仏教、神道、キリスト教は生き残りをかけて進んで軍・政府に協力した。
かつてこの国でクリスチャン迫害があった。明治になり、キリシタン禁制の高札が取り除かれたものの、外国人の国内の「雑居」はキリスト教の流入をも意味するとして慎重になり、外国人を居留地に限定した。近代化のため、信教の自由を列強の手前上渋々認めつつも「治安警察法」(1900)などで明治政府は次々とキリスト教取り締まり対策を行っていた。
大正期、日露戦争期に平和運動の主流を占めていたのは社会主義者、キリスト者だった。内村鑑三は「戦争は悪事」として非戦論を唱えた。内村の弟子の矢内原忠雄も「戦争は天下の公義を害する」として批判した。キリスト者の他にも自由主義者、石橋湛山(総理経験者)が植民地の全面放棄を唱えていた。
やがて満州国設立から太平洋戦争に突入する中、軍は宗教を利用して国民の戦気を高揚させた。これに神道はもとより、仏教、キリスト教のリーダー達までが同調し、戦争を「聖戦」として讃歌した。上智大学や立教といったキリスト教系大学でも靖国参拝が奨励され、ミッションスクールで神道儀礼が行われる異例の事態となった。信仰を貫いたホーリネスの牧師など少数派を除いては、宗教界全体が戦争支持、国体維持に傾いた。もちろんそこには激しい宗教弾圧があったからだ。「信仰の自由」、「人権」は「国体維持」の名の下、監視、統制、制限され、ついには弾圧された。ほんの70年前、「殉教」か「生き残りをかけての妥協」かというところまで追いつめられたのだ。
戦後はマッカーサーの政策でキリスト教は擁護される立場になって、長い年月を経てキリスト教界では当時の反省、悔い改めが行われるようになった。
押し付け憲法?
日本国憲法の押しつけ論がよく言われるが、明治憲法はある意味「押しつけ」であった。なにしろ新政府(尊王攘夷派)か幕府(開国派)かで日本を二分して戦っていた訳だから。武力で制圧した方が法を定めた。国民全体の同意とはいいがたい。1874年(明治7年)からの自由民権運動において、さまざまな憲法私案(私擬憲法)が各地で盛んに執筆された。しかし、政府はこれらの私擬憲法を持ち寄り議論することなく、大日本帝国憲法を起草したため、憲法に直接反映されることはなかった。国民投票もなく上から押し付けられた訳だ。
南北戦争後のアメリカも南部の人々にとっては奴隷廃止政策は不本意だった訳だが、北軍の勝利で国の政策となった。それが、「押しつけ」であったとしても結局、アメリカにとってはいい方向だった訳だ。未だに奴隷制度なんてやっていたのでは世界の尊敬は得られない。「自由の国」アメリカというアメリカ精神の理想が現実化していくのには時間がかかっている。理想に向かい、現実を変革していくのであって、現実に理想を引き下げるのではない。ある意味、日本は平和主義、戦争放棄を憲法に謳ってから、まだ70年なのだ。
日本国憲法で保障される人権、自由
少なくも日本国憲法は1945年に20歳以上のすべての国民に選挙権が認められ、国民によって選挙された議会で審議、可決している。選挙権が与えられた戦後、日本国憲法が制定され、憲法の三原則が確認された。
1.基本的人権の尊重
2.国民主権
3.平和主義
実はこれは大きなことで、明治憲法下では「国民」は「天皇の臣民=権力に支配される者」だったのだ。しかし、今、主権は国民にある。その国民の権利を守るため、権威を委任した国家機関が暴走しないよう、権力者を縛るのが立憲主義の憲法である。憲法は国民を縛るのではなく、国民の権利を守るため、権力者に憲法を守らせるものとなっている。そして、国民一人一人には天から授かった権利(自然権)があるとする。したがって、そこから以下の条文が出て来ている。
13条 個人の尊重、生命、自由、幸福追求の権利の尊重
19条 思想及び、良心の自由
20条 信教の自由、国の宗教活動の禁止
今日、9条が論議されているが、9条は後の記事に譲るとして、ここではあえて「人権」問題を取り扱いたい。現憲法では、「出版、その他一切の自由はこれを保障する」となっている。しかし、特定秘密保護法などが可決し、今後、例えば、原発の危険性を書いたら政府からプレッシャーがかかるようになったら危険信号である。
自民党改案で、憲法はどう変わる?
