2013年1月31日木曜日

大転換の時



 2年前、駅前に文房具屋があったが、それがファミリーマートに改装された。今では、その前を通ってもその風景が当たり前になって、文房具屋があったことは過去の夢のようになってしまった。私達は今ある日本がづっとあったような錯覚に陥る。

日本は100年間に国をひっくり返すような大転換の時を2度も経験している。1つは明治維新、もう一つは第二次大戦後。250年の鎖国を破り開国、文明開化と怒濤のように文化や暮らし向きが変化して行った。戦後も鬼畜米英から日米同盟へ、神格化天皇が人間に。思想統制から言論の自由と経済発展へ。今、日本という1つの国で均一化した文化の中にいると、これがあたりまえのように思ってしまうが、幕末期、戊辰戦争という新政府軍と旧幕府群で国を2分する戦争をしていたのだ。同じ日本人が思想の違いから血を流して戦っているのだ。そもそも1億2千万の日本人が全く同じ考えをしているはずがない。旧幕府の生き残りが北海道へ逃げて蝦夷共和国という独立自治体を形成。沖縄も明治以前は、琉球王国という独立国だった。今のような日本がづっとあった訳ではない。最近では北海道独立論、沖縄独立論みたいな話がまた、出て来ているが・・・

さて、財政の崖っぷちはアメリカだけの話ではない。40兆の税収で90兆の予算を組む日本がどこまで持つのか?財政赤字1000兆の国がどこまで持つのか?大震災が首都を襲う国で、どこまで持つのか。それが引き金で一気に国債暴落となるのか?国連大学の自然災害リスクランキングで日本は世界第5位。世界で5番目に危ない国と認識されている。先進国の中では唯一ランキング入りしている。3年以内に富士山噴火と言う学者もいる。間もなく戦後70年を迎える中、中国、韓国、日本の指導者も新しく変わった。今のような日本があるのは数年のような気がする。

人間、不安になると保守化する。ヒーローを求めるようになる。事が単純化されるファッショ化する。だから今、「おまかせ民主主義」の危険性が指摘されている。ポピュラリズムや一時の熱狂は冷めていく。選挙前の脱原発はもう声を潜めている。中国の脅威があってか、自衛隊員を増員するという。その先には「国防軍」がある。しかし、今の若者が戦争に役立つだろうか?彼らを訓練するため精神教育が復活するだろう。学校でも「反いじめ対策」として精神教育が入り込むだろう。聖書の基盤の無い日本では、精神教育の基盤はどうしても国粋主義(靖国、天皇)的なものにならざるを得ないのでは? 戦中のような思想統制の時代に逆戻りしないことを願うばかりだ。

幕末、列強はアジアに進出していた。インドは、英国の植民地となり、中国にもアヘン貿易で攻めて来た。それを聞いた日本の藩主達が中国の二の舞になる事を恐れ攘夷(排外主義)に振れたのも理解できる。しかし、鎖国していては乗り遅れる。日本のアイデンティティを保ちつつ、国際的になるにはどうしたらいいのか? そんな中、日本は開国した。そして勝海舟、福沢諭吉、新渡戸稲造など聖書に影響を受けた多くの国家的リーダーが活躍した。(詳しくは「聖書を読んだサムライたち」守部喜雅 著 いのちのことば社)そんな中で日本初のキリスト教主義に立つ学校を設立しようとした人物がいた。ご存知、新島襄である。そして当時アメリカのミッションボードは「伝道師養成学校」を強く要望していた訳だが、新島の主張はこうだった。


「わたしは外国人宣教師たちのように、ただキリスト教をひろめ、それによって個人の霊魂を救うことだけが目的ではありません。キリスト教精神にもとづいた青年男女を養成し、国家のために生命がけで働く者たちを育て、わが日本の独立をますます強固なものにすること、つまり、我が国を外国人の手に渡さないためのものです。」(新島襄)


新島は伝道者養成学校というよりも、キリスト教主義に立つリベラルアーツの学校を目指したのだ。国家的指導者を排出したかったのだ。内村鑑三は2つのJを愛すると言った。一つはJapan J、もう一つは Jesus J。日本を愛するからこそ、イエスを愛する。イエスを愛するから日本を愛する。国旗、国家を強要されて国を愛する訳ではないだろう。最近、世界にいい影響を与えている国民は?という調査で日本人がナンバーワンだという記事を読んだ事がある。日本が良い国であれば、当然、日本という国を愛するのだ。外国人でさえ日本を愛するだろう。そして、それはどういう価値観に立っているかによる。キリストが2000年の歴史を超えて世界に影響を与え続けるのは、犠牲の伴う愛の実践者だからだろう。だから、イエスに従うマザーテレサは国を超えて尊敬されている。日本人が聖書的基盤に立てば、世界から尊敬され愛される。国際的紛争解決に武力を用いないというなら、相当な交渉力が必要になる。神の知恵、忍耐力、愛なしにはできないのではないだろうか。

