣教戦略家の福田充男氏は、今までのやり方を「囲み理論」として説明します。つまり、何かをやって人を「集め」、独自のキリスト教教会文化とルールに合った人を仲間として認識し、「外」の人との壁を作ってゆく。従って、クリスチャンになって数年もすると友人はクリスチャンだけになるというのです。それでも何とか囲みの中に入れこもうと人々を引きつけるため「プログラム」をやるようになる。福田氏はこの型では、日本の福音化には限界があると考えています。

今、イスラム圏や仏教圏では「インサイダームーブメント」というのが起っています。自分の文化に留まりつつ、イエスを主として従ってゆく運動です。自分が仏教圏やイスラム圏に生まれたのは自分のチョイスではなく、神のご計画された事だからです。そこで神の栄光が表されるためです。VIPインターナショナル会長の市村氏の話ではあるクリスチャンの世界大会に行った時、袈裟姿のお坊さんが手をあげてハレルヤと賛美していたといいます。与えられた文化を尊重し、感謝しつつ、悪いところは捨て去り、良いところは清めていただき神のために用いて頂く事が出来ます。日本文化にある奇麗な着物や謙遜な茶道の作法などをクリスチャンになったからといって捨て去る必要は無い訳です。

実は反対方向のことも起っています。キリスト教自体が過去2000年の歴史の中で厚化粧して余計なものを身につけてしまったということです。それで、宗教としてのキリスト教を超えて、もう一度、聖書で言っているオリジナルに戻ろうとするBeyond Christianityという動きも出て来ているのです。宗教としてのキリスト教で、誰もがイメージするのは十字架の付いた教会という建物。そして、そこで行われる礼拝というプログラム。コンスタンティンがAD323教会堂を建て始めるまでは、初代教会は家々で集まっていたのですが。(それどころか、使徒時代は今、手にしているような27巻の整った形の製本された新約聖書は無かったのです。使徒2:42にあるように言葉として語られた使徒たちの教えを固く守っていたのです。一般の人は聖書という教典なしにキリスト教は考えられないと思うでしょうが、興味深いことに、聖書が本として与えられる前にクリスチャンムーブメントは聖霊によってすでに始まっていたのです!)さて、教会の原語は「エクレシア」ですが、新約に114回出てくる中で建物、集会に言及している箇所は1つもないのです。常に人々のかかわり合いの意味で使われています。「オイコス」も家庭集会ではなく、家族そのものを指しています。「コリントにある教会」と言った場合は1つの建物ではなく、コリントの町にいるクリスチャンの総体を指して使っています。だから日曜の朝、「礼拝」に行くというのは正しいですが、「教会に行く」というのは本来聖書的におかしい表現ということになります。私達自身が「教会」だからです。 初代教会は特別な伝道プログラムはしなかったけれど、信徒同士に見られる愛とキリストをあがめる敬虔な生き様を通して野火のごとく広がって行ったのです。今のクリスチャンのように日曜の朝と月曜からの週日を区別するような生き方ではなく、24時間、7日間、主と共に生き、証ししていたのです。

Beyond Christianityの推進者のジョン・リッジウエイ氏によるとIdentityにおいて宗教としてのキリスト教と神の国ムーブメントではこんなに違ってきます。

宗教としてのキリスト教では・・・   神の国ムーブメントでは・・・
1)I am a Christian                         I am a follower of Jesus
2)Denomination                           Kingdom
3)I go to a Baptist church            We are the church
4)Sunday as a holy day               24 hours/7 days
5)Conversion/decision                 Journey  (イエスを探す旅に出る)

解説
イスラム文化圏ではクリスチャンと言っただけで、会話が断たれてしまいます。今ではクリスチャンというのはキリスト教文化圏にいるという意味で他文化に壁を作ってしまう作用をしてしまうのです。一方、キリスト教国ではクリスチャンといっても名ばかりで、イエスに コミットして従ってない人も大勢います。キリスト教文化圏でもあまり意味をなさなIdentityになっています。神の国ムーブメンンとでは教団教派を超えています。聖書的には教会は「行く」と所ではなく、私達です。日曜を特別の「聖なる」日とすることで、結果的に週日を「俗の日」としてしまう。伝道集会で手をあげさせて「決心」させ、教会員とするやり方は個人は属しているコミュニティから切り取られ、教会のコミュニティに移される。初代教会では必要に答えることで、人から人へ、ことに家族単位で福音が広がって行った。一回の決心にフォーカスすると教会に繋がってからの主と共に成長するというプロセスが薄くなる。ムーブメントでは自分の置かれた「場」で、コミュニティで、人々と寄り添い、仕え、一緒に生活することにフォーカスが置かれる。

以前、このブログで紹介したフランク・バイオラの本の中にも紹介されていたごとく、今日の教会では「牧師(本来的には牧者)」と「教師」という2つの賜物だけが重要視され、従って、特別に選ばれた人が、神学校にいって資格をとって牧師となり、有給の牧師というポジションが誕生することになってしまったのです。そして、今日ビリーグラハムのような「伝道者」は認めるにしても、エペソ4章11節にある残りの2つ、「使徒」、「預言者」が忘れ去られることになったのです。本来、これら5つの賜物は神から「与えられた」ものであり、ポジションではなく、ファンクション(機能)として一般信徒に与えられ神の国の拡大のため用いられるべきものでした。ローカルチャーチの牧者、教師は普通に仕事をしていた人達だったのです。99%がノンクリスチャンという日本では「使徒」や「預言者」の働きこそが必要なのではないでしょうか?これらの賜物がもっと解き放たれると神の国は前進するのではないでしょうか?

もう一つ、聖書の原典には章、節はありません。新約27巻は別々に書かれたもので、はじめからあの順番で出来上がっていたものではありません。現在、私達が手にしている聖書は時間系列ではありませんので、わかりにくのです。また、章が無いマニュスクリプトで読むともっと流れのあるドラマとして迫ってきます。あたりまえに教えられて来た教会文化が実は、聖書に基づいている訳ではないものも多くあります。バイオラが言うように、キリスト教の伝統はあまりに重く、走っている機関車を止めるのが難しいように、なかなかすぐには変革できないのでしょう。しかし、そろそろ気づき始めた人が出て来ています。上記の日本のキリスト教の状況を打開する手だては無いのでしょうか?それは、シンプルに聖書が言っている通りの事に戻ることなのではないでしょうか?

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asktmc@gmail.com (栗原)