2020年6月25日木曜日

取り戻された栄光


~第一のアダムと第二のアダム~

創造された人間の栄光とほまれ

詩篇8篇3−4
「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますの 
 に、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。
 人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」




 朝起きて「今日は、いい天気だ!」と浴びる太陽の光は約8分前に太陽を出た光だ。光の速さは1秒間に30万キロ進む。地球を7回り半だ。私たちの太陽系(水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星)は私たちの銀河の端に、ちょこっと存在している。私たちの銀河の直径は10万光!それで驚いてはいけない。私たちの銀河の一番近いお隣さんの銀河がアンドロメダ銀河、そこまでが230万光年!光の速さで230万年かかるのだ。それで驚いてはいけない、そのような銀河がこの宇宙には2000万ほどあるという。今、分かっているだけで宇宙の端まで137億光年。気が遠くなりすぎる距離だ。その中で人とは何者なのだろうか?この宇宙を意識し、自分を意識する人とは?

宇宙創造の神がこれに目を留めるとは!詩篇の著者の質問は当然な質問であり、当然の驚きなのだ。

さらに5節
「あなたは人を神よりいくらか劣るものとし」、(新改訳第3版)

2017年版では「御使よりいくらか劣る」となっている。原語はどちらにも訳せるが、ここでは「神より」がふさわしい。御使は人に使える霊で、すでに人より低いポジションにいる。(ヘブル1:14)また、詩篇8章の以下の部分につなげるには、神の似姿に作られた人(創世記1:27)というイメージでなければならない。人間には被造物の頂点に立つ「栄光」が、本来あったのだ。

「これに栄光と誉の冠をかぶらせました。」

6−8節は人間の被造物管理権について書いている。

「あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。すべて、羊も牛も、また野の獣も、空の鳥、海の魚、海路を通うものも。」(詩篇8:6−8)

詩篇の著者がこれを書いた時、創世記1章27−28が頭にあったに違いない。そこと完全に呼応している。

       神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女に彼らを創造した。(神より少し劣るもの)

       神はまた彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 (万物を彼の足の下に)


第一のアダムの失敗

アダムが犯した罪の代償はあまりにも大きい。

  神に不従順、罪を犯し、栄光を失い、死と呪いをもたらした。結果、死が全人類に広がった。(ローマ5:12アダムは罪を犯した人類の代表

  敗者—罪と死とサタンの奴隷
(ヘブ3:15、コロサイ1:3、ローマ8:7

  自然界にも呪いが広がる。
(創世記3:184:12)自然災害、疫病の発生?

  霊的な死:神と裁きと死への恐怖(創世記3:10、エペソ2:12, ローマ6:23,ヘブル9:27

  肉体的呪い:病、老い、死 (ヘブル9:27, Iコリ15:50

  人間関係の亀裂:妬み、裏切り、憎しみ、殺人、差別、弾圧、(創世4:8
テトス3:3、ヤコブ4:2

  人と被造物(動物)の敵対関係と不信(ローマ8:22、黙示6:8

  被造物管理権(創世記1:28)をサタンに略奪され、今はサタンがこの世の神。(創世記1:28, エペ2:1、ルカ4:6

こうして、人間のオリジナルな「栄光」と「ほまれ」、そして「被造物管理権」が失われた。



ヘブル書2章は第二のアダムの上書き
ヘブル2章は難解な箇所だ。通常、詩篇8篇の引用をメシアなるキリストに置き換えて読み、キリストが全てをその足の下に置くと結論つける。しかし、この箇所はもっと深いのだ。メシアが栄光、ほまれを回復し、全てのものを足元に置くのはある意味当然なのだ。しかし、ここでは第一のアダムができなかったことを第二のアダム(人間の代表としてのイエス)が贖い、回復し、人間のために、人間の失った「尊厳」と「ほまれ」、そして「被造物管理権」を奪回したという宣言なのだ

       詩篇8篇は「人」について語っている。人は罪を犯し堕落し、オリジナルな姿を失っている。上記で見たように代償はあまりに大きい。

       現在、人間は、元々有った「栄光」を失っている。地を完全には、統治していない。

       第一のアダムができなかったことを第二のアダム=キリスト(人となった神)がまず初穂として成し遂げ、次に人を贖い、回復して「新人類」の長兄となり、人を御国の「共同相続人」として下さった。今、私たちはアダムの系統の旧人類に属しているのではなく、第二のアダム(キリスト)系統の新人類に属しているのだ。(エペソ2:15、19)旧人類は御国を相続できないが、新人類は御国を相続する。

