2014年11月18日火曜日

「儀式の力」



滝田洋二郎 監督作品「おくりびと」始めて観た時、涙が止まりませんでした。こんなあらすじです。
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チェロ奏者で世界旅行が夢だった、小林。突然、楽団が解散となり、職を失う。実家の秋田に戻り、職を探しているうち、納棺業に。人生って予期せぬことが起こる。夢が破れることがある。でもさらに深い人生の意味を知るようになる。始め、納棺の仕事について、小林は悩む、幼なじみからも、妻からも理解されず、死体と向き合う毎日。「オレはここで何を学んでいるんだろう」やがて、死に旅立つお手伝いをする意味を悟ってくる。誇らしい仕事に思えてくる。

小林が6歳のとき、カフェをやっていた父は女を作って家を出た。その後は母の手一つで育てられた。でも父は音楽を愛し、チェロを教えてくれた。川辺で「石文」(いしぶみ)をやる。石に思いを託して、自分の思いに合った石を交換する。小林は父からもらった石を捨てないで持っていた。父も結局、死に際に息子から(すでに戸籍もはずしてあり20年も会っていない)もらった小さな石を握って死んでいた。その石の思いを小林は生まれてくる子供に託そうと、妊娠中の妻のお腹にそれを当てる。それは、愛されている、気にかけられているというメッセージだったのだ。

遺体に向かって、生きている人は「ありがとう」「すまなかった」と言う。「おくりびと」は遺体を丁寧に拭き、死に顔に化粧をし、男性ならひげをそり、最高に美しい姿で送り出してゆく。はじめに5分遅れたと言って文句言っていた家族も、最後は美しく送り出してもらって、涙ながらに感謝する。

最後、小林の父を自らの手で納棺するところが圧巻だ。葬儀屋がゾンザイに遺体を扱い、納棺しようとする。それに怒りをもって、「自分にやらせてくれ」と言う小林。もう彼はこの時点で心底、納棺師になっていた。やはり、死人でも最高に奇麗に、丁寧に見送ってあげたいのだ。長年会ってなくて顔も忘れている。しかし、ひげをそり、心を込めて整えているうち、顔がよみがえってくる。「おやじだ。」と口に出る。堅く閉じられた手にはあの石が、しっかり握られていた。おやじはどんな気持ちだったか。一瞬たりとも息子を忘れたりはしなかった。申し訳ない気持ちで会えなかった。でも自分の息子なのだ。
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この映画、実は、かなり聖書的なのです。

1. 人生は予期できない。思うようにはいかない。でも、その折々に意味がある。何かを学んでゆく機会なのだ。

2. 死人を美しく送り出すというのは極めて人間的な行為。この映画を見て感動するという事自体。唯物論じゃない。人間の尊厳。美、魂への畏敬が大事。


3. 人間、死んで終わりじゃない。火葬場のオジサンが言うように、死とは「門」だと。次にいくため「通る」ところだと。これで終わりじゃないことは直感で知っている。魂は肉体を離れ、旅立ったのだ。 だからいつか、また会える。

4. 死んでしまうと、その人の大切さが痛感される。だから、もっと話をすれば良かった。もっと感謝すれば良かったと後で思うのだ。愛が深いほど、別れも辛いのだ。愛の反対は憎しみではなく、無関心。


儀礼の力
さて、もう一つ考えさせられたのは、儀式ということ。気持ちの整理をつけるための儀式の役割があるのだなあと感じたのです。葬式自体は儀式です。しかし、単なる儀式とかたずけてしまっていいものでしょうか? 葬式をしないまま、一人の人間が目の前からいなくなっているという現実を「気持ち」が受け入れないのではないでしょうか?「儀式とは気持ちの整理なりけり」。流れるような、納棺の儀で少しずつ気持ちの整理をつけてゆくようです。私たちのようなハウスチャーチ系は、なるべく宗教色を消してイエス様との関係にフォーカスしたいのですが、だからと言ってすべて儀式をカットしてしまっていいのでしょうか? 制度教会を嫌う系だからこそ、儀式の問題を語り合うべきなのです。きっと儀式は人間の文化の中で重要な意味があるのだろうと思います。人間がいるかぎり、葬式はあり続けるのでしょうから。

そんなの送り出す方の心の満足のためだろうと言うかも知れません。それでもいいんです。それも大事だから。送り出す方も納得しないと送り出せないのです。それから、死んだ人はもうイエス様のもとに行っていないのだから、壮大な葬式しても意味がないと思いがちですが、そこにいないだけで、無になった訳ではないのです。肉体を離れたが、霊は存在しているのです。ある意味では「生きて」いるのです。死んだ途端に関係なくなる訳ではありません。それに肉体だって、神が土から作った神の作品なのです。祖末にしていい訳がないでしょう。アブラハムも莫大な財を使ってサラを丁重に葬りました。「気持ちの問題?」それでもいいじゃないですか。それが大事だから。人間物質じゃない。気持ちも大事な人間存在の部分なのですから。


東北の医師、故、岡部健氏はこう語っています。

「戦後の日本では、宗教や死生観について語り、この暗闇に降りてゆく道しるべを示すことのできる専門家が死の現場からいなくなってしまいました。人が死に向かい合う現場に医療者とチームを組んで入れる、日本人の宗教性にふさわしい日本型チャプレンのような宗教者が必要であろうと考えてきました。」

                                  

東日本大震災後、沢山の遺体と接して気持ちが落ち着かない看護婦さん達のために、たまたま近くにいたボランティアのお坊さんを呼んで、お経をあげてもらった体験から儀礼についてこう言っています。

「その儀式、儀礼によってみんなの気持ちがすうっと落ち着いていったんですね。私みたいに医療職をずっと続けてきた人間にとって、そういう儀式というものがここまで人の気持ちを落ち着かせることができるのか、と興味を覚えました。」

被災地での体験から岡部氏はこうも言います。
「極端な例だと被災地ではお化けが見えちゃうような人が一杯出てくるわけですよ。お化け見ちゃったという話は医者には言いません。医者に言ったら病気になっちゃって、病気なら薬使おうという話になっちゃう。そうするとわれわれのほうに出てこない情報がやっぱり宗教者の方にずっと回ってきますし、またなんだかお経でお化けが出なくなったりするんですよね。何故なんだろうという感じなんだけれども(笑)。医療職と宗教職というのは実は、在宅とか地域ケアを担当してゆくときは、イコール・パートナーシップのチームの一員なんだということを、もう一回思い起こさなきゃいかんという気がいたしました。」


私自身、10数年前に父を亡くしました。父は5年に渡る癌との闘病生活に終止符を打ったのでした。身内の死というのは非常に重いものがあります。いろいろなことを考えさせられました。つい、昨日まで手を握れば、握り返していたのに、もう微動だにしないし、冷たくなっているのです。呼びかけても応じないのです。棺おけに入った父を見て思いました。もうここにはいない。ここにはいないがどこかにいる。どこかに行ってしまった。そういう感覚です。葬式、喪の期間という通過儀礼を通して昨日まで存在していた人が目の前からいなくなったことの「納得=心の整理」が必要でした。父は生前、はっきりとした信仰告白はしませんでした。天国に行ったかどうかもわかりません。神のみぞ知るです。それでも私は思いました。父も神に愛され、神から与えられた分、すなわち人生の喜び、悲しみ、苦しみすべて経験し尽くして全うしたんだと。父なりに一生懸命に生きたのだと思います。「よく生きたね。よくやったね。」と言ってあげたいのです。

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意味ある人間関係と祈りで広がるエクレシア
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com(栗原)

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