2015年3月18日水曜日

イエスの宣教



 イエスの来られた目的
「わたしが来たのは、ひつじが命を得、またそれを豊かに持つためです。」(ヨハネ10:10)
「わたしは羊のためにわたしのいのちを捨てます。」 (ヨハネ10:15)

私達へのチャレンジ:あなたが地上にいる目的は何ですか?あなたのため命を捨てた方を、あなたの人生の主として歩んでいますか?自分のための人生ですか?他の人への祝福となるための人生ですか? 他の人のため自分の時間や心を用いてますか?



イエスのミニストリーの対象
「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」(マタイ9:13)

「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たち大ぜい、イエスや弟子たしといっしょに食卓に着いていた。こういう人々が大ぜいいて、イエスに従っていたのである。」(マルコ2:15)

私達へのチャレンジ:私達は誰と食事をしていますか? 沢山のノンクリスチャンと関わっていますか? 


イエスのミニストリーの態度
「わたしが来たのが、仕えられるためでなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、購いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

私達へのチャレンジ:あなたのミニストリーはあなたの名誉や実績のためでしょうか? それともあなたが砕かれるためでしょうか? 伝道やミニストリーを「する」というより、単に心から周りの人々を愛し、仕えていますか?



イエスのミニストリーの動機
「また、群衆を見て、羊飼いのいない羊のように弱り果てて倒れている彼らをかわいそうに思われた。」(マタイ9:36)

私達へのチャレンジ:あなたがミニストリーをする時、憐れみの心が先に動いているでしょうか?



イエスのミニストリーの内容
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って会堂で教え御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」(マタイ9:35)



私達へのチャレンジ:あなたのミニストリーは包括的福音を言葉と行いで表しているでしょうか? 伝道において「神の国」を説いているでしょうか?


 つまり、宣教教育癒し。実際、日本では、キリスト教主義の学校が建てられ、キリスト教主義の病院が建てられ、そして、教会が宣教を担ってきました。残念なことはその連携が十分でなかったことでしょう。また、「福音を伝える」という言葉が少々誤解されてきた感があります。イエスの語った「御国の福音」という言葉に留意すべきなのです。単なる神・罪・救いの救霊メッセージだけではなく、「神の国」、すなわち、神の平和、義、愛の支配が、すでに始まっており、やがて全的支配が全被造物に及ぶという壮大なメッセージが語られているのです。イエスの宣教の開口一番は

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)

だったのです。

「その後、イエスは、神の国を説きその福音を宣べ伝えながら、町や村を次から次に旅をしておられた。12弟子もお供をした。」(ルカ8:1)

ここでも「神の国」が先で、神の国に関する福音(グッドニュース)を伝えておられる。ルカの福音書を読むと「神の国=神の支配」の到来の証としての悪霊追い出し病気の癒しの記事が、これでもかというほど出てきます。

「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」(ルカ11:20)



イエスの弟子のミニストリーの内容





イエスがミニストリーなさる時、初めは、弟子達がお共していました。イエスのお働きを観察していたのです。ルカの9章を見ると、いままで観察していた弟子達が、今度は派遣されることになります。ここでも言葉だけの宣教ではないことが明白です。

「イエスは12人を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになった。それから、神の国を宣べ伝え、病気を直すために、彼らを遣わされた。」(ルカ9:1)

「こうして12人が出てゆき、悔い改めを説き広め、悪霊を多く追い出し大ぜいの病人に油を塗っていやした。」(マルコ6:12−13)

力ある業は付随的に少々起ったのではなく、多く、大勢の人に起ったのです。弟子のミニストリーの大きな部分だったことがわかります。福音が神の国(神の支配)をもたらすことを証するためです。

「なぜなら福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」(Iテサロニケ1:5)


10章に進むと今度は、イエスご自身の働きを70人に分担して、お遣わしになっています。

「その後、主は別に70人を定め、ご自分が行くつもりであったすべての町や村へ、ふたりずつ先にお遣わしになった。」(ルカ10:1)

ここでも宣教の内容は「神の国」の到来でした。(ルカ10:9)そして、弟子達の報告で悪霊が追い出されたことが分かります。(ルカ10:17)12弟子以外の弟子達の宣教も、言葉だけの宣教ではなかったようです。

イエスの昇天後も弟子達は聖霊に満たされ、多くの不思議なわざと奇跡によって宣教が進められていきました。(使徒2:43)イエス昇天後も癒し(使徒3:1−8)、悪霊追い出し(使徒16:18)が行われていたことがわかります。

ちなみにパウロの伝道においては「論じた」(使徒17:2)、「人々と語り合い」(使徒20:7)などという言葉が用いられており、一方的な宣言というより、インターアクティブなスタイルであった印象を受けます。



結論
イエスの宣教のテーマは「神の国」でした。そして、悪霊追い出し、病気の癒しが伴ったことは明白です。12弟子の宣教にも悪霊追い出し、病気の癒しが伴ったことを見てきました。イエス昇天後の使徒たちの宣教にも悪霊追い出し、病気の癒しが伴っていました。知的に福音を語るだけでなく、霊の問題を真っ正面から取り扱っていました。(占いの霊につかれた女の話、使徒16:16など)また、それは、相手の感情を無視しても「福音」を宣言すれば、それで良しとの宣教ではありませんでした。相手の直近のニーズ(病気、悪霊つき)に対処しつつ、人々に「仕えつつ」神の国の到来を語ったのです。なにより、イエスのミニストリーの動機は「深い憐れみ」でした。(マタイ9:36)日本の福音派教会は、ことばだけの宣教に偏っていたのではないでしょうか? 今一度、「福音」「教会」「宣教」について再考する時期なのかも知れません。



「なぜなら福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。」(Iテサロニケ1:5)

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