このようにキリストの苦しみは、ご自分の栄光回復のためだけではない。初穂としてのキリストが通った苦しみは、「多くの子たちを栄光に導くため。」(10節)であったのだ。キリストは神の姿に作られた本来の人間の栄光を取り戻すのだ。やがて人は地の支配権を取り戻し、キリストと共に万物を足の下に置く。(7節)事になる。8節の「まだ、見ていない。」(英語 “Do not yet see”)は、「今は見ていないが、やがて見るようになる。」という意味だ。キリストは人を贖い、回復し、共同相続人として共にメシア王国を統治させる。人間は、キリストと共に文字通り、すべてのものを従わせ、統治するようになる。

第二のアダム=キリストが回復したもの
* 最後のアダムは生かす御霊(Iコリ15:45)。キリストは神に完全に従順な全き人(第二のアダム)。従って「命」そのもの。(ヨハネ1:4、14:6)命にあって支配する。だから人の栄光の回復をもたらす。(ローマ5:14-19新生した新人類の代表、長兄となった。(エペ2:15ヘブ2:10-11

* 勝利者—人に圧倒的な勝利をもたらす。(ローマ8:37Iコリ15:54-57
ヨハネ16:33

* 自然界の回復をもたらす。(ローマ8:21、黙示22:3、エゼ47:9-12

* 死から解放し、神との霊的関係を回復し、「アバ父」と呼ぶ関係にして
    くださる。(ローマ8:18:14-16Iコリ15:54-55、ヘブル2:15

 * 復活の体を与える。(Iコリ15:26-55、ヨハネ11:25)朽ちるものが朽ち
   ないものへ。本来、人間は霊と体で出来ている。霊だけで存在する
   のは不完全。御霊の体を頂く。

* 愛する者にしてくださる。(IIテサ1:3、ローマ5:5、ガラテヤ5:22

* エデンの園での動物との信頼関係を回復する。(創世記3:19、イザヤ65:25

* 人間をご自分との共同相続人とし、被造物管理権を回復し、やがて王として御国を治めさせる。(ローマ8:17、黙示20:6詩篇8:5-6、ヘブル2:10-11

人としてこられたメシアの意味は単に私たちの罪を赦し、地獄の代わりに天国へ行けるようにしてくださったということではない。アダムが失ったものをすべて回復するために来られたのだ。そのため、キリストは人となり、第二のアダムとなり、私たちの兄弟となったのだ。

王様マインドで生きる
やがて、キリストと共に「王」として御国(千年王国)を治めることになる。新生イスラエル王国では、王キリストの下、ダビデ首相やネヘミヤ建設大臣、マタイ財務大臣などが任命されるのだろうか?千年王国時代、日本に住むクリスチャンは少ないかも知れない。キリシタン時代殉教した信者も復活して、そこにいるだろう。この地上で生活するとなれば、それなりに仕事がある。患難時代に大災害で荒廃した町の復興事業に取り組むようになるかも知れない。仕事はあるのだ。そういう自覚があるだろうか?

今は言ってみれば「王」になる見習い期間なのだ。良き王は国民の安全と幸せを常に考え、そのように行動する。キリストはそうするだろう。それに習い、今から「王様マインド」で、私たちの社会と関わっていく必要がある。「携挙」があればすべて解決、この世はどうでもいい?これが前の時代の携挙待望論者たちが犯した過ちなのだ。携挙の後には、この地上に戻ってきて「御国」を治める責任がある。そう「この地上に」だ。天に上げられたままでは無い!つまり、今の未完成の仕事は「やがて来る御国」で、完成されてゆく。だからパウロは言った。

「主にあっての(この地での)労苦は無駄でない。」Iコリント15:58)

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2020年6月18日木曜日

白を黒というサタン


フェイクニュースにはファクトで対抗
インターネットの普及で宗教界でも、大きな変化がある。ネットでの救われたユダヤ人の証に感動し、多くのユダヤ人がクリスチャンになっている。エルサレムの書店では買えない新約聖書がネットで直接、読めるようになった意義は大きい。ハーベストの中川健一氏によると、ユダヤ人向けサイトで流行っているのが、「嘘シリーズ」だという。つまり、今までユダヤ教で教えられてきたイエスについての嘘情報を暴き、聖書から反論するという内容だそうだ。

