2014年12月21日日曜日

今だから考える「迫害」



 戦争できる国へと向かう日本
衆議院解散総選挙戦の最中、12月10日「特定秘密保護法」が施行された。消費税増税延期が争点とされ、真の争点が覆い隠される中、自民党の大勝利。とは言っても、投票率は52%で全有権者の3割しか票を獲得していないが・・

今後、4年間の政権下、秘密保護法案、集団的自衛権、憲法改正、この3点セットで戦争への準備が進められていくだろう。次回の選挙は間違いなく、憲法改正が争点となる。先日、亡くなった俳優の菅原文太さんは「日本は今、真珠湾攻撃をした時と大差ないよ」と語っていた。そう感じるのは彼一人ではないだろう。戦争をするには思想統制し、一致団結しなければならない。反対意見は押さえなければならない。メディア統制がじわじわ始まっている。現政権に反する意見を言う放送や記事が益々、少なくなっていくだろう。そして基本的人権(思想、信教の自由)より、国家に使える国民(臣民)というスタンスが盛られた憲法改正(自民党の改正案)となる。皆さん、まずは、現日本憲法と自民党改憲案を読み比べて頂きたい。お薦めは「憲法がヤバい」(白川敬裕著 ディスカバー携書)わかりやすく比較解説している。この時代、教会は、クリスチャンはどう生きるべきなのだろうか? 過去の歴史から何を学ぶのだろうか?


国体を神とした日本の教会
「(ドイツ告白教会がナチズムと果敢に戦っていた)ほぼ同時代の、戦時下の1941年に成立した日本基督教団は、『信仰告白』の事実に直面していたにもかかわらず、そのことの認識を欠き、告白への勇気と責任のないままに問題を回避し(先送りし)て、教会の組織を守ることを第一のこととして、教会合同を推進した。そのことによって教団は、天皇の名による『大東亜戦争』を『聖戦』とし、この不義なる戦争を遂行する国家の一機関となった。ここにこそ、キリストと並んで(その上に)『国体』(現人神天皇によって統治される国柄)を神とし、『皇国の道に従う』教団となった教会の、第一戒への背反の罪責がある。そこにおいては、『自分の生命を救おうと思う者はそれを失う』(マルコ8:35)という主の御言葉が妥当したのである。(『告白と抵抗 ボン・ヘッファーの十字架の神学』森野善右衛門 著 新教出版社 P225)


さらに同書に、こうある。
「皇紀2600年奉祝全国基督教信徒大会」があり教会の自己保存のため教会合同に踏み切った。1940年10月17日、青山学院校庭にて2万人を集めて行われた。大政の翼賛と国への忠義を宣言した。」

ここに日本的転向が見られる。「国体支持」は、他からの非難を免れる「お守り」として機能した。死せる正統教理の残骸。実のところは「国体=天皇」を神としたのだ。体制側につけば、迫害を受けない。国体を神とし、日本教キリスト派となれば、生き残れる。しかし、聖書は「確かに、キリスト・イエスにあっって敬虔に生きようと願うものはみな、迫害を受けます。」IIテモテ3:12)と書いている。

事実、キリスト教(仏教、神道も同様)は生き残りをかけて進んで軍、政府に協力した。立教学院では神主を呼んでチャペルで招魂式を行ったという。信仰の声をあげたのは矢内原や内村。一部のホーリネスの牧師。しかし、救世軍をはじめ、ほとんどの教団が妥協し、戦争をサポートしたという。(「日本の戦争と宗教 1899−1945」 小川原正道 講談社選書メチエ)


沈黙する神?
使徒の働きを読むとペテロは獄から奇跡的な方法で救い出されているのに、ステパノは石に打たれて殉教している。神は助けなかったのか? ローマ皇帝の下、多くのクリスチャンがコロセウムで野獣と戦わされ、あるいは火やぶりになり殉教した。日本でも切支丹迫害が起こり、雲仙だけで20万人が殉教したという。神は助けなかったのか? 遠藤周作はこのテーマで「沈黙」を書いた。神はなぜ迫害のただ中で沈黙してしまうのか? 

満州事変から日中戦争、そして太平洋戦争へと歴史は、押しとどめる事が出来ない泥流のように流れていった。戦争反対論者もいたが、国民の多くを含め軍の戦争推進者達が反対論を飲み込んで行った。極端なナショナリズムと排外主義。いちど天秤が傾くと、反対論者は「時代認識の欠けた者」「非国民」となじられ、押しつぶされてゆく。神はこの悲惨な戦争を止めなかったのか?一旦地滑りが始まると誰も止められなくなる。時代の必須なのか?

