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神は死んだのか God’s Not Dead
無神論の講義を取ってしまったジョシュ。最初の授業で、ラディソン教授は「神は死んだ」と書くように学生に強要した。ジョシュは、クリスチャンなので書けないと拒否するのだが…。ついに教授は「神がいることを証明しろ」と、ジョシュに命じるのだった。実話をもとに映画化。“神は死んだのか、死んでいないのか”をすべての人に問う作品。
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今年のクリスマスから来年にかけて、クリスチャン映画が目白押し。この作品の他に、「天国は本当にある」、福音書の映画化「The Son of God」それに携挙をテーマにした「レフトビハインド」、「ベンハー」のリメイク版や出エジプト記の「エキソダス」。また「大草原の小さな家」の映画化もされるそうです。NHKのドラマも同志社創立者、新島譲の妻の物語「八重の桜」に続き、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」とクリスチャンものが続いているのも興味深いですね。
今回は特に、私が試写会で見て来た「神は死んだのか?」について書いてみます。まず、このダイレクトなテーマ。ここでの神はキリスト=創造主という前提になっています。その神が存在するのか、しないのか、がテーマの作品。これを一般の配給会社が権利を買い取って一般劇場で上映しようという事実にまず、驚きます。70年代ならともかく、このようなダイレクトなテーマを今日上映するという事意味は何なのだろうか?
東日本大震災直後、セブン銀行の会長はこう語りました。
この大震災は日本の次の生き方を考えなさいと神が与えたチャンスと考えるべきだ。(安斎隆 セブン銀行会長 読売新聞2012年1月18日論点)
確かに、あの時は、神に意識を馳せるチャンスだったのでしょう。残念ながら、震災から4年半も経つと被災地以外では、あの惨事も人々の記憶から薄らいでいくようです。再び、「きのうが来るように、今日が来て、また明日が来る」というルーティンに戻っているような気がします。政府も次の生き方を考えるどころか、いつか来た道を繰り返すような歩みをしているようです。今、再び神を問いかける時期なのかも知れません。
この映画では、クリスチャン学生のジョシュが哲学の授業で「神存在の弁証論」をプレゼンします。よく議論される神存在証明の基礎要素をカバーしています。私なりに要約して説明します。
1.宇宙の起源。
ビッグバン理論は創造論に近づいています。アインシュタインの時代までは、宇宙は不変と思われていました。しかし、相対性理論を押し進めたロジャー・ペンローズとスティーブン・ホーキングは宇宙のはじめの質量ゼロ、エネルギー無限大という特異点(Singular point)を発見しました。また、宇宙は単に出来たのではなく、素晴らしく精巧に出来ているのです。これには偶然ではなく、微調整(find tuning)が必要です。知的存在を起源に考えないとあり得ないのです。さらに詳しく知りたい人は私のブログ「科学が聖書に近づいた」http://blog.livedoor.jp/digjinsei-science/ をご覧下さい。
「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」(ローマ1:20)
2.人格の起源。
クリスチャン哲学者のフランシス・シェーファーが分かり易い説明をして
います。もし、世界の始めに人格なる神がいなかったとすると・・・
人格を持った人間=非人格+偶然+時間となります。偶然と時間さえ費や
せば人格が生まれるのでしょうか? 無神論者でも自分が「非人格=石」
とは違う人格を持った存在であることは知っています。いや、サルと同等
扱いされても怒るでしょう。この映画でもプライド高い無神論者の教授は
自分の尊厳が傷つけられたことに怒るのです。それ自体、人格を認めてい
ることになり、人格の起源を説明しなければならなくなります。
3.道徳の起源。
なぜ、世界は、人身売買、子供売春、子供の虐殺に反対の声をあげるので
しょうか?なぜ、社会悪や不平等に声を挙げるのでしょうか?精神科医の
香山リカさんは、その著書「弱者はもう救われないのか?」で、そもそも
どうして貧しい人々を助けなければならないのか?と疑問を投げかけ、結
局、神様を考えないと答えは難しいと言っています。善悪を論じること事
態、「義なる神=善悪の判断基準」があるという仮説に導かれます。ドスト
エフスキーは、「神が存在しないなら、どんなことでも許される」と語って
いますが、正に的を得た発言です。
3:11後は、「どうして神がいるならこんな悲惨な事が起るのか?」といった神への疑問も投げかけられました。それも又、神を「意識」する一つの形なのでしょう。この映画の中の無神論教授の無神論も信仰深かった母が祈っても答えられずに死んでいったことへの怒りと憎しみを原因としているのです。そして主人公のクリスチャン学生は「いないはずの相手(神)をどうして憎めるのか?」と切り返します。つまり、「いない」というより、祈りを聞いてくれない神を「神として認めたくない」のです。聖書の神(創造主)を否定してしまうと、愛、希望、信仰、善の基盤を失い、人間として相手の「人権」、「人格」を尊重する基盤を失うことにもなるのです。
聖書は「人は神の似姿に創造された」と言っています。すなわち、神が「知・情・意」を持つように、人間もそれら、すなわち人格を持つものとして造られたということです。無神論者は自分の無神論のごとく生きられなくなるのです。無神論を貫いて生きるためには、あたかも「人権」や「人格」が無いかのように生活しなければならなくなるからです。そのように正直に生きようとすると発狂するか、自殺するしかなくなります。誰でも人は、自分が「石」と違う事くらいわかっているのです。被災地では、ご遺体(死体とは言いません)を大切に扱います。人間の尊厳を認めているからです。
もう一つ、通称無神論者は神がいないというより、神にいて欲しくない場合が多いのです。不倫など、自分の不道徳な生活を非難されたくないゆえに、「神はいない」と都合がいいので、「いないこと」にしてしまうケースです。聖書の神はHoly(聖)、 Righteous(義) Loving (愛)。この3つのコンビネーションは他の神には無いのです。神は「聖」であり、「義」ですから、不義や汚れを受け入れません。何でも許す好々爺ではありません。しかし、悔い改めた者をどこまでも赦す愛のお方です。宇宙の主は「聖」であり、「義」であり、同時に「愛」なのです。それは、何と安心できることでしょうか。
こう説明すると、何か難しい映画の印象があるでしょうが、実は、教室の弁証論の部分はほんの一部で、教室以外での感動的な人間ドラマが並行して描かれていて映画として楽しめます。ご心配なく。ただ、突っ込みどころも沢山あります。牧師の車のエンジンがかからないシーンが繰り返されますが、よく意味が伝わりません。また、映画では神=イエスキリストという前提で話が進みます。中国人学生が主人公ジョシュのプレゼンを聞いて神の存在を信じるようになるのですが、それが直、イエスを信じるという告白になっているのは、ちょっと唐突な感じがします。アジアや日本では、アニミズム的な神論への反論が別に必要となるのではないでしょうか?ともあれ、普段考えない「神がいるのか、いないのか」というダイレクトなテーマを話し合う善き機会になることは間違いありません。賛成であれ、反対であれ、映画鑑賞後、議論が盛り上がる事、必至です。是非、お友達と見に行ってください。
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映画公式サイト
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意味ある人間関係と祈りで広がるエクレシア
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