サタンは「偽りの父」。騙しの専門。特にイエス・キリストについての嘘を拡散したいのだ。


ベルゼベル論争
マタイ12章には大変、興味深い記事が出てくる。いわゆる「ベルゼベル論争」だ。これはイスラエルの運命を決めた分水嶺的出来事と言ってもいい。


当時、「口のきけない」人の癒しはメシアにしか出来ない神業と考えられていた。イエスが奇跡を行なって、「口のきけない」人が、ものを言えるようになった。それを見て、人々は「この人はダビデの子(メシア)だろうか?」と言い始めた。そして、そこに居合わせたパリサイ人の顔を伺った。なんとパリサイ人の答えは・・・

「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼベルの力で悪霊どもを追い出しているだけだ。」           (マタイ12:24)

だったのだ! これは当時のユダヤの宗教最高権威者による最終判断だったと言ってもいい。つまり、要は、「神」を「悪魔」だと言ったのだ。神の子ご自身がエルサレムの神殿に来たのに宗教リーダー達は彼を拒否し、捕らえ、町の外で殺してしまった。白を黒と言い、黒を白と言う。これ以上の「嘘偽り」があるだろうか?

ヨハネの福音書では、イエスご自身、パリサイ人こそが、悪魔の子だと反論している。

「あなたがたは悪魔である父から出たものであって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと思っています。悪魔は初めから人殺しで、真理に立っていません。彼のうちには真理がないからです。悪魔は偽りを言う時、自分の本性から話します。なぜなら彼は偽り者、また偽りの父だからです。」  
                           (ヨハネ8:44)

それに対してユダヤ人たちはイエスに言った。「あなたが悪霊に憑かれていることが今、わかった。」(ヨハネ8:52)イエスはパリサイ人を悪魔と言い、悪魔と悪魔側の人間はイエスを悪魔と言う。この大倒錯!パリサイ人だけではなく、そこにいたユダヤ人たちもこのように言ったのだ。メシアとして来たイエスに対する、これが国家的反応だったのだ。闇は光を嫌い、光を追い出し、抹殺しようとする。この世の神であるサタンに奴隷化されているこの世は、「あなたのような救い主は、我々には必要ない!」と言って、今でも、イエスを拒否するのだ。


時代認識とサタンの今
天から追い出されたサタン(黙示12:9)は「自分の時が短いことを知って激しく憤り・・」(黙示12:12)獲物を食い尽くそうと探し回っている状態なのだ。(Iペテロ5:8)

サタンは縛られてはいない。今、大活躍なのだ。今は「千年王国」ではない!ここは戦場だ。だからパウロはエペソ6章で、悪魔に対しての霊的戦いの準備の話をしている。この霊的武具で唯一攻撃に使われる武器が「御霊の剣」すなわち、「神の言葉=聖書」である。イエスご自身も荒野の誘惑の際、御言葉でサタンを退治している。

昔、新入りの銀行員は毎日、本物の札束を数えさせられたそうだ。そうするとその感覚が身に付き、偽札を見分けられるようになると言う。私たちも真理の御言葉に常に触れていることにより、偽物を見抜く「クリスチャンの本能」が育つ。そして偽教師がはびこる中でも、偽りの教えに振り回されなくなる。特に聖書全体の流れ、創世記から黙示録までの神の贖いのプランを把握しておくことが重要なのだ。おみくじ的読み方ではそれができない。

「いちじくの木からたとえを学びなさい。枝が柔らかくなって、葉が出てくると、夏の近いことがわかります。そのようにこれらすべてのことを見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。」
                         (マタイ24:32−33)


イエスは終末の話をする際、このように語られた。「時代認識」が必要なのだ。今がどういう時なのか知っていなければならない。50年前、100年前とは世界が、ガラッと変わっている。特にコンピューターとインターネットの発達は黙示録の世界をより現実的にしている。


サタンの策略を見抜け!
神は一人子イエスを送って人間の贖いを成し遂げてくださった。第一のアダムの罪ゆえに人類と被造物に及んだすべての呪い、ダメージ、喪失を、第二のアダムであるキリストが回復してくださった。失った栄光と誉さえ。(ヘブル2:7、10)しかし、堕落した御使(サタンと悪霊)には救いがない!神はサタンと悪霊(サタンに従った天使の3分の1の反乱軍)のための救いのご計画を持っておられないのだ。つまり、サタンには将来の「滅び」が定まっているだけなのだ。