ヒットラー下の牧師ボン・ヘッファーは祈った、そして、自分達の信仰を「告白」し、信仰の表現として「抵抗」した。それでも時代は悪化した。ヒットラー暗殺にさえ加わっても阻止しようとしたが、ボン・ヘッファーは捉えられ、殉教する。神は止めなかったのか? ボン・ヘッファーの祈りを聞かれなかったのか・・・


あえて非国民に
ボン・ヘッファーはこう言った。「神の御前で、神と共に、我々は神なしに生きる」

無神論ではない。アメリカで60年代流行った「神の死の神学」でもない。ボン・ヘッファーは「機械仕掛けの神=苦しい時の神頼み」を否定した。成人した世界で生きるには聖霊をいただいたクリスチャンが自ら苦難に直面しなければならない。神は容易に救わない。イエスは敵のただ中で戦った。ドロローサの途上で神はイエスを救わなかった。敵の思惑通り、イエスは十字架についた。

「この世の生活の中で神の苦難にあずかることがキリスト者を造るのだ。」
                     (ボン・ヘッファー獄中書簡)

今後、日本が右翼化し、思想統制が始まった時、恐らく神は容易に救わない。その苦難のただ中にクリスチャンを置かれる。あるものは獄に入れられ拷問をうけ、殉教するかもしれない。第3次伝道旅行からエルサレムに帰郷したパウロは、そこに苦難(縄目と苦しみが待っていると預言者アガボに宣告されている。)があるのを分かりつつも「証し」をするため戻って行ったのだ。

ボン・ヘッファーは、敢えて『ヒットラーのドイツ』に対する『抵抗者』『反逆者』『非国民!』となることによって、『もう一つのドイツ』、真理の道に従うドイツを愛し、キリストへの忠誠を告白した、といえるのではないでしょうか。それは戦時下の日本における、矢内原忠雄、柏木義円、村本一生、石橋湛山ら、非戦平和の道を歩んだ少数者の道に通じるものがあるでしょう。」

(『告白と抵抗 ボン・ヘッファーの十字架の神学』森野善右衛門 著 新教出版社 P57)


イエスの答え

最後に、この件に関してのイエスの答えを紹介しよう。

「また、あなたがたは、わたしのゆえに、総督たちや王たちの前に連れて行かれます。それは、彼らと異邦人たちにあかしをするためです

人々があなたがたを引き渡した時、どのように話そうか、何を話そうかと心配するには及びません。話すべき事は、その時、示されるからです。というのは話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちあって話されるあなたがたの父お御霊だからです。兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子どもたちは両親に立ち逆らって、彼らを死なせます。(その時に助けてあげようとは言っていない)

また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶものは救われます。・・・からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい

・・・ですからわたしを人の前で認める者はみな、わたしも天におられるわたしの父の前でその人を認めます。しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者ならわたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者を知らないと言います。・・・さらに家族のものがその人の敵となります。・・・自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません。

自分のいのちを自分のものとした者はそれを失い、わたしのために自分の命を失った者は、それを自分のものとします。」(マタイ10:18−39)


目を醒して祈っていなさい。
憲法が改正されれば、次は国防軍、徴兵制(あるいは格差社会で広がる貧困若者層が生活手段として軍隊へ)、そして戦場へ。国のために死んだ「英霊」は国が靖国に合祀する・・・靖国参拝は「宗教」ではなく、国民的行事であり、国民的義務となる。国旗掲揚、国歌斉唱同様、靖国参拝を拒む者は国家反逆罪で逮捕。すでにその流れが見えている。

私たちは目の前の苦しみから救って欲しいと祈りたい。しかし、苦しみを逃れるだけなら、「国体」を神とし政府と妥協し、「踏み絵」を踏めば身の安全は図れる。しかし、それでいいのか? また、その過ちを繰り返すのか?国を愛するから、あえて、「非国民」、あえて苦しみのただ中へ、という選択もある。信仰者が目を醒す時なのだろう。

主は言われる。「・・・わたしと一緒に目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目を醒して祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:40−41)


死んで終わりではない
ここまで書いてくると、重いテーマで悲惨な気持ちになるかもしれない。もちろん今の時代、緊張感は必要だが、クリスチャンには大いなる希望があることも忘れてはならない。この地上の死で終わりではない。それは始まりである。