神の国の拡大のためには、キリスト教界のリーダー(牧師、宣教師)だけを養成するだけでは足りない。政治、経済、メディア、エンターテインメントすべての社会領域で影響を与える人物を養成、派遣しなければならない。そこが神の活躍する舞台だからだ。事は現場で起っている。日本は岐路に立っている。良い方にも、悪い方にも大転換できる。聖書的世界観と価値観を持つ、若い国家的リーダーの出現が求められている。

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asktmc@gmail.com (栗原)

2013年1月20日日曜日

御国に仕える者の使命



 実は、TMCを当初始めた頃、チャーチプランティングが目的だと思っていました。東京のあちこちにスモールグループをベースにした教会が沢山生まれれば目的達成だと。しかし、マタイ28章19節の大宣教命令を読むと、主の命令は「弟子作り命令」であることが分かってきたのです。そこには、「教会を建てなさい」とは書いてないのです。原文では動詞は1つで、「弟子としなさい」という命令になっています。弟子が生み出されれば、結果的に教会が始まるのです。逆に多く教会が生まれても「お客さんマインド」で「弟子」が育っていないと意味がないのです。弟子とは「学ぶ者」であって、神の言葉を学び、神のご計画を理解し、神の声を聞いて従い、神の業に参与するものです。

教会=エクレシアは「目的をもって召し出された者たちのコミュニティ」です。神のキングダムを広げるため、当然、ボーンアゲインしたクリスチャン達は集まり、励まし合い、学び合い、宣教を共にするでしょうね。教会を建てることに関してイエス様はペテロに「この岩の上に、わたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言っておられます。つまり教会はイエス様が建てるのです。

聖書があまり礼拝の順序や、教会を建てることや、教団の運営について語っていないのは興味深いことです。礼拝の原則的なことは書かれていても(使徒2:46−47)マニュアルはありません。実は教会とは「私達」クリスチャンであり、キリストの生きた生命体なのです。エペソ書2章を読むと神様の考えておられる教会像が見えてきます。

1.私達は死んでいた。私達は罪過と罪の中に死んでいた。(2:1)生まれながらに御怒りを受けるべき子ら。(2:3)

2.恵みとあわれみによりキリストによって救われた。救いは神からの賜物で誰も誇る事が出来ない。(2:8−9)しかし、以下続きを読むとわかるように、個々人が救われて終わりではないのです。天国行きの切符を手にして終わりではないのです。それならば信じた時、即天国に行けばいいのです。しかし、この地上でやるべき事が残されているのです。エペソ2:10を見ると地上ですべき「良い行い」があり、その「良い行い」をするためにキリストにあって作られた神の作品なのだと聖書は言っています。

3.以前は神の契約においては他国人(異邦人)であった私達がキリストの血で罪人と聖なる神という壁がこわされ、異邦人である我々が契約の子であるイスラエルと1つになることが許された。(2:12−17)ここで重要なのは救われた個々人を神はご自身の目的のために「集め」1つとするということです。つまり、神の目的のために「召し集める」すなわちエクレシア=教会=地上におけるキリストの体、生命体を作るという訳です。

4.1つの御霊が与えられ、今は異邦人も聖徒たちと同じ国民、「神の家族」となった。(2:18)御霊は1つ、信仰は1つなのです。1つの御霊を飲んだものは同質となるのです。もうどの国のどんな立場の人でもクリスチャン(1つ御霊を飲んだ者)として同質であり、同じ家族のメンバーです。この点から民族優越主義は偶像礼拝の罪です。クリスチャンであれば、皆、同じ主にひざまずく存在です。

