それは悪い冗談のように思われた
私たちは、この場所を滅ぼそうとしています。彼らの叫びが主の前に大きいので、主はこの町を滅ぼそうと、私たちを遣わされたのです。そこで、ロトは出て行き、娘たちを妻にしていた婿たちに告げた。「立って、この場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは悪い冗談のように思われた。 (創世記19:13−14)
創世記に出てくるソドムへの裁きの場面である。今日まで娶ったり、嫁いだり、商売したり、普通の日常生活をしていたソドムの人々にとっては「町が滅ぼされる!」と聞いても、「悪い冗談」でしかなかったろう。しかし、裁きは下り、ソドムとゴモラは天からの火と硫黄で消滅した。(創世記19:24−25)
この災害の主語は「主は・・」(24節)であり、単なる自然災害ではなく、主からの裁きであることが明白だ。ソドムでは性的に退廃しており、同性愛が盛んに行われていたようだ。(創世記19:5)そして、それは後の時代のための「実例」であった。
恐らく、世界7不思議と言われた黄金の都、バビロンが一夜にしてメド・ペルシャに滅ぼされるなど、「悪い冗談」以外の何ものでもなかったろう。現に、その夜、バビロンの城では大宴会が開かれてる最中だった。この直前「メネ・メネ・テケル・ウ・パルシン=国が分断されメディアとペルシャに与えられる」と宣告されていた。(ダニエル5:25−31)その夜、預言通り、王ベルシャツアルは殺された。(ダニエル5:30)どんなにそれが「冗談」のように思われても、当時の人々が「あり得ない」と思っていても、神の語った事は100%
実現する。
神の裁きは後の時代への「実例」
また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、不敬虔な者たちに起こることの実例とされました。 (IIペテロ2:6)
しかし、前の時代にもすでに同じような事が起こっていた。ノアの時代の出来事である。
神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。」(創世記6:13)
わたしは、今、いのちの息のあるすべての肉なるものを天の下から滅ぼし去るために、地上に大水を、大洪水をもたらそうとしている。地上のすべてのものは死に絶える。(創世記6:17)
ノアはその神の啓示を信じ、神の指示通りに箱舟を作った。(6:22)地を飲み込む大洪水が来ることは多くの人にとって「悪い冗談」だっただろう。事実、多くの人は、そんな警告を無視し、日常生活を楽しんでいた。
「洪水前の日々にはノアが箱舟に入る、その日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり、嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。」
これは、イエスご自身が語られた事だ。(マタイ24:38−39)そして、事実、洪水は来た!
神は不義の世界を放置しない!
また、かつての世界を放置せず、不敬虔な者たちの世界に洪水をもたらし、義を宣べ伝えたノアたち八人を保護されました。(IIペテロ2:6)
神は義なる神。正義を守るから、不義の世界を「放置しない」。それを「実例」として示されてきた。
しかし、だからと言って、神は悪人の死を喜んでいる訳ではない。
わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』 (エゼキエル33:11)
神は全ての人が救われて「真理」を知るように望んでおられる。(Iテモテ2:4)彼らが滅びるのは、提示された救われるための「真理」を退けたからだ。
彼らが滅びるのは、自分を救う真理を愛をもって受け入れなかったからです。
(IIテサロニケ2:10)
説教者の使命〜記憶を呼び覚ます〜
愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により、私はあなたがたの記憶を呼び覚まして、純真な心を奮い立たせたいのです。(IIペテロ3:1)
説教者の使命は、み言葉の記憶を呼び覚まして、信徒達の純真な心を奮い立たせることである。また、信徒達は礼拝で、デボーションで、バイブルスタディで聖書を学び、「記憶を呼び覚まし」、「純真な心を奮い立たせる」必要があるのだ。
それは、聖なる預言者たちにより前もって語られたみことばと、あなたがたの使徒たちにより伝えられた、主であり救い主である方の命令を思い出させるためです。
「神の裁き」は説教者にとっても語られることが少なくなってきているように思われる。しかし、聖書で語られている過去に起こった事実を語り、記憶を呼び覚ます必要がある。「前もって語られたみことば」とある。そう、歴史上起こった「実例」から学び、未来に備える必要があるのだ。
IIペテロ3章のシリアスな「警告」
まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者たちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。