それでサタンは必死に一人でも多くの(神のお気に入りの)人間を自分の側に引き入れて地獄の道ずれにしたいのだ。そのためにあらゆる策略を巡らしている。(エペ6:11)

この時代に悪魔なんかいないと思わせることが1つ。(しかし、悪魔は現実の存在!)もう1つは、自分を過大評価して誇示し、人を恐れさせ、自分を礼拝させること。しかし、覚えておかなければならないのは、サタンはかつて御使の一人であったということ。すなわち、被造物の1つにしか過ぎない。従って「神VS悪魔」という立ち位置は、実は正しくない。むしろルシファーVSミカエルの方が正確な表現だろう。つまり同じ御使レベルだということだ。サタンは全知全能ではないし、創造主でもない。神のように遍在できないので、1つのところを王座とする。(黙示2:13)そして、神の御意思ひとつで抹殺される。(黙示20:10)イエスの命令には逆らえず、悪霊は出て行くのである。ゲラサ地方の墓場に住んでいた人に入っていたレギオンもイエスを面前に恐れ震え、わめいた。(マタイ8:29)

しかし、サタンは賢いので人を騙すことはできる。そして神に対しての間違ったイメージを吹聴することができる。エデンの園でエバを誘惑した時も、「神は本当に言われたのですか?」(創世記3:1)と神のことばに疑問を抱かせ、神の愛を疑わせ、神への信頼にヒビを入れようとしたのだ。サタンは今も同じことをしている。サタンは何とか聖書の権威を崩そうとしている。人間的知恵で判断させようとしている。聖書より人間理性を上に置かせようとしている。


悪の連携:サタン、この世、罪
「サタン」(偽りの父)と「この世」(神なきこの世のシステム=この世の神はサタン)と人のうちにあって悪に呼応する「罪」、この3つが連携し合って闇の王国を増大させている。偽り満載の進化論や無神論的哲学により「神はいない、神は死んだ」と吹聴し、人が自分の知恵、力でバベルの塔を建てる時代になっている。

不幸が起こると「神がいるならなぜ?」と自分たちの罪は棚上げしておいて、すべて神に責任転嫁する。神はだんだん悪者になっていく。「キリストのみの救い」を主張するクリスチャンは時代遅れの偏狭者扱いされ、心の狭い「原理主義」と呼ばれるだろう。この世が悪魔化されていけば、当然、光であるクリスチャンは悪者になって行く。邪魔な存在になって行く。我らの「師」であるイエスでさえ「悪魔」呼ばわりされたのだ。世の終わりにはこの傾向が強まる。おそらく終末に現れる世界統一宗教によってクリスチャンは激しい弾圧を受ける。聖書も時代遅れの「反体制」の本として非難される。患難時代にはクリスチャンは排除されなければならない存在になる



偽りの三位一体
サタンはカウンターパート(偽物)の専門家だ。三位一体を真似して龍(サタン=偽りの父)、獣(反キリスト=偽の救世主)、偽預言者(獣を拝ませ、獣に栄光を帰す、聖霊のカウンターパート)と悪の「三位一体」を現す。

世の終わり、患難時代には反キリストは世界の「救い主」「平和の君」として登場する。「悪魔」が「神」になる!そして、悪魔が「神」を「悪魔だ」と人々に教え込み、「真の神」を信じる者たちを迫害するのだ。これが偽りの究極。白は黒となり、黒は白となる。

しかし、イエスの再臨により、真っ黒なオセロ盤は真っ白に変化する。闇は光に打ち勝たないのだ。(ヨハネ1:5)イエスの勝利は確定しており、サタンの滅びは確定している。



「彼らを惑わした悪魔は火と硫黄の池に投げ込まれた。そこには獣も偽預言者もいる。彼らは昼も夜も、世よ限りなく苦しみを受ける。」
                        (黙示録20:19)
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私達の選択

キリストに付くのか、反キリストに付くのか?この決断が迫られる。中間は無いのだ。獣に従い額に刻印を受けるのか?それを拒否するのか?