5.さて、集められましたね。集められた者はどうなるんでしょうか?私達はキリストを礎石とする「生ける神殿」であるというのです。(参照 Iコリント3:16−17)エペソでは「主にある聖なる宮」であり、建物全体が成長すると言っています。キリストの体という生ける生命体となっているということ。生きているから動きます、成長します。この生命体が「教会」なのであって、これは、主ご自身が建て上げているのです。エペソ2:22には「キリストにあって、あなたがたもともに建てられ」とあり、キリストと一緒に御国の働きに携わってゆく様子が見て取れます。「御霊によって神の御住まいとなるのです。」ここにヨハネ4章19−23節でイエス様がおっしゃったことが実現するのです。つまり「この山でもない、エルサレムでもない」という場所限定のご臨在や場所限定の礼拝から解放されるのです。真の礼拝者が集えばスタバでも立派な礼拝ができるのです。神の御住まいを遠方に探しにいかなくても、私達が神の御住まいとなるというのです。だからエクレシアは神の国の「見える化」した型なのです。

6.ワンマンショーではなく、チームワーク。ここで大事なのは「この方によって組み合わされた」という言葉で、エペソ4章16節を見ると、(また以前の節を見ると)それぞれ賜物を持った人が体の器官のように組み合わされ体全体を作ってゆく様子が書かれていることがわかります。誰一人不要な人はいません。大事な神殿を築く石なのです。また、16節では「からだ全体は1つ1つの部分がその力量にふさわしく」とあり、全ての人が同じ力で同じ働きをするのではないことも明白です。与えられているタラントは量も質もそれぞれ違います。


7.御心実現のために「よき行い」をする。(2:10)弟子とは御国に仕える人々のことです。すなわち御国マインドを持ってこの地上で影響力を与えてゆく人々です。そして、御国とは「ここにある、あそこにある」というロケーションのことではなく、神の支配されるところ。神の御心が実現されるところ。主の祈りでイエス様は「天に御心が成るように、地でも成りますように」と祈る事を勧めておられます。この地上で神の御心に沿う良い行いが為されてゆく必要があるのです。神の御心を知るには神の言葉である「聖書」を読む必要があります。救いの全体像を知る必要があります。ですから「聖書」は「創世記」から「黙示録」まで全体を通して読まなければなりません。私達はキングダムリーダーとしてこの地上にいる限り「良い行い」を為してゆく使命があるのです。「よき行い」は伝道や教会員を増やすことだけではないでしょう。すなわち「御心が地でも成るように」神に聞き、神に力と知恵を頂き、行動してゆく使命があるということです。そして、私達の携わっている地上の仕事には意味があるということです。


「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに、歩むことではないか。」(ミカ6:8)


「公義」とは興味深い言葉ですね。パブリックな義、英語でいうJusticeでしょうか。日本語では社会正義に近いでしょう。Do the right thing. 正しい事をする。不正を暴き、抑圧されている人々を助けること。旧約には孤児、やもめ(現代的にはシングルマザーも含まれるでしょう)、貧困者、在留外国人を助けなさいと何度も出てきます。神はノンクリスチャンも用います。クリスチャンだけが善を為している訳ではありません。クリスチャンだけが神の計画にかかわっている訳ではありません。旧約では神は、異邦人クロス王を用いてイスラエルの捕囚地からの帰還を実現しています。リーマンショック後、ホームレスが急増した時、日比谷公園で派遣村を立ち上げた湯浅誠さんの働きは、その一例と言えるでしょう。ビッグイシューなどホームレスの自立を助けるNPOの働きを神は喜んでくださっていると思います。被災地支援はクリスチャンであろうと、なかろうと神が喜ばれる働きだと思います。神のかたちに造られ、被造物管理権が与えられている人間が環境保全、エネルギー問題、危機管理などに携わる事も御心にかなうことだと思います。ただクリスチャンはその良き行いが誰から託され、誰のためにしているかを知っているのです。
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2013年1月14日月曜日

「国家」と「御国」



 三浦綾子の小説に「海嶺」というのがある。江戸末期、岩吉、音吉、久吉の3人が遠州灘で嵐に会い、漂流。1年以上も漂流し奇跡的に現カナダのフラッタリー岬に漂着。それからアメリカ、イギリス、マカオと外国を転々とする。マカオでは宣教師ギュッツラフの下、ヨハネ福音書の翻訳を手伝うことになる。

こうして海外で多くの人に助けられ、ついに5年ぶりにモリソン号に乗って日本に送り届けてもらう事になる。それが1837年7月のこと。しかし、日本では、すでに1825年に「異国船打ち払い令」が出ていた。3人はもちろん日本を愛していた。日本の自然、日本の食べ物、そして父母、恋人。5年ぶりに御前崎の風景を目にした3人の感動はどれほどであったろうか。江戸湾に着いたモリソン号は7月31日、何と砲撃されてしまう。他の港を試みるため鹿児島湾へ。しかし、そこでも砲撃され泣く泣く8月29日にはマカオに戻される。砲撃してくる母国日本を眺めながら音吉は思う。「あれが日本や、あれが日本なんや」そして言う「お上って何や、国って何や」。