「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすのです。わたしたちは見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。わたしたちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは人の手によらない、天にある永遠の家です。」(コリントII4:17−5:1)

「わたしたちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。そういうわけで、肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。」IIコリント5:8−9)

「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」IIコリント12:10)

「しかし、あなたがたは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の御使いたちの大祝宴に近づいているのです。」(ヘブル12:22)

迫害、殉教と聞くと、私たちは悲惨な面しか感じられないが・・本人の気持ちは知りようが無いのだ。ペテロは牢獄から奇跡的に出されたのにステパノはかわいそうと思いがちだ。しかし、ステパノは石打の中で主を見て歓喜していたのではないだろうか。

「見なさい、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」そして、最後には主イエスと同じ祈りまでした。

「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」

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2014年12月8日月曜日

クリスマス好きじゃないんです!?



すみません、個人的にはクリスマス好きじゃないんです。こんなこと言うとキリスト教界から追い出されそうでが・・・もちろんこれだけ定着しているし、やめろとは言いませんよ。よき伝道の機会にはなるし、それはそれでいいんですが、なんかそれでも違和感があるのです。と言う訳で、今回はひとりごと。聞き流してくださって結構ですよ。




クリスマスはクルシミます。
冗談でこのフレーズを聞く事があります。私も以前、多い時には7回くらいクリスマスイベントに参加してました。しかも、自分の側での企画や奉仕が入っていると忙しくて大変です。もう10数年前になりますが、クリスマスの日、ぎりぎりまでオフィスで仕事をし、夜の教会でのイベント奉仕のために急いで、マックで夕食を済まし(そう、クリスマスなのに一人、マックです!)、会場に駆け込んでバンドの練習、本番、かたずけ、そして、一人で電車で帰宅。子供が小さかったので、家族は参加できず、夜のイベントには私一人でした。何かむなしい気持ちに襲われました。「一体自分は何をやっているんだ。」と。仕事や奉仕に忙しく、いらいらして、レストランで微笑み合っているカップルを横目にうらやましく思ったのは事実です。

宣教団体にいるせいもあって毎年クリスマスにはパーティがあったり路傍伝道があったり、ゆっくり静かに主のご降誕を祝うどころではありませんでした。一体誰のためのクリスマス?「今日ダビデの町であなたがたのために救い主がお生まれになった」そう私の救い主がお生まれになったのに、私は「ヘルプ!」と叫んでたのでした!? 先頃も知り合いのキリスト教会関係の新聞記者が上のフレーズを言っていました。この時期、取材や記事に追われて大変みたいです。家内も2人の息子の学校のクリスマス行事がいろいろあり、そわそわしています。で、ちょっと妄想しちゃいます。12月まったくクリスマスイベントが無くて、普通の礼拝で静かにイエス様の降誕を思いめぐらし、礼拝できたら・・・なんて。ヘンですか?



馬小屋で生まれたイエス様

サンタ、飾り付けられたクリスマスツリー、豪華なホテルでのクリスマスディナーショー、商業的な販売合戦などは言うまでもありません。世の中は仕方ないでしょう。でも、貧しく宿屋にも泊まれず馬小屋で生まれたイエス様を偲ぶはずのに、クリスチャンの集会で、豪華でにぎやかなパーティ?ああ、違和感。いっそ、断食して臭い馬小屋の中で礼拝やってみたらどうでしょう?きっとヨセフとマリアの気持ちがよくわかるんじゃないでしょうか?世界で、初めてのクリスマスは質素で、静かで・・・何か違うんだよなあ。

世の中では子供にプレゼントを買う日。クリスチャンもその風習に染まっています。そんなにクリスマスギフトが欲しいんでしょうか?資本主義に毒された商業クリスマスがクリスチャンをも包み込んでいます。豊かなアメリカの家庭では、子供に、それでも「さらに、何か買わなければならない日」なのです。神はその一人子を下さったのではないですか?それじゃ、足りないんですか?そういう自分も混み合ったトイザラスで、イエス様そっちのけで、レゴのオモチャに目を光らせる自分の子供達を見てうんざりしてます。なんか、違和感。

2005年12月11日、教皇ベネディクト16世はこう語りました。「現代の消費社会の中で、この時期が商業主義にいわば汚染されているのは残念なこと。降誕祭の精神は『精神の集中』と『落ち着き』と『喜び』であり、この喜びは内面的なものであり、外面的なものではない。」

また、2012年12月19日にフィナンシャルタイムズへの寄稿記事で、「クリスマスには聖書を読んで学ぶべきだ。・・・クリスマスはとても楽しいが、同時に深く内省すべき時でもある。私たちはつつましく貧しい馬小屋の光景から何を学べるだろう。」

アーメン! ホームレスミニストリーの日にしたほうがいいのかなあ?


