私達は通常、教会開拓というとまず、建物を確保して集会をやって人に来てもらいますよね。10名程だと「伝道所」と呼ばれ、50名くらいになって経済的に独立すると「教会」と呼ばれる。それ自体、おかしな事ですが、マタイ28章の大宣教命令は「弟子作り」命令なのであって、教会建設命令ではないのです。弟子をつくれば、信徒の群れである教会は結果として生まれるのです。宣教戦略家の福田充男氏は、今までのやり方を「囲み理論」として説明します。つまり、何かをやって人を「集め」、独自のキリスト教教会文化とルールに合った人を仲間として認識し、「外」の人との壁を作ってゆく。従って、クリスチャンになって数年もすると友人はクリスチャンだけになるというのです。それでも何とか囲みの中に入れこもうと人々を引きつけるため「プログラム」をやるようになる。福田氏はこの型では、日本の福音化には限界があると考えています。
今、イスラム圏や仏教圏では「インサイダームーブメント」というのが起っています。自分の文化に留まりつつ、イエスを主として従ってゆく運動です。自分が仏教圏やイスラム圏に生まれたのは自分のチョイスではなく、神のご計画された事だからです。そこで神の栄光が表されるためです。VIPインターナショナル会長の市村氏の話ではあるクリスチャンの世界大会に行った時、袈裟姿のお坊さんが手をあげてハレルヤと賛美していたといいます。与えられた文化を尊重し、感謝しつつ、悪いところは捨て去り、良いところは清めていただき神のために用いて頂く事が出来ます。日本文化にある奇麗な着物や謙遜な茶道の作法などをクリスチャンになったからといって捨て去る必要は無い訳です。
実は反対方向のことも起っています。キリスト教自体が過去2000年の歴史の中で厚化粧して余計なものを身につけてしまったということです。それで、宗教としてのキリスト教を超えて、もう一度、聖書で言っているオリジナルに戻ろうとするBeyond
Christianityという動きも出て来ているのです。宗教としてのキリスト教で、誰もがイメージするのは十字架の付いた教会という建物。そして、そこで行われる礼拝というプログラム。コンスタンティンがAD323教会堂を建て始めるまでは、初代教会は家々で集まっていたのですが。(それどころか、使徒時代は今、手にしているような27巻の整った形の製本された新約聖書は無かったのです。使徒2:42にあるように言葉として語られた使徒たちの教えを固く守っていたのです。一般の人は聖書という教典なしにキリスト教は考えられないと思うでしょうが、興味深いことに、聖書が本として与えられる前にクリスチャンムーブメントは聖霊によってすでに始まっていたのです!)さて、教会の原語は「エクレシア」ですが、新約に114回出てくる中で建物、集会に言及している箇所は1つもないのです。常に人々のかかわり合いの意味で使われています。「オイコス」も家庭集会ではなく、家族そのものを指しています。「コリントにある教会」と言った場合は1つの建物ではなく、コリントの町にいるクリスチャンの総体を指して使っています。だから日曜の朝、「礼拝」に行くというのは正しいですが、「教会に行く」というのは本来聖書的におかしい表現ということになります。私達自身が「教会」だからです。 初代教会は特別な伝道プログラムはしなかったけれど、信徒同士に見られる愛とキリストをあがめる敬虔な生き様を通して野火のごとく広がって行ったのです。今のクリスチャンのように日曜の朝と月曜からの週日を区別するような生き方ではなく、24時間、7日間、主と共に生き、証ししていたのです。
Beyond
Christianityの推進者のジョン・リッジウエイ氏によるとIdentityにおいて宗教としてのキリスト教と神の国ムーブメントではこんなに違ってきます。
宗教としてのキリスト教では・・・ 神の国ムーブメントでは・・・
1)I am a
Christian
I am a follower
of Jesus
2)Denomination
Kingdom
3)I go to a Baptist
church
We are the church
4)Sunday as a holy
day 24 hours/7 days
5)Conversion/decision Journey (イエスを探す旅に出る)
解説
イスラム文化圏ではクリスチャンと言っただけで、会話が断たれてしまいます。今ではクリスチャンというのはキリスト教文化圏にいるという意味で他文化に壁を作ってしまう作用をしてしまうのです。一方、キリスト教国ではクリスチャンといっても名ばかりで、イエスに コミットして従ってない人も大勢います。キリスト教文化圏でもあまり意味をなさないIdentityになっています。神の国ムーブメンンとでは教団教派を超えています。聖書的には教会は「行く」と所ではなく、私達です。日曜を特別の「聖なる」日とすることで、結果的に週日を「俗の日」としてしまう。伝道集会で手をあげさせて「決心」させ、教会員とするやり方は個人は属しているコミュニティから切り取られ、教会のコミュニティに移される。初代教会では必要に答えることで、人から人へ、ことに家族単位で福音が広がって行った。一回の決心にフォーカスすると教会に繋がってからの主と共に成長するというプロセスが薄くなる。ムーブメントでは自分の置かれた「場」で、コミュニティで、人々と寄り添い、仕え、一緒に生活することにフォーカスが置かれる。
以前、このブログで紹介したフランク・バイオラの本の中にも紹介されていたごとく、今日の教会では「牧師(本来的には牧者)」と「教師」という2つの賜物だけが重要視され、従って、特別に選ばれた人が、神学校にいって資格をとって牧師となり、有給の牧師というポジションが誕生することになってしまったのです。そして、今日ビリーグラハムのような「伝道者」は認めるにしても、エペソ4章11節にある残りの2つ、「使徒」、「預言者」が忘れ去られることになったのです。本来、これら5つの賜物は神から「与えられた」ものであり、ポジションではなく、ファンクション(機能)として一般信徒に与えられ神の国の拡大のため用いられるべきものでした。ローカルチャーチの牧者、教師は普通に仕事をしていた人達だったのです。99%がノンクリスチャンという日本では「使徒」や「預言者」の働きこそが必要なのではないでしょうか?これらの賜物がもっと解き放たれると神の国は前進するのではないでしょうか?
もう一つ、聖書の原典には章、節はありません。新約27巻は別々に書かれたもので、はじめからあの順番で出来上がっていたものではありません。現在、私達が手にしている聖書は時間系列ではありませんので、わかりにくのです。また、章が無いマニュスクリプトで読むともっと流れのあるドラマとして迫ってきます。あたりまえに教えられて来た教会文化が実は、聖書に基づいている訳ではないものも多くあります。バイオラが言うように、キリスト教の伝統はあまりに重く、走っている機関車を止めるのが難しいように、なかなかすぐには変革できないのでしょう。しかし、そろそろ気づき始めた人が出て来ています。上記の日本のキリスト教の状況を打開する手だては無いのでしょうか?それは、シンプルに聖書が言っている通りの事に戻ることなのではないでしょうか?
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