患難期でさえ救われる人は起こされる。しかし、患難期で信仰を保つことは想像を絶する困難を覚悟しなければならない。

「イエスの証と神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストと共に千年の間、王として治めた。」
                         (黙示20:4)

この迫害を耐え抜いた者には報いが保証されている。しかし、出来る事なら患難期前に救い主イエスを信じて、患難期前に「携挙」に与ることが最善の道だ。



「『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン主イエスよ、
  来てください。」              (黙示22:20)

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2020年6月11日木曜日

チャンスは何度も


 愛の神がどうして人を地獄に落とすの?とはよく聞く質問だ。実際、それは人の選択なのだ。時速50キロ制限の曲がり道を100キロで走り、ガードレールを飛び越して崖に落ちて死んでしまったとしよう。死んでしまったのは50キロ制限のサインのせいだろうか?ルールを無視したドライバーのせいだろうか?肝臓の悪い患者に医者が禁酒を命じた。しかし、その患者がそれを無視して酒を飲み続けて死んでしまったとしよう。これは禁酒を命じた医者のせいだろうか?答えは明瞭だ。創造主のルールを無視して暴走すれば、人はその結果を受けなければならない。



「今はどういう時代なのか?
今、私たちが住んでいるこの世界は、もともと神が用意した理想の世界ではなくなっている。現在、コロナウイルスが全世界に蔓延している。多くの人が感染している。死者も出ている。しかし、さらにシリアスなのは、そのようにアダムの罪により罪が全人類に蔓延してしまっているという事。

「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)

今の世はサタンに支配されている。パウロは「暗闇の圧制」(コロサイ1:13)と言っている。パウロはサタンを「この世の神」Iコリ4:4)「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)と言っている。また「この世のすべての国々とその栄華」(マタイ4:8)はサタンに任されていることが分かる。欲に溺れて人の道を外れ、自分や他者を滅ぼしてしまうこともよくある話だ。

従って、今は「地上天国」の時代ではないし、「千年王国」でもない。霊的戦いの戦場なのだ。(エペソ6:11。Iペテロ5:8)

聖書ははっきり語る。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)罪とは神に対する積極的な反抗ないし、消極的な無関心。サタンは神に背き、反抗したので罪に定められている。罪を犯したので「この世を支配するもの」であるサタンは裁かれる。(ヨハネ16:11)神には人類の救済計画はあるが、サタンと悪霊の救済計画はない。サタンの結末はもう定められている。しかし、サタンは一人で地獄に落ちたくない。神が神の似姿に創造した人間を妬み、道ずれにしたいと願っている。それでサタンはあらゆる偽りの無神論的哲学、学説、この世の栄華、魔術、キリスト教カルトなどを使って人を惑わし、自分の方に引き寄せている。サタンは天使の3分の1を自分の軍勢に引き入れたが、同じように人間を自分の軍勢に引き入れてようとしている。多くの人は知らずして騙され、サタンチームに入ってしまっている。その結果は「裁き=死」ということになる。(ローマ6:23)しかし、この聖句では、それと抱き合わせで「福音」が語られている。

「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」  (ローマ6:23)


聖書の神は語る神

「神はむかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1−2)

聖書の神は沈黙の神ではなく、語る神。そして救いを用意する神。アダムが罪を犯した直後に救いを用意された。(創世記3:15)これを原福音という。

大洪水の時も神は、ノアを通してみ言葉を宣べ伝えた。チャンスを与えたにも関わらず、人々はノアをバカにし、信じなかったため滅ぼされている。



その後、頑ななイスラエルの民に「絶えず、しきりに語りかけ・・」「主のしもべである預言者を早くからたびたび送ったのに・・」(エレミヤ25:3−4)イスラエルは聞いていながら、反抗したのだ。(ヘブル3:16)神は常にチャンスを与えてこられた。救いの道を語ってこられた。黙っておられたのではない。

ついには、イエスご自身が来られ、しるし(メシアを証明する奇跡)を伴う宣教活動を行なったが(マタイ4:23−24)、イスラエルはこれを拒否し、神の御業を悪魔呼ばわりし(マタイ12:24)、せっかく送られた神の子を十字架につけてしまった。

しかし、神は聖霊を送り、今の時代を呪いではなく「恵の時、救いの日」として(IIコリント6:2)「宣教の言葉の愚かしさを通して、信じるものを救おうと定められたのです。」(Iコリント1:21)

