「今はどういう時代なのか?
今、私たちが住んでいるこの世界は、もともと神が用意した理想の世界ではなくなっている。現在、コロナウイルスが全世界に蔓延している。多くの人が感染している。死者も出ている。しかし、さらにシリアスなのは、そのようにアダムの罪により罪が全人類に蔓延してしまっているという事。
「そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)
今の世はサタンに支配されている。パウロは「暗闇の圧制」(コロサイ1:13)と言っている。パウロはサタンを「この世の神」(Iコリ4:4)「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)と言っている。また「この世のすべての国々とその栄華」(マタイ4:8)はサタンに任されていることが分かる。欲に溺れて人の道を外れ、自分や他者を滅ぼしてしまうこともよくある話だ。
従って、今は「地上天国」の時代ではないし、「千年王国」でもない。霊的戦いの戦場なのだ。(エペソ6:11。Iペテロ5:8)
聖書ははっきり語る。「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)罪とは神に対する積極的な反抗ないし、消極的な無関心。サタンは神に背き、反抗したので罪に定められている。罪を犯したので「この世を支配するもの」であるサタンは裁かれる。(ヨハネ16:11)神には人類の救済計画はあるが、サタンと悪霊の救済計画はない。サタンの結末はもう定められている。しかし、サタンは一人で地獄に落ちたくない。神が神の似姿に創造した人間を妬み、道ずれにしたいと願っている。それでサタンはあらゆる偽りの無神論的哲学、学説、この世の栄華、魔術、キリスト教カルトなどを使って人を惑わし、自分の方に引き寄せている。サタンは天使の3分の1を自分の軍勢に引き入れたが、同じように人間を自分の軍勢に引き入れてようとしている。多くの人は知らずして騙され、サタンチームに入ってしまっている。その結果は「裁き=死」ということになる。(ローマ6:23)しかし、この聖句では、それと抱き合わせで「福音」が語られている。
「罪の報酬は死です。しかし神の賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。」 (ローマ6:23)
聖書の神は語る神
「神はむかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。」(ヘブル1:1−2)
聖書の神は沈黙の神ではなく、語る神。そして救いを用意する神。アダムが罪を犯した直後に救いを用意された。(創世記3:15)これを原福音という。
大洪水の時も神は、ノアを通してみ言葉を宣べ伝えた。チャンスを与えたにも関わらず、人々はノアをバカにし、信じなかったため滅ぼされている。
その後、頑ななイスラエルの民に「絶えず、しきりに語りかけ・・」「主のしもべである預言者を早くからたびたび送ったのに・・」(エレミヤ25:3−4)イスラエルは聞いていながら、反抗したのだ。(ヘブル3:16)神は常にチャンスを与えてこられた。救いの道を語ってこられた。黙っておられたのではない。
ついには、イエスご自身が来られ、しるし(メシアを証明する奇跡)を伴う宣教活動を行なったが(マタイ4:23−24)、イスラエルはこれを拒否し、神の御業を悪魔呼ばわりし(マタイ12:24)、せっかく送られた神の子を十字架につけてしまった。
しかし、神は聖霊を送り、今の時代を呪いではなく「恵の時、救いの日」として(IIコリント6:2)「宣教の言葉の愚かしさを通して、信じるものを救おうと定められたのです。」(Iコリント1:21)
また預言の成就を通しても、神の存在と真実さを証明してこられたのです。
(すでに前回までのブログで書きました。)イスラエルの再建は世界に証明した神の奇跡の1つです。
患難時代前の大チャンス
患難期前に起こる最も驚くべき2大イベントが、「携挙」(Iテサロニケ4:16—18)と「エゼキエル戦争」(エゼキエル38)だ。患難期が「主の日=神の怒りの時」だとすると罪赦され、神の子となったクリスチャンがそれを通過する理由はない。「携挙」は患難時代前に起こると思われる。実はこの2つの大イベントは神を信じない人々への大きな証のチャンスでもある。どちらが先に起こるかは分からない。しかし、「エゼキエル戦争」が「携挙前」に起こることにより、神はご自分を信じるチャンスを与え、患難期を通らなくていい人々をさらに多く起こすことは考えられることであろう。
なぜなら「エゼキエル戦争」の結果は、38:17−23に詳しく書かれているが、神ご自身の介入により、地震、豪雨、雹、火、硫黄、疫病、同士討ちにより、イスラエルは戦わずして勝利する。どう見ても超自然的な勝利となる。この不思議な結果は世界の大ニュースになる。そして、「多くの国々の見ている前でわたしを知らせるとき、彼らは、わたしが主であることを知ろう。」(38:23)とあり、その目的は宣教であることが明らかだ。
そして、「携挙」により世界中で多くのクリスチャンが一気に天に引き上げられ消失するとなれば、これまた世界の大ニュースになる。これにより、名前だけのクリスチャンは目が開かれ、真の信仰に導かれ、ノンクリスチャンの多くも聖書に興味を持つようになるだろう。今youtubeで語られている「携挙」のメッセージは大いに役立つだろう。
従って、この2つの大イベントは患難期前に神を知るチャンスなのだ。これがなければ、人々はいきなり患難時代に突入することになる。
患難時代にもチャンスがある!