 クリスマスは北欧的
サンタやソリ、クリスマスツリーは北欧的。イスラエル的でさえない。ハワイではどうやってやるのだろう?サンタの衣装は暑すぎる。そもそもはミトラ教の冬至の祭りを転用したみたいですよ。だいたい25日にイエス様が誕生したという確証もないし・・・。だから25日が「キリストの誕生日」なのではなく、「救い主が地上にお生まれになったことを祝う日」という方が正確でしょう。でも ”Happy Birthday Jesus!” と歌っているのを聞いた事がある。

「使徒の働き」にも「新約書簡」にも、クリスマスに言及しているところはないのです。恐らくやってなかったのでしょうね。キリストの死後、300年以上くらいたってから、西方教会で始まったようです。それを北欧スタイルで日本でもやる。教会でも当然のごとくやる。異国へのあこがれとしてはいいのだけれど、雰囲気好きの日本人が雰囲気を味わっているだけ。外国のマネ、それだけ。その証拠に25日をすぎるとガラリと変わり、お正月に突入していく。

誤解しないでください。個人的にはクリスマスのロマンティックなイルミネーションは大好きです。都内では素敵なスポットが沢山あります。普段とは違う「ハレ」の世界が展開します。この季節の楽しみですね。人間世界に「祭り」は必要です。だからいっそ、クリスマスじゃなくて、「光の祭典」にしてしまえばいいんです。変にクリスマスにこじつけるから違和感が生じるのです。商店街から「主はきませり」と「ジングルベル」が一緒に流れてくると何か違和感。日本のクリスマスはキリストの誕生とは何の関係もないのです。最近ではお寺付属の幼稚園でもクリスマスやるみたいですよ。現代のクリスマスは、聖書的には全然クリスマスぽくないので、「サンタ祭」か「光の祭典」が一番しっくりくるなあ〜。


そもそも日曜礼拝って
実はクリスチャンにとっては毎日がクリスマスです。私のために救い主がお生まれになったことを感謝し、礼拝します。つまり、毎日曜、やっているじゃないですか?それで足りないんですか? ところで、クリスマスの賛美って、クリスマス以外に歌えないですよね。「主はきませり」(ところで英語は「Joy to the world 世界への喜び」ですが)、「あらののはてに」など、夏休みに歌ったらヘンと思われちゃう。主のご降誕をクリスマス以外で歌うとヘンと思われるってヘンじゃないですか? いい賛美歌なのに。1年中、「ひさしく待ちにし、主が来られた」ことを歌って賛美していいんじゃないですか?そして25日過ぎると世の中同様、ぴたっと歌わなくなる。何かヘン。


世の中が先、教会が先?
以前いた教会で、サンタが登場して子供達にプレゼントを配るイベントがありました。それをめぐり聖書的かどうかで議論になりました。あまり聖書的とは言えないでしょうが、争点はそこではありません。私が問題にしたいのは、世で流行っているものを教会が遅れて取り込もうとする態度の事です。戦後の教会は「進んで」いました。教会でやることが斬新で珍しかったのです。今では、教会は世の後追いが多いのではないでしょうか?日本ではクリスマスは「光の祭典」であり「サンタの祭り」です。キリストの誕生はどうでもいいか、あっても二義的なものでしょう。「クリスマス=キリストの誕生」という本来の意味で教会が世の中を影響できなかったので、逆に、世ではやっているサンタを取り入れて、何とか人を引き込もうとする根性が好きではありません。教会学校のチラシにサンタの絵があると、う〜ん違和感。やっぱり、日本では世が先なのか・・・教会が後追いなのか・・・と寂しい。まさか、そのうちハロウーンを教会でなんて言わないでしょうね? 