作家で、元外務省主任分析官であった佐藤優氏は著書「ナショナリズムという迷宮」(朝日新書)の中で「官僚は国家なり」と断言している。そして、こうも述べている。「政治のコントロールが利かなくなると、自己保存に走るというのが官僚機構の本質なんです。」さらにクリスチャンでもある佐藤氏は宗教的なからみでこう述べている。「宗教的な表現をするならば、現段階における人間の原罪はナショナリズムだと言えます。それはなぜか。ナショナリズムによって自分の命を差し出す用意ができてしまうからなんです。そういう気構えがあれば他人の命なんてどうでもよくなるわけでしょ。」これは国に限ったことではなく、集団や組織でも同じ事。すでにオウム事件で起った事だ。すなわち、神の座に「国」「集団」「組織」が置かれれば、それに対する全的献身が求められ、命を差し出す用意が出来てしまうという事だ。

そして、そこに民族主義的要素が入ってくる。ペリー来日で開国はしたものの、根強い攘夷論(排外主義)があり幕府の開国主義と激しい内乱が続いてゆく。この排外主義は第二次大戦の時も起った。それは日本民族優越主義とカップリングになっている。しかし、沖縄生まれの佐藤氏は興味深いことを言っている。「沖縄には天皇崇拝が無い」と。そして、「沖縄亜民族」を唱えている。どうやって日本を統一するのか?中央政府の考え出す思想によってか。江戸時代の日本には外様大名や参勤交代制度があり、中央政府は常に地方の反乱を恐れていた。しかし、幕末には長州、薩摩、水戸藩など有力な地方勢力(雄藩)の存在が大きくなる。外圧と地方勢力により中央はコントロールできなくなっていく。そして大政奉還に至る。

戦時中は「天皇は神」と教えられ、日本は「神国」と教えられた。戦争が終わると「天皇人間宣言」が行われ、「神国」日本はGHQの支配下に置かれる。当時、教師であった三浦綾子さんは、今までの価値観を否定され、教育勅語を墨で塗りつぶしながら教えることに混乱し、失望した。「国とは何やろう、お上とは何やろう」は三浦さん自身の疑問だったのだ。この国では、日本をこよなく愛するキリシタン達が迫害を受け殉教していった。戦時中もキリストを語るホーリネスの説教者は投獄された。日本人が母国に見放される。自分の愛する日本に見放される。日本を愛するが故に日本が間違った方向に行こうとするなら警告を鳴らし、中央政府を批判することもあり得るだろう。

作家の立花隆さんは、この時代の日本へ、するどい警鐘を鳴らしている。

「1つの国が滅びの道を突っ走りはじめるときというのは、恐らくこうなのだ。
とめどなく空虚な空騒ぎが続き、社会が一大転換期にさしかかっているというのに、ほとんどの人が時代がどのように展開しつつあるのか見ようとしない。たとえようもなくひどい知力の衰弱が社会をおおっているため、ほとんどの人が、ちょっと考えればすぐわかりそうなはずのものがわからず、ちょっと目をこらせばみえるものが見えない。こう書きながら、今日ただいまの日本が、もう一度そういう滅びの道のとば口に立っているのかもしれないと思っている。」「天皇と東大」:文芸春秋

海嶺では砲撃されて絶望的になっている中で、岩吉が言う。「・・・そうか。お上がわしらを捨てても・・・決して捨てぬ者がいるのや」すでに聖書に触れていた岩吉は聖書の神を思い起こす。外国人である彼らを丁重に保護してくれた人々を思い出す。使徒の働き17章26節には「神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。」とある。それぞれの国やそれぞれの文化を否定するのではない。すべてをお造りになった神の前にひれ伏すことで民族のアイデンティティを守りつつ、他の民族とも融合できるのだ。御国の価値観に立つ時に義がなされ、御心が地でも為されてゆくのだ。



「主よわれらの神よ。あなたは栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころのゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示録4:11)


「あなたはほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々をあがない、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。」(黙示録5:9)


「だから神の国とその義をまず第一に求めなさい」(マタイ6:33)


「だから、こう祈りなさい。天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でもおこなわれますように。」(マタイ6:9)


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