二人の証人
患難時代に突入してしまってもチャンスはある。神は見捨てていない。神はエルサレムに二人の証人を立て、不思議な力を与え、力強い福音メッセージを発信させる。(黙示録11章)インターネットの時代、世界中で、このメッセージが放映され、福音が宣べ伝えられる。彼らが死んだ時、「諸々の民族、部族、国民に属する人々が彼らの死体を眺める。」(黙示11:9)とある。死んだ様子がインターネットで全世界に流れる。神はそのことを折り込み済みで、この時期に、二人の証人をお立てになる。当然、生きて活躍している時のメッセージも流れるということである。(口から火を吐く説教者たちはワイドショーのトップニュースになるだろう。)
14万4千人の証部隊
またイスラエルの子孫のあらゆる部族、14万4千人も世界中で福音を宣べ伝える。(これを現在の「教会」と解釈する聖書学者もいるようだが、わざわざ「イスラエルの子孫のあらゆる部族」(黙示録7:4)とあるものを「教会」と解するのは無理があろう。)患難時代は信者として生きることは大きな犠牲を伴う。反キリストからの迫害は強烈なものだろう。しかし、それでも信者になるものが起こされ、天に帰っている。(黙示7:14)インターネットの普及により、ユダヤ人が新約聖書に触れ易くなった。また、ネット上の救われたユダヤ人の証にもアクセス可能となった。神はこの時期を見越して14万4千人をお立てくださるのだ。こうしてローマ11:25−26「こうしてイスラエルはみな、救われる、・・」が成就する。
御使による世界宣教
「またわたしは、もうひとりの御使が天中を飛ぶのを見た。彼は、地上に住む人々、すなわち、あらゆる国民、部族、国語、民族に宣べ伝えるために、永遠の福音を携えていた。彼は大声で言った。『神を恐れ、神を崇めよ。神の裁きの時が来たからである。天と地と水の源を創造した方を拝め。』」 (黙示14:6−7)
ついには、御使が全世界を隈無く回って福音を宣べ伝え、宣教の総仕上げをする。(マタイ24:14) 最後の審判の前に、一人残らず福音を聞くためである。神はここまでするのだ。
ある意味、患難期の患難は神を知らしめる機会でもある。出エジプト時のパロに降った神の災害のようなものだ。パロは神を認識していながら、心を頑なにした。(悔い改めるチャンスだったのに!)逆に神との対決を挑んだのだ。患難期の人々も、この災害の中で悔い改めるチャンスなのに、多くの人は偶像を拝み続け、悔い改めないのだ。(黙示9:21、16:9−11)ただし、天の神を崇める人も出る。(黙示11:13)
千年王国後のチャンス
なぜ、千年王国後、サタンはもう一度解き放たれなければならないのか?理解に苦しむところであるが、こう考えられないだろうか?エデンの園のアダムのように、サタンに従うのか、神に従うのか最後のテストが与えられたと。千年王国は新天新地ではない。諸国の民はイエスご自身が王として君臨されたので、ある意味、従わざるを得なかっただろう。ただサタンが縛られているので誘惑する者がいないのだ。従って不従順が表面化しない。千年王国後、サタンが解き放たれ、選択のチャンスが与えられる。これは最後のチャンスと言える。ここでサタンに従う決心をすれば結果、「火の池」であり、キリストに従う決心をすれば「新天新地」なのだ。神はチャンスを与えた。しかし、残念ながら多くの人々がサタンに従うようである。(黙示20:8)
白い御座のさばき
これは携挙された信者、また患難期の信者には関係ない。すでに罪赦され救いに預かっている。ここでは歴史を通して神を信じなかった人々が裁かれる。ハデスに拘留されていた人が全て神の前に出る。(20:13)行いに応じて裁かれるとは裁きに軽重があるということだ。(黙示20:13)
しかし、疑問が浮かぶ。
● なぜ拘留期間(ハデスでの拘留)が必要なのか?拘留期間なら最終的裁きの
時(白い御座の裁き=死刑宣告)の前に、悔い改めるチャンスがあるのではないか?