後追いもう、やめましょう。教会発信の「ゴスペル」はいいし、初詣の変わりに「元旦礼拝」を流行らすのはいいですね。世の先を越してカルチャーを作りましょうよ。そろそろクリスマスはこの辺にして、「復活」テーマの「イースター」を教会発信で流行らすとか・・・逆に世を出し抜いて、教会はクリスマスをやりませんというのはどうですかね?「クリスマスをやらないで何するの?」「はい、教会では、キリストの降誕を祝います。」

でも・・まっ、いいか。この季節、みんながハッピーなら・・・

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2014年11月25日火曜日

エクレシア~アウトリーチする共同体



 「教会」という言葉を使うとどうしても「組織」「建物」のイメージがあるので、あえて「エクレシア=キリスト中心のコミュニティ」と呼んでみます。


そもそもの始め
エクレシアは三位一体が反映されています。聖書の神は正確には三位一体教です。多神教ではありませんが、神のうちに父・御子・御霊の3つの人格(神格?)があることになっています。ある神学者はこれを「お互いの周りをお互いが、讃え合い踊っている姿」と表しています。もう一つ分かり易い表現で言えば、一家団欒の姿です。夕食に家族がテーブルを囲んで「顔を向け合い」笑顔で食事をしている姿です。以前も書きましたがヨハネ1:1、「ことば=キリストは神(父)と共にあった」の「共に」は言語では顔を会わせるニュアンスがあります。聖書の神は一人でさびしく黙々と食事をしている神ではありません。団欒のテーブルでは、お互いの愛が表され、コミュニケーションがあります。






交わりの中に救われる
第一ヨハネ1:3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あながたがにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」

仏教では悟りというのがあります。座って悟りに到達するのです。他の人は必要ありません。ところがキリスト教の救いは「交わりに入る」ことなのです。
だからたった一人の救いというのはありません。一家団欒のテーブルに招き入れられるのです。神の家族となるのです。神がもともと三位一体であり、団欒の神なので、当然それが投影され、その愛とコミュニケーションが溢れ流れ孤独な魂に届きます。もともと聖餐式は食事の一部でした。最後の晩餐を見てください。一緒のテーブルについて共に食事していますね。一家団欒です。それが拡張されたのがエクレシア=教会です。

「私は一人で神と交わるため礼拝に行くのであって、他のクリスチャンとの交わりは必要ないし、煩わしい。」という人がいるかも知れません。しかし、先ほどの聖句を見ると「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」と書いてあります。福音が伝えられるのは、すでに信徒である人達との交わりを持つことでもあるのです。もちろん、ある場合、一人で主の前で瞑想すること(あるいは、神様とのデート)が重要であることは言うまでもないことですが。

そういう訳で、エクレシアで一緒に食事をし、近況報告をし、ケアしあい、笑い合い、祈り合うことが自然であり、あるべき姿なのです。


真のエクレシアが出現するところに救いが起る
「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり(=合同礼拝)、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、(=エクレシア)神を賛美し、すべての民に好意を持たれた(=地元コミュニティからの信頼があった)。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:46−47)

この「仲間」になる人が増えていった様子が書かれています。特別な伝道プログラムが無くても、主が救われる人を起こしてくださっていました。このエクレシアは地元コミュニティから信頼され、好意を持たれていました。地元コミュニティからの信頼も無く、嫌われているとしたら伝道は難しいでしょうね。


「チャーチプランティング」より「弟子つくり」
よくチャーチプランティングという言葉を聞きます。日本語では、教会開拓でしょうか?しかし、聖書の中にはチャーチプランティングという言葉は出て来ないのです。主の大宣教命令は「弟子をつくりなさい」であって「教会を建てなさい」ではありません。教会は人々のこと。弟子が集まると、そこが「教会」となるのです。会堂を建て看板を出して人為的に教会を作ることを目指すより、弟子を作り、育てることにフォーカスしたほうが良さそうです。ちなみに弟子とは「学ぶ者」であり、それもカリキュラムを学ぶというよりもキリストというお方に学ぶと言ったほうがふさわしいでしょう。お茶やお花、武道や大工もマニュアルで学ぶのではなく、師匠と時間を過ごし、師匠のやり方を盗んでいくのです。12弟子はキリストと共に生活する中で、その生き様から学んだのです。


霊的に成長するとは?
霊的成長という言葉を聞きます。そのためには礼拝を欠かさず、メッセージを聞く事が大事と言う人が多いでしょう。以前、メガチャーチであるウイロークリーク教会のビル・ハイベル牧師が自分の教会員にアンケートしたところ、クリスチャンになって最初の3年間は成長するけれど、その後は停滞状態となることを発見してショックを受けたといいます。それで彼は礼拝説教だけでなく、弟子訓練が必要だと結論づけました。ところがこの「弟子訓練」もくせ者で、時として単なる勉強会で終わってしまいがちです。「知識が増える」ことと「愛が増す」ことは別なのです。



