そもそもの始め
エクレシアは三位一体が反映されています。聖書の神は正確には三位一体教です。多神教ではありませんが、神のうちに父・御子・御霊の3つの人格(神格?)があることになっています。ある神学者はこれを「お互いの周りをお互いが、讃え合い踊っている姿」と表しています。もう一つ分かり易い表現で言えば、一家団欒の姿です。夕食に家族がテーブルを囲んで「顔を向け合い」笑顔で食事をしている姿です。以前も書きましたがヨハネ1:1、「ことば=キリストは神(父)と共にあった」の「共に」は言語では顔を会わせるニュアンスがあります。聖書の神は一人でさびしく黙々と食事をしている神ではありません。団欒のテーブルでは、お互いの愛が表され、コミュニケーションがあります。
交わりの中に救われる
第一ヨハネ1:3節
「私たちの見たこと、聞いたことを、あながたがにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
仏教では悟りというのがあります。座って悟りに到達するのです。他の人は必要ありません。ところがキリスト教の救いは「交わりに入る」ことなのです。
だからたった一人の救いというのはありません。一家団欒のテーブルに招き入れられるのです。神の家族となるのです。神がもともと三位一体であり、団欒の神なので、当然それが投影され、その愛とコミュニケーションが溢れ流れ孤独な魂に届きます。もともと聖餐式は食事の一部でした。最後の晩餐を見てください。一緒のテーブルについて共に食事していますね。一家団欒です。それが拡張されたのがエクレシア=教会です。
「私は一人で神と交わるため礼拝に行くのであって、他のクリスチャンとの交わりは必要ないし、煩わしい。」という人がいるかも知れません。しかし、先ほどの聖句を見ると「あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです」と書いてあります。福音が伝えられるのは、すでに信徒である人達との交わりを持つことでもあるのです。もちろん、ある場合、一人で主の前で瞑想すること(あるいは、神様とのデート)が重要であることは言うまでもないことですが。
そういう訳で、エクレシアで一緒に食事をし、近況報告をし、ケアしあい、笑い合い、祈り合うことが自然であり、あるべき姿なのです。
真のエクレシアが出現するところに救いが起る
「そして、毎日、心を一つにして宮に集まり(=合同礼拝)、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、(=エクレシア)神を賛美し、すべての民に好意を持たれた(=地元コミュニティからの信頼があった)。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。」(使徒2:46−47)
この「仲間」になる人が増えていった様子が書かれています。特別な伝道プログラムが無くても、主が救われる人を起こしてくださっていました。このエクレシアは地元コミュニティから信頼され、好意を持たれていました。地元コミュニティからの信頼も無く、嫌われているとしたら伝道は難しいでしょうね。
「チャーチプランティング」より「弟子つくり」
よくチャーチプランティングという言葉を聞きます。日本語では、教会開拓でしょうか?しかし、聖書の中にはチャーチプランティングという言葉は出て来ないのです。主の大宣教命令は「弟子をつくりなさい」であって「教会を建てなさい」ではありません。教会は人々のこと。弟子が集まると、そこが「教会」となるのです。会堂を建て看板を出して人為的に教会を作ることを目指すより、弟子を作り、育てることにフォーカスしたほうが良さそうです。ちなみに弟子とは「学ぶ者」であり、それもカリキュラムを学ぶというよりもキリストというお方に学ぶと言ったほうがふさわしいでしょう。お茶やお花、武道や大工もマニュアルで学ぶのではなく、師匠と時間を過ごし、師匠のやり方を盗んでいくのです。12弟子はキリストと共に生活する中で、その生き様から学んだのです。
霊的に成長するとは?
霊的成長という言葉を聞きます。そのためには礼拝を欠かさず、メッセージを聞く事が大事と言う人が多いでしょう。以前、メガチャーチであるウイロークリーク教会のビル・ハイベル牧師が自分の教会員にアンケートしたところ、クリスチャンになって最初の3年間は成長するけれど、その後は停滞状態となることを発見してショックを受けたといいます。それで彼は礼拝説教だけでなく、弟子訓練が必要だと結論づけました。ところがこの「弟子訓練」もくせ者で、時として単なる勉強会で終わってしまいがちです。「知識が増える」ことと「愛が増す」ことは別なのです。
先日、礼拝にホームレスの人が来ました。牧師はシャワーを貸してあげ、朝食も出してあげました。これは犠牲的な愛の行為です。彼は礼拝に出席しました。フェローシップの時間に、誰も彼に声をかける人がいませんでした。皆、コーヒーを飲みながら楽しそうにおしゃべりしています。私は彼に「お飲物何か、いかがですか?」と訪ねました。礼拝後、お財布がからっぽの彼を昼食に誘って、ごちそうし、お話を聞きました。彼がこう言いました。「礼拝前に声をかけてくれたのはあなただけだった。そして、フェローシップの時間中、誰も声をかけてくれずポツンと一人ぼっちだった。牧師や幹部の人はいいんだけど、一般の信徒がいけない。」その時、霊的成長とは何だろうかと考えさせられました。
汚れたスリーピングバッグを置いて、難しい顔をして座っている彼は確かに近づきがたい様子だったことは分かります。交わりの時間に、信徒同士いつも会っている友達と会って話したいのも分かります。しかし、彼は一人で寂しく座っていたのです。イエス様だったらどうしたでしょう。主の弟子とは弟子訓練の理論がわかっている人ではなく、他の人をケアできる人なのではないでしょうか?他の人の重荷や苦しみを主がなさったように我が身に引き受けることなのではないでしょうか? 他の人に関心を向けるには自己中心だとできません。自分のやりたいことを優先したり、自分のしゃべりたいことだけ話していてはできないのです。そこにイエス様の愛が必要になります。人は皆、自己中心だからです。イエス様だったらどうするだろう?この意識が必要になります。長年、教会に通っていても自分の話ばかりする人は成長しているのでしょうか?親しい人としか話さない人は成長しているのでしょうか?地元のコミュニティのことを考えない人は成長しているのでしょうか?
都心の快適な空間で、スイングできる若者が多いワーシップ。かっこいい牧師が語る魅力あるメッセージ。楽しいでしょう。でも、プログラムに参加し、自分が楽しんで帰るだけなら成長できるのでしょうか?電車に乗って家に帰ったら、地元のコミュニティには無関心。愛が成長しているのでしょうか?
目指したいのはアウトリーチするミッショナル・コミュニティ(神から遣わされた使命を帯びた共同体)ですよね。それも手柄主義ではなく、真の愛から流れ出る・・・
前回書きましたように、愛は至近距離、等身大でないと表せないのです。近くでかかわる関係は少人数のエクレシアでないとできないのです。愛を学ぶのは他の人にかかわることなしにあり得ないのです。霊的成長は少人数のエクレシアで他の人とかかわることで成し遂げられるのではないでしょうか? そしてインターネットの時代だからこそ、「顔と顔」を合わせて定期的に合うエクレシアが必要なのではないでしょうか?
「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」(ヘブル10:25)
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com(栗原)