● 逆に、ハデスがすでに「裁きの場=死刑宣告」ならば、なぜ、もう一度引き出されて審査され、また「火の池」に改めて投げ入れられるのか?悔い改めの可能性が無いなら、「命の書」をもう一度出して審査の必要も無いのでは無いか?
● なぜ信じない者は死んで即、火の池(死刑執行)ではないのか?
拘束されて「懲らしめを受ける=更生」ことと、死刑宣告されて処罰される「存在が抹殺される」こととは違う。拘留期間に悔い改めたらどうなるのか?なぜ、白い御座のさばきで、「いのちの書」がわざわざ開かれるのか?(20:12)拘留期間に救われる人がいるので、その確認なのか?正解は分からないが、拘留期間(ハデスにいる間)に地上で聞いた福音を思い出し、悔い改め、白い御座のさばきの時に、「自分が間違っていました、あなたを信じます。」とう人が出ないとも限らないではない?
ただし、この考えは今のところ聖書的根拠が薄いとして受け入れられてはいない。また、あの患難期の激しい災害の中でも逆に神に文句を言って悔い改めない人がいる(黙示9:20−21、16:9−11)ことを考えると、ハデスにいても頑固に悔い改めないのかも知れない。私も疑問として提示しているだけで、この考えを支持している訳ではない。
ともあれ、見てきたように、神は語りかけて来られた。神は幾重にもチャンスを与えて来られた。これでもか、というほどにである。そして、以下の御言葉ほど神の御心を示しているものはないのだ。
「わたしは誓って言う。神である主の御告げ。わたしは決して悪の者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜあなたがたは、死のうとするのか。」 (エゼキエル33:11)
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重要なメッセージ
確かに、チャンスは何度もある。しかし、そのチャンスをものにしなければ、その結果もあるのだ。ヘブル書12章には、2つの対照的な将来図が描かれている。
「あなたがたが近づいているのは、手でさわれるもの、燃える火、黒雲、暗闇、嵐、ラッパの響き、ことばのとどろきではありません。そのことばのとどろきを聞いた者たちは、それ以上一言も自分たちに語らないでくださいと懇願しました。彼らは、「たとえ獣でも、山に触れるものは石で打ち殺されなければならない」という命令に耐えることができませんでした。また、その光景があまりに恐ろしかったので、モーセは「私は怖くて震える」と言いました。
しかし、あなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都である天上のエルサレム、無数の御使いたちの喜びの集い(新改訳3版では「大祝会」)、天に登録されている長子たちの教会、すべての人のさばき主である神、完全な者とされた義人たちの霊、さらに、新しい契約の仲介者イエス、それに、アベルの血よりもすぐれたことを語る、注ぎかけられたイエスの血です。」
(ヘブル12:18−25)
前者は「弁護者イエス」がいないまま、創造主の前に立つ姿であり、そこでは聖なる神の御前に恐れおののく罪びとなる自分の姿しかない。しかし、後半は「贖い主イエス」に救われ、弁護され、新しい契約に入った安心した自分の姿が描かれている。赦された者が向かっているのは、喜びの「大祝宴」なのだ。なんと言う幸いだろうか。だからこそ、聖書は続けてこう語っている。
「語っておられる方を拒まないように注意しなさい。なぜなら、地上においても、警告を与えた方を拒んだ彼らが処罰を免れることができなかったとすれば、まして天から語っておられる方に背を向ける私達が、処罰を免れることができないのは当然ではありませんか。」
(新改訳第3版 ヘブル12:25)
また同じ章で、長子の権利を一杯の食物で売ってしまったエサウの例を挙げている。
「後になって、祝福を相続したいと思ったが、退けられました。涙を流して求めても、彼には心を変えてもらう余地がありませんでした。」
(ヘブル12:17)
神に心を変えてもらう余地が無くなる前に、創造主に立ち返り、創造主に祈ることが必要なのだ。」
神は今、忍耐して待っておられる。
「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」 (IIペテロ3:9)
「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』と言う年月が近づく前に。
(伝道者の書12:1)
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Tokyo Metro Community (TMC)
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