先日、礼拝にホームレスの人が来ました。牧師はシャワーを貸してあげ、朝食も出してあげました。これは犠牲的な愛の行為です。彼は礼拝に出席しました。フェローシップの時間に、誰も彼に声をかける人がいませんでした。皆、コーヒーを飲みながら楽しそうにおしゃべりしています。私は彼に「お飲物何か、いかがですか?」と訪ねました。礼拝後、お財布がからっぽの彼を昼食に誘って、ごちそうし、お話を聞きました。彼がこう言いました。「礼拝前に声をかけてくれたのはあなただけだった。そして、フェローシップの時間中、誰も声をかけてくれずポツンと一人ぼっちだった。牧師や幹部の人はいいんだけど、一般の信徒がいけない。」その時、霊的成長とは何だろうかと考えさせられました。

汚れたスリーピングバッグを置いて、難しい顔をして座っている彼は確かに近づきがたい様子だったことは分かります。交わりの時間に、信徒同士いつも会っている友達と会って話したいのも分かります。しかし、彼は一人で寂しく座っていたのです。イエス様だったらどうしたでしょう。主の弟子とは弟子訓練の理論がわかっている人ではなく、他の人をケアできる人なのではないでしょうか?他の人の重荷や苦しみを主がなさったように我が身に引き受けることなのではないでしょうか? 他の人に関心を向けるには自己中心だとできません。自分のやりたいことを優先したり、自分のしゃべりたいことだけ話していてはできないのです。そこにイエス様の愛が必要になります。人は皆、自己中心だからです。イエス様だったらどうするだろう?この意識が必要になります。長年、教会に通っていても自分の話ばかりする人は成長しているのでしょうか?親しい人としか話さない人は成長しているのでしょうか?地元のコミュニティのことを考えない人は成長しているのでしょうか?

都心の快適な空間で、スイングできる若者が多いワーシップ。かっこいい牧師が語る魅力あるメッセージ。楽しいでしょう。でも、プログラムに参加し、自分が楽しんで帰るだけなら成長できるのでしょうか?電車に乗って家に帰ったら、地元のコミュニティには無関心。愛が成長しているのでしょうか?

目指したいのはアウトリーチするミッショナル・コミュニティ(神から遣わされた使命を帯びた共同体)ですよね。それも手柄主義ではなく、真の愛から流れ出る・・・


前回書きましたように、愛は至近距離、等身大でないと表せないのです。近くでかかわる関係は少人数のエクレシアでないとできないのです。愛を学ぶのは他の人にかかわることなしにあり得ないのです。霊的成長は少人数のエクレシアで他の人とかかわることで成し遂げられるのではないでしょうか? そしてインターネットの時代だからこそ、「顔と顔」を合わせて定期的に合うエクレシアが必要なのではないでしょうか?




「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)

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2014年11月18日火曜日

「儀式の力」



滝田洋二郎 監督作品「おくりびと」始めて観た時、涙が止まりませんでした。こんなあらすじです。
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チェロ奏者で世界旅行が夢だった、小林。突然、楽団が解散となり、職を失う。実家の秋田に戻り、職を探しているうち、納棺業に。人生って予期せぬことが起こる。夢が破れることがある。でもさらに深い人生の意味を知るようになる。始め、納棺の仕事について、小林は悩む、幼なじみからも、妻からも理解されず、死体と向き合う毎日。「オレはここで何を学んでいるんだろう」やがて、死に旅立つお手伝いをする意味を悟ってくる。誇らしい仕事に思えてくる。

小林が6歳のとき、カフェをやっていた父は女を作って家を出た。その後は母の手一つで育てられた。でも父は音楽を愛し、チェロを教えてくれた。川辺で「石文」(いしぶみ)をやる。石に思いを託して、自分の思いに合った石を交換する。小林は父からもらった石を捨てないで持っていた。父も結局、死に際に息子から(すでに戸籍もはずしてあり20年も会っていない)もらった小さな石を握って死んでいた。その石の思いを小林は生まれてくる子供に託そうと、妊娠中の妻のお腹にそれを当てる。それは、愛されている、気にかけられているというメッセージだったのだ。

遺体に向かって、生きている人は「ありがとう」「すまなかった」と言う。「おくりびと」は遺体を丁寧に拭き、死に顔に化粧をし、男性ならひげをそり、最高に美しい姿で送り出してゆく。はじめに5分遅れたと言って文句言っていた家族も、最後は美しく送り出してもらって、涙ながらに感謝する。

