教会=エクレシアは「目的をもって召し出された者たちのコミュニティ」です。神のキングダムを広げるため、当然、ボーンアゲインしたクリスチャン達は集まり、励まし合い、学び合い、宣教を共にするでしょうね。教会を建てることに関してイエス様はペテロに「この岩の上に、わたしの教会を建てます。」(マタイ16:18)と言っておられます。つまり教会はイエス様が建てるのです。
聖書があまり礼拝の順序や、教会を建てることや、教団の運営について語っていないのは興味深いことです。礼拝の原則的なことは書かれていても(使徒2:46−47)マニュアルはありません。実は教会とは「私達」クリスチャンであり、キリストの生きた生命体なのです。エペソ書2章を読むと神様の考えておられる教会像が見えてきます。
1.私達は死んでいた。私達は罪過と罪の中に死んでいた。(2:1)生まれながらに御怒りを受けるべき子ら。(2:3)
2.恵みとあわれみによりキリストによって救われた。救いは神からの賜物で誰も誇る事が出来ない。(2:8−9)しかし、以下続きを読むとわかるように、個々人が救われて終わりではないのです。天国行きの切符を手にして終わりではないのです。それならば信じた時、即天国に行けばいいのです。しかし、この地上でやるべき事が残されているのです。エペソ2:10を見ると地上ですべき「良い行い」があり、その「良い行い」をするためにキリストにあって作られた神の作品なのだと聖書は言っています。
3.以前は神の契約においては他国人(異邦人)であった私達がキリストの血で罪人と聖なる神という壁がこわされ、異邦人である我々が契約の子であるイスラエルと1つになることが許された。(2:12−17)ここで重要なのは救われた個々人を神はご自身の目的のために「集め」1つとするということです。つまり、神の目的のために「召し集める」すなわちエクレシア=教会=地上におけるキリストの体、生命体を作るという訳です。
4.1つの御霊が与えられ、今は異邦人も聖徒たちと同じ国民、「神の家族」となった。(2:18)御霊は1つ、信仰は1つなのです。1つの御霊を飲んだものは同質となるのです。もうどの国のどんな立場の人でもクリスチャン(1つ御霊を飲んだ者)として同質であり、同じ家族のメンバーです。この点から民族優越主義は偶像礼拝の罪です。クリスチャンであれば、皆、同じ主にひざまずく存在です。
5.さて、集められましたね。集められた者はどうなるんでしょうか?私達はキリストを礎石とする「生ける神殿」であるというのです。(参照 Iコリント3:16−17)エペソでは「主にある聖なる宮」であり、建物全体が成長すると言っています。キリストの体という生ける生命体となっているということ。生きているから動きます、成長します。この生命体が「教会」なのであって、これは、主ご自身が建て上げているのです。エペソ2:22には「キリストにあって、あなたがたもともに建てられ」とあり、キリストと一緒に御国の働きに携わってゆく様子が見て取れます。「御霊によって神の御住まいとなるのです。」ここにヨハネ4章19−23節でイエス様がおっしゃったことが実現するのです。つまり「この山でもない、エルサレムでもない」という場所限定のご臨在や場所限定の礼拝から解放されるのです。真の礼拝者が集えばスタバでも立派な礼拝ができるのです。神の御住まいを遠方に探しにいかなくても、私達が神の御住まいとなるというのです。だからエクレシアは神の国の「見える化」した型なのです。
6.ワンマンショーではなく、チームワーク。ここで大事なのは「この方によって組み合わされた」という言葉で、エペソ4章16節を見ると、(また以前の節を見ると)それぞれ賜物を持った人が体の器官のように組み合わされ体全体を作ってゆく様子が書かれていることがわかります。誰一人不要な人はいません。大事な神殿を築く石なのです。また、16節では「からだ全体は1つ1つの部分がその力量にふさわしく」とあり、全ての人が同じ力で同じ働きをするのではないことも明白です。与えられているタラントは量も質もそれぞれ違います。
7.御心実現のために「よき行い」をする。(2:10)弟子とは御国に仕える人々のことです。すなわち御国マインドを持ってこの地上で影響力を与えてゆく人々です。そして、御国とは「ここにある、あそこにある」というロケーションのことではなく、神の支配されるところ。神の御心が実現されるところ。主の祈りでイエス様は「天に御心が成るように、地でも成りますように」と祈る事を勧めておられます。この地上で神の御心に沿う良い行いが為されてゆく必要があるのです。神の御心を知るには神の言葉である「聖書」を読む必要があります。救いの全体像を知る必要があります。ですから「聖書」は「創世記」から「黙示録」まで全体を通して読まなければなりません。私達はキングダムリーダーとしてこの地上にいる限り「良い行い」を為してゆく使命があるのです。「よき行い」は伝道や教会員を増やすことだけではないでしょう。すなわち「御心が地でも成るように」神に聞き、神に力と知恵を頂き、行動してゆく使命があるということです。そして、私達の携わっている地上の仕事には意味があるということです。
「主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに、歩むことではないか。」(ミカ6:8)
「公義」とは興味深い言葉ですね。パブリックな義、英語でいうJusticeでしょうか。日本語では社会正義に近いでしょう。Do the right thing.
正しい事をする。不正を暴き、抑圧されている人々を助けること。旧約には孤児、やもめ(現代的にはシングルマザーも含まれるでしょう)、貧困者、在留外国人を助けなさいと何度も出てきます。神はノンクリスチャンも用います。クリスチャンだけが善を為している訳ではありません。クリスチャンだけが神の計画にかかわっている訳ではありません。旧約では神は、異邦人クロス王を用いてイスラエルの捕囚地からの帰還を実現しています。リーマンショック後、ホームレスが急増した時、日比谷公園で派遣村を立ち上げた湯浅誠さんの働きは、その一例と言えるでしょう。ビッグイシューなどホームレスの自立を助けるNPOの働きを神は喜んでくださっていると思います。被災地支援はクリスチャンであろうと、なかろうと神が喜ばれる働きだと思います。神のかたちに造られ、被造物管理権が与えられている人間が環境保全、エネルギー問題、危機管理などに携わる事も御心にかなうことだと思います。ただクリスチャンはその良き行いが誰から託され、誰のためにしているかを知っているのです。
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