また預言の成就を通しても、神の存在と真実さを証明してこられたのです。
(すでに前回までのブログで書きました。)イスラエルの再建は世界に証明した神の奇跡の1つです。

患難時代前の大チャンス
患難期前に起こる最も驚くべき2大イベントが、「携挙」(Iテサロニケ4:16—18)と「エゼキエル戦争」(エゼキエル38)だ。患難期が「主の日=神の怒りの時」だとすると罪赦され、神の子となったクリスチャンがそれを通過する理由はない。「携挙」は患難時代前に起こると思われる。実はこの2つの大イベントは神を信じない人々への大きな証のチャンスでもある。どちらが先に起こるかは分からない。しかし、「エゼキエル戦争」が「携挙前」に起こることにより、神はご自分を信じるチャンスを与え、患難期を通らなくていい人々をさらに多く起こすことは考えられることであろう。

なぜなら「エゼキエル戦争」の結果は、38:17−23に詳しく書かれているが、神ご自身の介入により、地震、豪雨、雹、火、硫黄、疫病、同士討ちにより、イスラエルは戦わずして勝利する。どう見ても超自然的な勝利となる。この不思議な結果は世界の大ニュースになる。そして、「多くの国々の見ている前でわたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(38:23)とあり、その目的は宣教であることが明らかだ。

そして、「携挙」により世界中で多くのクリスチャンが一気に天に引き上げられ消失するとなれば、これまた世界の大ニュースになる。これにより、名前だけのクリスチャンは目が開かれ、真の信仰に導かれ、ノンクリスチャンの多くも聖書に興味を持つようになるだろう。今youtubeで語られている「携挙」のメッセージは大いに役立つだろう。

従って、この2つの大イベントは患難期前に神を知るチャンスなのだ。これがなければ、人々はいきなり患難時代に突入することになる。



患難時代にもチャンスがある!
二人の証人
患難時代に突入してしまってもチャンスはある。神は見捨てていない。神はエルサレムに二人の証人を立て、不思議な力を与え、力強い福音メッセージを発信させる。(黙示録11章)インターネットの時代、世界中で、このメッセージが放映され、福音が宣べ伝えられる。彼らが死んだ時、諸々の民族、部族、国民に属する人々が彼らの死体を眺める。」(黙示11:9)とある。死んだ様子がインターネットで全世界に流れる。神はそのことを折り込み済みで、この時期に、二人の証人をお立てになる。当然、生きて活躍している時のメッセージも流れるということである。(口から火を吐く説教者たちはワイドショーのトップニュースになるだろう。)

14万4千人の証部隊
またイスラエルの子孫のあらゆる部族、14万4千人も世界中で福音を宣べ伝える。(これを現在の「教会」と解釈する聖書学者もいるようだが、わざわざ「イスラエルの子孫のあらゆる部族」(黙示録7:4)とあるものを「教会」と解するのは無理があろう。)患難時代は信者として生きることは大きな犠牲を伴う。反キリストからの迫害は強烈なものだろう。しかし、それでも信者になるものが起こされ、天に帰っている。(黙示7:14)インターネットの普及により、ユダヤ人が新約聖書に触れ易くなった。また、ネット上の救われたユダヤ人の証にもアクセス可能となった。神はこの時期を見越して14万4千人をお立てくださるのだ。こうしてローマ11:25−26「こうしてイスラエルはみな、救われる、・・」が成就する。

御使による世界宣教
「またわたしは、もうひとりの御使が天中を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。『神を恐れ、神を崇めよ。神の裁きの時が来たからである。天と地と水の源を創造した方を拝め。』」             (黙示14:6−7)



ついには、御使が全世界を隈無く回って福音を宣べ伝え、宣教の総仕上げをする。(マタイ24:14) 最後の審判の前に、一人残らず福音を聞くためである。神はここまでするのだ。

ある意味、患難期の患難は神を知らしめる機会でもある。出エジプト時のパロに降った神の災害のようなものだ。パロは神を認識していながら、心を頑なにした。(悔い改めるチャンスだったのに!)逆に神との対決を挑んだのだ。患難期の人々も、この災害の中で悔い改めるチャンスなのに、多くの人は偶像を拝み続け、悔い改めないのだ。(黙示9:21、16:9−11)ただし、天の神を崇める人も出る。(黙示11:13)