最後、小林の父を自らの手で納棺するところが圧巻だ。葬儀屋がゾンザイに遺体を扱い、納棺しようとする。それに怒りをもって、「自分にやらせてくれ」と言う小林。もう彼はこの時点で心底、納棺師になっていた。やはり、死人でも最高に奇麗に、丁寧に見送ってあげたいのだ。長年会ってなくて顔も忘れている。しかし、ひげをそり、心を込めて整えているうち、顔がよみがえってくる。「おやじだ。」と口に出る。堅く閉じられた手にはあの石が、しっかり握られていた。おやじはどんな気持ちだったか。一瞬たりとも息子を忘れたりはしなかった。申し訳ない気持ちで会えなかった。でも自分の息子なのだ。
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この映画、実は、かなり聖書的なのです。

1. 人生は予期できない。思うようにはいかない。でも、その折々に意味がある。何かを学んでゆく機会なのだ。

2. 死人を美しく送り出すというのは極めて人間的な行為。この映画を見て感動するという事自体。唯物論じゃない。人間の尊厳。美、魂への畏敬が大事。


3. 人間、死んで終わりじゃない。火葬場のオジサンが言うように、死とは「門」だと。次にいくため「通る」ところだと。これで終わりじゃないことは直感で知っている。魂は肉体を離れ、旅立ったのだ。 だからいつか、また会える。

4. 死んでしまうと、その人の大切さが痛感される。だから、もっと話をすれば良かった。もっと感謝すれば良かったと後で思うのだ。愛が深いほど、別れも辛いのだ。愛の反対は憎しみではなく、無関心。


儀礼の力
さて、もう一つ考えさせられたのは、儀式ということ。気持ちの整理をつけるための儀式の役割があるのだなあと感じたのです。葬式自体は儀式です。しかし、単なる儀式とかたずけてしまっていいものでしょうか? 葬式をしないまま、一人の人間が目の前からいなくなっているという現実を「気持ち」が受け入れないのではないでしょうか?「儀式とは気持ちの整理なりけり」。流れるような、納棺の儀で少しずつ気持ちの整理をつけてゆくようです。私たちのようなハウスチャーチ系は、なるべく宗教色を消してイエス様との関係にフォーカスしたいのですが、だからと言ってすべて儀式をカットしてしまっていいのでしょうか? 制度教会を嫌う系だからこそ、儀式の問題を語り合うべきなのです。きっと儀式は人間の文化の中で重要な意味があるのだろうと思います。人間がいるかぎり、葬式はあり続けるのでしょうから。

そんなの送り出す方の心の満足のためだろうと言うかも知れません。それでもいいんです。それも大事だから。送り出す方も納得しないと送り出せないのです。それから、死んだ人はもうイエス様のもとに行っていないのだから、壮大な葬式しても意味がないと思いがちですが、そこにいないだけで、無になった訳ではないのです。肉体を離れたが、霊は存在しているのです。ある意味では「生きて」いるのです。死んだ途端に関係なくなる訳ではありません。それに肉体だって、神が土から作った神の作品なのです。祖末にしていい訳がないでしょう。アブラハムも莫大な財を使ってサラを丁重に葬りました。「気持ちの問題?」それでもいいじゃないですか。それが大事だから。人間物質じゃない。気持ちも大事な人間存在の部分なのですから。


東北の医師、故、岡部健氏はこう語っています。

「戦後の日本では、宗教や死生観について語り、この暗闇に降りてゆく道しるべを示すことのできる専門家が死の現場からいなくなってしまいました。人が死に向かい合う現場に医療者とチームを組んで入れる、日本人の宗教性にふさわしい日本型チャプレンのような宗教者が必要であろうと考えてきました。」

                                  

東日本大震災後、沢山の遺体と接して気持ちが落ち着かない看護婦さん達のために、たまたま近くにいたボランティアのお坊さんを呼んで、お経をあげてもらった体験から儀礼についてこう言っています。

「その儀式、儀礼によってみんなの気持ちがすうっと落ち着いていったんですね。私みたいに医療職をずっと続けてきた人間にとって、そういう儀式というものがここまで人の気持ちを落ち着かせることができるのか、と興味を覚えました。」