13条
すべての国民が「個人」として尊重される → ・・・「人」として尊重される。
「個人」から「人」に変わっている。理由:個人主義を増長させないため
現憲法では「国」が国民を個人として尊重するとなっているが、改正案では、「日本国民は、・・・基本的人権を尊重するとともに、和を尊び・・・」と基本的人権を尊重する「主体」が国民になっている。また、国民は国家権力者から「和を尊ぶ」よう要求されている。
11条
国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。→ 基本的人権を享有する。
現憲法のほうが、基本的人権が「国家権力」に妨げられないメッセージが強く出ている。
さらに以下のように自民党改正案では「国民」に守らせる憲法内容となっている。憲法を守る主体が「国民」になっている。
3条2項 国民は国旗、および国歌を尊重しなければならない。
(「君が代を国歌と定める」から一歩進んで「尊重」せよとなってい
る点に注意。すでに公立学校で国歌の強要が為され、拒む者が
職を失う事件が起っている。ちなみに現天皇は「強制でないほう
がいい」と発言しておられる。)
9条の3 国は主権と独立を守るため、国民と協力して、領土を保全し・・
(国を守るため、国民が犠牲になるイメージ。太平洋戦争末期、沖
縄で実際起った。日本兵のため食料が取り上げられ、アメリカ兵
が上陸すると国民を置き去りに兵隊が逃げた。「国」という非人
格が主語になっているのも怖い。国と国民は違う。国とは一部の
国家権力者層のことであり、その一部の層の利益のため多くの一
般庶民が犠牲になることが多々ある。実際、戦争になると金持ち
や政治家の息子は徴兵を免れるといったことが起る。)
12条 国民は・・常に公益及び、公の秩序に反してはならない。
(一度、国が決めた戦争が始まると、反対できない。それが公益と
なるからだ。一度、靖国参拝が制定されれば、公の秩序となり、
反対できなくなる。)
19条 何人も、個人に関する情報を不当に取得し、保有し、または、利用
してはならない。
(主語は「何人」であり、「国家」ならやってもいいニュアンスが残
る。治安の目的で個人の宗教背景などが調査されるようになる。)
現行憲法97条 「基本的人権の本質」は削除されている!
現法では、「天皇は日本国民統合の象徴」となっているが改正案では「天皇は日本国の元首」となっている。どうもきな臭い。なぜ、「象徴」のままでいけないのか?
102条 全て国民は、この憲法を尊重しなければならない。
改正案では「規律」「協力」「責任、義務」「公益、及び公の秩序」「助け合い」「和を尊ぶ」というキーワードやキーなる思想が読み取れる。
とにかく現憲法と大きく異なるのは、憲法を守る主体が国家権力から国民の側に逆転していること。上記で見るように、個人より、国家がすることに国民が協力するよう言われている事。それを「和」、「公」という一見、よさそうな言葉で目的化している点。しかし、「国体」に合わぬキリスト教はあっと言う間に「和」を乱す存在、「公の秩序」を乱す存在として権力者から白い目で見られるようになる。国家のために死んだ英霊を靖国に参拝しない者は公の秩序を乱す者となってしまう。初頭に述べたように、「一億火の玉」となる「和」が尊ばれ国民が戦争に駆り出された事実がある。教会やキリスト教系学校さえ妥協して「和」のため、政府や軍に協力していったのだ。それが70年前の歴史的事実なのだ。国体に反するキリスト教出版物は「公益および、公の秩序を乱すもの」として出版禁止になるだろう。こういうブログも閉じられることになる。
最後に憲法改正には衆議院、参議院がそれぞれ、すべての議員の3分の2以上で憲法改正案を決議し、国民投票で過半数の賛成で改正となる。(憲法96条)
国の根幹にかかわる憲法が時の政府の意向で簡単に変えられたいためだ。そのぐらいの重みがあっていいのではないか? 近い将来、国民投票の日が来たときに、その1票の重みを知って頂きたい。
祈り課題
国民の一人一人の「人権」が守られるように。「信教の自由」、「思想の自由」、「表現、出版の自由」、「集会の自由」が守られるように。前の戦争の過ちを二度と繰り返さないためには、私達一人一人が関心を持って注意深く見守り続けていく必要があります。「関心な〜い」人達が一番、権力者にとってコントロールしやすいからです。ヘビのように聡く、ハトのように素直であれるよう。サタンの策略を見抜くことができるよう。総理に、国会議員に、主の知恵が備わるよう。国会に送られているクリスチャン議員のために。何よりも日本国民が、創造主なる神を礼拝し、神の声を聞けるよう祈りましょう!
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「わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口を修復するものを彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。」(エゼキエル22:30)
シングルイシューのセミプロ化。ここでもクリスチャンの関与する場があります。この記事を契機に関心を持って頂ければ幸いです。
推薦本
「憲法がヤバい」 白川敬裕 ディスカバリー携書
「日本の戦争と宗教」 小川原正道 講談社選書メチエ
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御心が天になるごとく、地にも成りますように。
For His Kingdom
Tokyo Metro Community (TMC)
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