千年王国後のチャンス
なぜ、千年王国後、サタンはもう一度解き放たれなければならないのか?理解に苦しむところであるが、こう考えられないだろうか?エデンの園のアダムのように、サタンに従うのか、神に従うのか最後のテストが与えられたと。千年王国は新天新地ではない。諸国の民はイエスご自身が王として君臨されたので、ある意味、従わざるを得なかっただろう。ただサタンが縛られているので誘惑する者がいないのだ。従って不従順が表面化しない。千年王国後、サタンが解き放たれ、選択のチャンスが与えられる。これは最後のチャンスと言える。ここでサタンに従う決心をすれば結果、「火の池」であり、キリストに従う決心をすれば「新天新地」なのだ。神はチャンスを与えた。しかし、残念ながら多くの人々がサタンに従うようである。(黙示20:8)

白い御座のさばき
これは携挙された信者、また患難期の信者には関係ない。すでに罪赦され救いに預かっている。ここでは歴史を通して神を信じなかった人々が裁かれる。ハデスに拘留されていた人が全て神の前に出る。(20:13)行いに応じて裁かれるとは裁きに軽重があるということだ。(黙示20:13)

しかし、疑問が浮かぶ。
  なぜ拘留期間(ハデスでの拘留)が必要なのか?拘留期間なら最終的裁きの
時(白い御座の裁き=死刑宣告)の前に、悔い改めるチャンスがあるのではないか?
  逆に、ハデスがすでに「裁きの場=死刑宣告」ならば、なぜ、もう一度引き出されて審査され、また「火の池」に改めて投げ入れられるのか?悔い改めの可能性が無いなら、「命の書」をもう一度出して審査の必要も無いのでは無いか? 
  なぜ信じない者は死んで即、火の池(死刑執行)ではないのか?

拘束されて「懲らしめを受ける=更生」ことと、死刑宣告されて処罰される「存在が抹殺される」こととは違う。拘留期間に悔い改めたらどうなるのか?なぜ、白い御座のさばきで、「いのちの書」がわざわざ開かれるのか?(20:12)拘留期間に救われる人がいるので、その確認なのか?正解は分からないが、拘留期間(ハデスにいる間)に地上で聞いた福音を思い出し、悔い改め、白い御座のさばきの時に、「自分が間違っていました、あなたを信じます。」とう人が出ないとも限らないではない? 

ただし、この考えは今のところ聖書的根拠が薄いとして受け入れられてはいない。また、あの患難期の激しい災害の中でも逆に神に文句を言って悔い改めない人がいる(黙示9:20−21、16:9−11)ことを考えると、ハデスにいても頑固に悔い改めないのかも知れない。私も疑問として提示しているだけで、この考えを支持している訳ではない。

ともあれ、見てきたように、神は語りかけて来られた。神は幾重にもチャンスを与えて来られた。これでもか、というほどにである。そして、以下の御言葉ほど神の御心を示しているものはないのだ。

「わたしは誓って言う。神である主の御告げ。わたしは決して悪の者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜあなたがたは、死のうとするのか。」          (エゼキエル33:11)


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重要なメッセージ

確かに、チャンスは何度もある。しかし、そのチャンスをものにしなければ、その結果もあるのだ。ヘブル書12章には、2つの対照的な将来図が描かれている。

「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。


しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い(新改訳3版では「大祝会」)、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」
                   (ヘブル12:18−25)

前者は「弁護者イエス」がいないまま、創造主の前に立つ姿であり、そこでは聖なる神の御前に恐れおののく罪びとなる自分の姿しかない。しかし、後半は「贖い主イエス」に救われ、弁護され、新しい契約に入った安心した自分の姿が描かれている。赦された者が向かっているのは、喜びの「大祝宴」なのだ。なんと言う幸いだろうか。だからこそ、聖書は続けてこう語っている。

「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私達が、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」
              (新改訳第3版 ヘブル12:25)

また同じ章で、長子の権利を一杯の食物で売ってしまったエサウの例を挙げている。

「後になって、祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
                       (ヘブル12:17)

神に心を変えてもらう余地が無くなる前に、創造主に立ち返り、創造主に祈ることが必要なのだ。」

神は今、忍耐して待っておられる。
「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」  (IIペテロ3:9)

「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。
                     (伝道者の書12:1)

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