「新しいものを展示し、その意味を問いかける実験室、記憶の消滅に対抗するための作品の収集保管(記憶の保管庫)であると同時に、美術館は、非物質的なもの精神的なものとの出会いの場所として、宗教的な礼拝の場所に比較されることが多い。」(「キュレーション」 長谷川祐子 集英社新書)
都会人にとって、日常生活から逸脱する「他なる場」が必要なのだ。かといって全くのユートピアに行く訳にはいかない。そこで美術館や公園、図書館の存在がある。確かに、静かな図書館に座っていると礼拝堂にいるのと同じような気持ちの安らぎを感じ得る。
「美術館は非日常的な空間である。我々は予測可能な日常空間だけでは息が詰まってしまう。予測不可能で非日常的な要素が都市の中には必要で、例えば都市の中に流れている水としての川が、その例である。」(同書p.80)
佃や、豊洲といった水のあるところにいくとワクワクするのは私だけだろうか?私の知人の芸術家は多摩川にスピリチュアルなものを感じるとして、多摩川の絵をよく描いていた。現代人は宗教性を失ったのではない。非日常世界やスピリデュアルな渇きを失ったのではない。ただ、礼拝堂に行く代わりに例えば「映画館」にいって非日常を体験し、魂をリフレッシュし、時に人生を変えるメッセージを受け取っているのだ。これはトーマス・ルックマンが「Invisible Religion 」の中ですでに指摘している。現代でも魂の癒しや高揚は必要なのであって、ただ、現代的なツールにsubstituteしているのだ。いずれにしても会社や学校といった日常空間とは違う「場」で魂の癒しや高揚、すなわちスピリチュアルな体験をしている。それは「遊びの空間」と言ってもいい。
前に紹介した「わが故郷、天にあらず」の中で、ポール・マーシャルは「遊びはクリスチャンにとって最も崇高な召しの1つだ。」と断言している。「私達の生活の多くの時間は、何かを生産したり変えたりすることに使われているが、遊びはそうではない。単純にこの世界でくつろぎ、神との平和を楽しんでいるのだ。」(p.118) さらに「遊びとは理由もなく、することだ。遊びは遊び以外の理由で為されない。・・だが、遊び自体はすばらしく正当で、敬虔な仕事だ。なぜ敬虔なのか?それは役に立たないからだ。遊びは本来、役に立たないものなのだ。・・本当の遊びとは他のどんな理由のためにもなされないものである。・・私達が神を礼拝するのに、礼拝以外の隠れた目的はない。家族や友達と楽しく過ごすのは、それ自体が楽しいからだ。夕日を見つめるのは、それが何かの別の目標達成に役立つからではない。私達が遊ぶのも、それが本当の遊びなら、ただひたすら遊びたいからなのだ。ここで、礼拝、信仰、休息、遊びが互いに関連しているのがわかるだろう。・・・遊びは礼拝に似ている。旧約聖書の箴言は、擬人化された知恵について語っている。その知恵は、主の御前に遊んでいた。」
毎日、毎日、私はそこで遊んでいた。
神の御顔の前で、いつも遊び回っていた。
神の造られた地上でくまなく遊び、
すべての人々と楽しんだ
(箴言8:30−31 カル・スイアフェルト訳)
ユーモラスなマンボウやカメレオンを見る時、神の創造の遊び心を見る。機能だけならこの世界を全部灰色にしても良かった。しかし、この春、美しい桜のピンク色を私達は楽しんでいる。
福音派には敬遠されていたラディカル神学の中に「遊びの神学」というのがある。神は何か不足があって「必要」から世界を造ったのではない。そうであれば神は自己充足の神ではなくなる。「必要」からでなく、世界を造ったのであれば、それは「遊び」ではないかと。不敬虔に聞こえるが一理ある。一番、大事なものはお金で買えない。命はセックスという究極の「遊び」から生まれるではないか。人間にとって一番大事なのは神を「礼拝」することではないか?礼拝は産業とは対極にあるもので、むしろ「遊び」に近い。恋人達のデートに近い。「遊び」はまた、「セレブレーション」と言ってもいい。遊びは祭り(セレブレーション)と親密性がある。プロテスタントにはカトリックに比べ「祭り」や「儀式」が少ない。「世俗都市」で60年代一躍有名になったラディカル神学者のハービー・コックスは「愚か者の饗宴」(1969)でプロテスタントにはもっと「祭り」が必要であると提唱していた。
走り続けていてはいけない。時々、立ち止まって過去を記憶し、瞑想し、祝福する「祭り」が必要なのだ。それが現在を確認し、前に進ませる力となる。イスラエルの人々は、一度進行を止め、「神がここまで助けてくださった」として石を積み上げ記憶した。一週間に一日、安息日がある。リズムがある。それを神は計画された。車のハンドルには「遊び」がある。だからスムースに車をコントロールできる。遊びやしなやかさが無いものはパキンと折れる。だから「遊び」は「仕事」同様、神からの崇高な召しであり、同等に大事なものだ。
また、遊びはセレブレーションであるがゆえ、「笑い」でもある。人生を思い詰めないために言う「ジョーク」は大事な言葉の「遊び」なのだ。仕事が大変な時こそジョークを言う。人を笑わせるコメディアンは、知らずして神の業を為しているのだろう。腹を抱えるほどに笑わせるのは神聖な奉仕だ。その側面がないと人生がパキンと折れる。まじめな人ほど鬱になる。イエスはユーモアを大事にされた。神は冗談がわからない方ではない。
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asktmc@gmail.com (栗原)