2013年3月5日火曜日

セレブレーションの主



 日本のキリスト教界では十字架が強調されるが、そこで止まっている感がある。主は復活した。だから、西洋ではイースターは華々しいお祭りとなっている。クリスマス以上にイースターを祝うべきなのだ。イースターこそ、福音(グッドニュース)の花火。主は死と闇に打ち勝ったのだ。

さて、ヨハネの福音書には7つの奇跡が記されているが、最初の奇跡があのカナの婚礼での水をワインに変えるという奇跡。ラザロの復活と比べると何ともかわいい奇跡。そして、ここのムードはとてつもなく明るい。さて、どうしてこの奇跡が一番始め、イエスのミニストリーのオープニングを飾っているのか?ラザロの復活のほうがドラマチックじゃないのか?しかし、これはイエスの働きのオープニングには相応しかった。イエスは祝宴の席にいた。一緒に飲み食いしていた。イエスはよく一緒に食事をする人。イエスは笑ったかという神学論文があるそうだが、イエスは笑い声のするパーティが大好きだったのだろう。祝宴の席にいただけでなく、水をワインに変えた。みんながもっと楽しくなるように。喜ぶように上質のワインに変えた。(ワインを飲む事が罪ならイエスは絶対にこの奇跡をしなかったはずだ)

水の上を歩くのも凄い奇跡だし、嵐を鎮めるのも凄いが、自然法則がより強い力で治められたということで、質が変わったのではない。ワインの奇跡においてのみ、質が変えられている。H2Oの分子が変わってCH3OHエタノールになった!地味だが、ここが重要。イエスは人生の質を変える。つまらぬ味気ない人生から毎日がセレブレーションの人生へ。

ワインは祝宴のシンボル。ここで神は、人生は本来、主とともに歩くセレブレーションというメッセージを伝えたかったのだと思う。66巻の聖書の真ん中あたりに雅歌がある。難しい律法書でも、神学書でもない。なんとこれはソロモン王が書いた“LOVE SONG”なのだ。しかしこれこそ神と私たちの関係を一番よく描写している。礼拝の本質を一番よく表している。あれしろ、これするなの律法ではなく、愛し愛されているという関係。信仰は愛の祝宴なのだ。事実、イエス様と教会の関係は花婿と花嫁として描かれているし、「礼拝」の語源はkissだという。放蕩息子が戻ってきたとき、それはセレブレーションであった。父は戻ってきた息子をハグして、キスして喜んだ。パーティを開いた。一人の罪びとが悔い改めると天で大きな喜びが湧き上がる。さて、私たちクリスチャンは、どこに向かっているのか? ヘブル12:22にはこうある。


「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝宴に近づいているのです。」 


 私達は滅び、闇、混乱に近づいているのではない。行き着くところはセレブレーション。
 ゴールを知って生きることは大事です。私たちはどこに向かっているのか?以前の天と以前の地は過ぎ去る。新しい天と新しい地がくる。(黙示21:1)そこでの祝宴に近づいている。これが事実なのです。だから、カナンの祝宴はその雛形。だからイエスのミニストリーのオープニングに相応しかった。

 日本には、一生懸命まじめなクリスチャンが多い。しかし、ともするとマリアよりはマルタ、放蕩息子よりはお兄さんのような喜びの無い、律法的なクリスチャンが多い。神はあなたの存在を喜んでいる。三位一体はお互いを賛美し、喜び踊っている姿と言われている。そのよろこびと交わりを体験させたくて神は人を作り、愛を注いだ。

 イスラエルの十一献金について驚くべき箇所がある。申命記14:24−26。

 「もし、みちのりがあまりに遠すぎ、持って行く事が出来ないなら、もし、あなたの神、主が御名を置くために選ぶ場所が遠く離れているなら、あなたの神、主があなたを祝福される場合、あなたはそれを金に換え、その金を手に結びつけ、あなたの神、主の選ぶべき場所にいきなさい。あなたはそこでその金をすべてあなたの望むもの、牛、ひつじ、ぶどう酒、強い酒、また何であれ、あなたの願うものに換えなさい。あなたの神、主の前で食べ、あなたの家族とともに喜びなさい。」

 ここで民が十一献金を用いて飲み食いし、楽しむよう神に命じられている!ということだ。パーティに使われたとも言える。3年ごとに十一献金は盛大な「祭り」のため使われ、みなしご、やもめを養うと共に満ち足りるまで食べて飲んだのだ。祭りはセレブレーションそのもの。さらに申命記14:29には「あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。」とある。すなわち仕事への報いとしての3年ごとの祭りパーティなのである。神はあなたの仕事に報いたいのだ。23節にも捧げたぶどう酒、油、牛、羊の十一を食べなさいとある。十一を神が取り上げるのではなく、民に返されてる。それこそティム・ケラー(NYリディーマー教会牧師)が言うごとく放蕩息子ならぬ、「放蕩の神」なのだ。溢れるばかりに、御子さえも惜しみなく与えたもう神。この神と共に歩から人生はセレブレーション。

 姦淫と人殺しをしたダビデがどうして、イスラエルのヒーローであり、神が高く評価するのか納得がいかなかったが、I歴代誌29章を読んでいる時、その答えを見たような気がした。神のために沢山働いた人は多くいるだろう。犠牲を払った人は多くいるだろう。殉教した人さえいる。しかし、ダビデほど、神を「喜んだ」人がいるだろうか? ダビデはセレブレーションの極意を得ていたのではないか? 王権を息子のソロモンに渡す時の事だ。

 「その日の翌日、彼らは主にいけにえをささげ、全焼のいけにえをささげた。雄牛千頭、雄羊千頭、子羊千頭、これらに添える注ぎのぶどう酒、それに全イスラエルのためおびただしいいけにえをささげた。」(I歴代29:21)

 悲痛な顔を捧げたのではない。喜んで進んで捧げたのだ。そして、1000頭のバーベキューを分かち合って皆で食べたのだろう。次の節にこうある。

 「彼らはその日、大いに喜んで、主の前に食べたり飲んだりし、・・・・」

 まさにそれはセレブレーション。カナの婚宴がダブってくる。

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asktmc@gmail.com (栗原)

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