多くのミッション系大学も生き残りのために妥協していった。そんな中、日清戦争を支持していた内村鑑三は日露戦争での現実に幻滅し、非戦論者になり覇権主義に反対した。大正デモクラシーの「旗手」「立役者」と呼ばれる吉野作造は、海老名弾正の牧する本郷教会へ出席していたクリスチャン。キリスト教の人間観、倫理観に立ち行動した。朝鮮統治への反乱として起った1919年3月1日の「3・1独立運動」にも「長年の伝統を忘れさせて強いて日本人にするのは無理である。・・・朝鮮人に言論の自由を与えよ」と好意的な主張をしている。内村鑑三は「平和は再臨によらずば到達しない。」として、再臨運動=平和運動を全国展開する。
さらに、言葉だけでなく、社会改革や、社会の底辺の人々の救済に立ち上がった救世軍の山室軍平や、賀川豊彦がいたことも忘れることはできない。賀川は労働運動、農民運動、生協運動、平和運動の先駆者にして「神の国運動」を全国展開した希有な伝道者/預言者でもあった。4年8ヶ月貧民街に住み、彼らと生活を共にし、その後アメリカに留学している。その後、その経験から貧しい労働者を救うには、社会改革としての労働組合の組織化が必要と導かれる。クリスチャンとしての賀川はあくまで非暴力による改革を目指すが、過激派から追われる身となってしまう。その後、田舎の貧困解決のための農民運動に身を注ぐ。さらに消費者組会である協同組合をも組織。平和運動に関しては、第一次大戦後に反戦、平和を主張し、タゴール、ガンディ、アインシュタイン、ロマン・ロランと共に「徴兵制廃止の誓い」に署名し、1928年には、全国非戦同盟を結成する。彼は日本キリスト教会の「キリスト教平和使節団」の一員として最後まで戦争防止のため努力した。戦後は日本国憲法第9条を守るための再軍備反対、非武装、原水爆禁止を訴えた。敗戦直後内閣参与となり、「国民総懺悔運動」を展開。1946年には超宗派的な「新日本建設キリスト運動」を宣言。1954年から3年連続でノーベル平和賞候補として推薦された。今日「新しい公共」という理念の下にNPO/NGO運動が盛んになっているが、賀川はその先駆者でもある。これだけ日本社会にインパクトを与えたキリスト者がいたことを誇りに思いたい。
労働運動も、農民運動も、無産政党運動も、消費組合運動も、すべては賀川にとって「社会悪」との戦いであった。それは突き詰めれば人間性の問題=罪であることを認識し、基本的には魂の救済であることを確信していた。しかし、賀川は魂の救済と生活の解放とを分離することができなかった。そういった二分法は存在しなかったのだ。イエスを模範とし孤独な戦いに入っていった。これはある意味で宗教改革でもあり、信仰を精神界に閉じ込め、福音を教会の中に安置しておこうとする当時の教会に対する革新運動でもあったのだ。彼は言う。
「私は今日の教会とは行く道を異にしております。それは今日の教会は小さい罪を八釜敷云うて、大きな資本主義の罪を脱がしていることです。私はこの点において今日の教会の行っている安易な道を歩きたくはありませぬ。・・私は近頃益々、今日までのキリスト教の行く可き道の間違っていることを思います。それと云うもの愛の生活が無いからです。教会に行っても助け合いが無いので、実に冷やっこいものであります。・・今日の教会の状態では、到底日本を救うことは覚束ない。そこには熱心さが欠けているし、愛が希薄である。」
退廃する日本社会の中で、しだいに彼の声に賛同する者が出て来た。沈滞したキリスト教界は、新しい「神の旋風」を待望していた。彼は教会の沈滞を憂い、労働階級や農民のように教会も「協同戦線」に結集する必要を痛感していた。
「私はこの際団結して大運動を起こすべき時が来たと思います。今のように教会が家庭会のようであったり、牧師が家庭教師のような状態では、時代に対する予言者的行動は取れません。すべてを投げ出して猛進すべきではないかと思います。」こうして様々な社会活動の後には宗教運動に熱中するようになった。
「当分の間は飯も食わずに伝道するつもり」とまで言っている。こうして1928年から1929年の間、日本全国を廻り伝道講演会を開催し、千人単位の人々が決心していった。1929年11月には東京で「神の国運動」全国協議会が開かれるまでになった。こうして神の国運動は日本の各教派をうって一丸とする全日本キリスト教会の伝道運動へと発展した。この全国協議会の夜、日比谷公会堂で開かれた「宣教70年記念、神の国運動宣言信徒大会」で「日本教化の理想」と題して講演した。
「絶望するな、神は我々が絶望する時に、希望を備え給う。聖霊は日本国土を覆っている。我々の要求するのは実行である。物を云わぬ代わりに、善きサマリヤ人の親切である。従って、これからの神の国運動は、農村に、役場に、街に、工場に、我々が無言の十字架を背負って帰って行くことである。我々はこの愛の運動にもう一度帰らねばならない。」
「神の国」は賀川の生涯を貫く中心テーマであった。神の国は抽象的、観念的世界ではなく、衣食住をも支配する具体性をもつ世界だった。神の国が霊的な世界であると共に経済的、社会的なものでもあり、両者の統一として理解されている点では始終異なることはなかった。その意味で労働運動も農民運動も彼にあっては神の国運動の一翼にほかならなかった。
「宗教家であるのに、社会運動をするのは俗物だとある人は云うかも知れぬが、イエスの弟子であるから、私達は社会運動をするのである。」
「イエス・キリストは、『御国を来らせたまえ』と祈る事を教えておられる。宗教が1つの社会性を帯びていることを疑ってはならない。我々はイエスの運動が神の国運動であったことを記憶する必要がある。」
賀川は伝道が、教会堂のなかに閉鎖され、個人主義に毒されていることにその不振の原因があると確信していた。3:11以来、東北では宣教ではなく、「宣証」、そして、教会は「よき業、宣証共同体」であるという運動が起っているが、賀川の「神の国運動」を思い起こさせる。今だからこそ、もう一度賀川に学ぶ必要があるのではないだろうか?
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推薦図書
「賀川豊彦」隅谷三喜男 岩波現代文庫
賀川豊彦WEB博物館
http://www.kobe.coop.or.jp/about/toyohiko/
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)
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