被災地での体験から岡部氏はこうも言います。
「極端な例だと被災地ではお化けが見えちゃうような人が一杯出てくるわけですよ。お化け見ちゃったという話は医者には言いません。医者に言ったら病気になっちゃって、病気なら薬使おうという話になっちゃう。そうするとわれわれのほうに出てこない情報がやっぱり宗教者の方にずっと回ってきますし、またなんだかお経でお化けが出なくなったりするんですよね。何故なんだろうという感じなんだけれども(笑)。医療職と宗教職というのは実は、在宅とか地域ケアを担当してゆくときは、イコール・パートナーシップのチームの一員なんだということを、もう一回思い起こさなきゃいかんという気がいたしました。」


私自身、10数年前に父を亡くしました。父は5年に渡る癌との闘病生活に終止符を打ったのでした。身内の死というのは非常に重いものがあります。いろいろなことを考えさせられました。つい、昨日まで手を握れば、握り返していたのに、もう微動だにしないし、冷たくなっているのです。呼びかけても応じないのです。棺おけに入った父を見て思いました。もうここにはいない。ここにはいないがどこかにいる。どこかに行ってしまった。そういう感覚です。葬式、喪の期間という通過儀礼を通して昨日まで存在していた人が目の前からいなくなったことの「納得=心の整理」が必要でした。父は生前、はっきりとした信仰告白はしませんでした。天国に行ったかどうかもわかりません。神のみぞ知るです。それでも私は思いました。父も神に愛され、神から与えられた分、すなわち人生の喜び、悲しみ、苦しみすべて経験し尽くして全うしたんだと。父なりに一生懸命に生きたのだと思います。「よく生きたね。よくやったね。」と言ってあげたいのです。

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japantmc@gmail.com(栗原)

2014年11月12日水曜日

「僕らの常識は宇宙の非常識?」



イギリスの理数学者ロジャーペンローズによれば、相対性理論は99%以上の確立で確証された理論だそうです。佐藤勝彦 著(PHP文庫)、「相対性理論の世界へようこそ」によると・・・


1. 運動している物体の長さは縮む。

2. 動くものは質量が増える。

3. 物質はエネルギーが姿を変えたもの  E=M x C2 エネルギーは質量に光の速度の2乗  
         をかけたもの。

4. 重力は加速度で作り出せる。

5. 加速度(重力が働くと)が加わると時間が遅れる。

6. 物質があると時空が曲がる。

7. 空間が曲がると光の進路も曲がる。

8. 重力圏からの脱出速度が光速に達すると重力崩壊を起し
  ブラックホールとなり、光さえ飲み込まれる。その際、
  多くの粒子がぶつかり合い、熱(X線)を放射する。

9. ブラックホールは実際は球体。

 10. ブラックホールの事象の地平面(表面入り口)の上では時間が凍る。



実際に、宇宙にロケットを飛ばすときは相対性理論を使って計算しているのです。すべてを飲み込むブラックホールがあり、すべてを吐き出すホワイトホールもあるのではという議論もあります。

ハーバード大学物理学女性教授リサ・ランドールは、私たちは異次元世界に囲まれていると公言しています。5次元が存在するというのです。宗教家の妄言ではありませんよ。異次元に天国もありそうですね。



「平行線は交わらない」。僕らの常識でしょう。確かに、ユークリッド幾何学では正解です。しかし、相対性理論だと時空は曲がることになっています。私たちの考えている常識って何なんでしょうね。


電子を電子銃で撃って3つの穴の空いたスリット(壁)に当ててみます、すると1つ2つと数えられる電子は3つの穴を通りすぎて向こうの壁に到達します。物体が一瞬にして波として穴を通過してしまうのです。電子は数えられる物体でもあり、同時に波でもある。何だそりゃ?と言いたいでしょうが、これはもはや物理学の常識です。1つが3つで、3つで1つ。何か三位一体の神のようですね。


復活のイエス様が壁を抜けて弟子達のところに現れたりします。「まさか、ありえない」という事になるのですが、その常識は全宇宙の真実を知った上での常識でしょうか?宇宙を埋め尽くす物質の96%は今だに未知のダークマターとダークエネルギーです。わかっている物質はたったの4%。さらに、科学者の間では、この宇宙は11次元まであるという理論(超ヒモ理論)さえ飛び交っています。




どうです。少し人生観変わりません?

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「異次元は存在する」 リサ・ランドール+若田光一著 NHK出版

 「超ヒモ理論と影の世界」 広瀬立成 著 講談社Blue Backs

「宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった」 佐藤勝彦 PHP文庫

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