(3:3−4)
終わりの時にはあざける者が現れる。特に聖書の基本教理である、「復活」「再臨」「御国の到来」をあざける者達が必ず現れる。「愛しましょう!」という耳障りの良いヒューマニズムメッセージは広がるが、「神の裁き」など、水増ししない聖書のメッセージは攻撃を受ける。キリスト教界の中にも字義通りの解釈を避け、世に迎合するクリスチャンも多くなるだろう。聖書を字義通り解釈するクリスチャンは、ラオデキア教会の末裔である「世界統一教会」から迫害を受けるようになる。しかし、ペテロは過去の「実例」をあげて反論する。
そのみことばのゆえに、当時の世界は水におおわれて滅びました 。(6節)
神の裁きは歴史上行われたのだ。ノアの時代、世界は洪水に覆われ滅びたのだ!そして、ペテロは今後、起こることも示している。
しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで 保たれているのです。(7節)
しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地にある働きはなくなってしまいます。 (10節)
これが「比喩」であれば、ノアの洪水も「比喩」ということになる。しかし、聖書は「実例」と言っている。聖書にはいわゆる「トンデモ」話が多い。それでなるべく「比喩」として分かり易く解釈しようとする。しかし、IIペテロ2章でペテロが挙げているソドム・ゴモラのケースとノアのケースは「歴史的実例」として挙げているのであって、単なる比喩ではない。そして、それを戒めるため、ペテロは次のように言っている。
無知な、心の定まらない人たちは、聖書の他の箇所と同様、それらを曲解して、自分自身に滅びを招きます。(IIペテロ3:16)
これらから学べるレッスンは・・・
1.義なる神は「悪」を放置しない。神は正しいので悪を罰する。警察官が路
上の悪を放置するなら、正しい警察官といえるだろうか?治安はどんどん
悪くなる一方だろう。
2.歴史上、「実例」として神の裁きがあったことが聖書に記されている。
これは今後への警告でもある。
3.キリストは必ず再臨される。そして「悪」に裁きをつける。
4.神を信じ、神の言葉に従ったノアの家族は救われた。ソドムの町の義人
ロトは町を逃れ、滅びを免れた。
5.今後、キリストを「信じる」者は神の怒りに会うことがない。
神は、私たちが御怒りを受けるようにではなく、主イエス・キリストによる救いを得るように定めてくださったからです。 (Iテサロニケ5:9)
キリスト以外に救われる名は無い!
救いはキリストの十字架の血による贖いの故であり、キリスト以外に救いが無いことも、はっきり語られている。
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。
(使徒4:12)
「血を流すことがなければ、罪のゆるしはありません。」(ヘブル9:22)
「また、雄牛と子山羊の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度
だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げたられました。」(ヘブル9:12)
万人救済主義(Universalism)への誘惑
終わりの時代にはキリストによらない救いの教理が流行っていく。一般の人が分かり易いようにという思惑で(それ自体は悪くないが)デンマーク聖書協会では聖書の中の「罪」という言葉を「間違い」に変更した。そうすると罪の意味は薄まる。十字架の意味は薄まっていく。最終的にはキリストでなくても良くなる。「だいたい、キリストだけが『道』とは独善的すぎる!」と。また、「彼」「彼女」という性別を示す代名詞も中性的なものに変更したらしい。ポリティカル・コレクトの流れに迎合したものだ。そのようにズルズルと世に妥協してゆく。
最近のニュースによると、ローマ教皇フランシスコは、同性カップルにも婚姻に準じた法的権利を与える「シビルユニオン」を認めるべきだとする考えを示した。教皇は「同性愛者の人たちは家族の中にいる権利がある。彼らは神の子であり、一つの家族となる権利がある」と語った。
今日、同性愛は「個性」であり、「ライフスタイル」という価値観が広まっている。教会がその流れに迎合するなら、他の宗教信仰も「ライフスタイル」なのであり、ついには「全ての人は生まれながらにして『神の子』であり、愛されており、結局は皆、救われる」という万人救済説に移行してゆくことにならないか?
しかし、先に見たようにソドムは「同性愛」の罪によって裁かれている。パウロも同性愛の罪を語っている。(ローマ1:26−27)人は都合の悪いことは聞きたくない。不都合な事実には目をつぶる。特に「神の裁き」はヒューマニズムには合わない。ヒューマニストの主張に流され、教会の救済論も「神は愛なんだから、すべての人を救ってくれるはずだ。皆、結局は天国に行くのだ。」という主張に変えられていく危険性がある。無神論共産主義の中国では聖書の書き換えが行われており、欧米の自由主義国ではリベラル思考(反聖書的価値観)が広まっている。そして聖書信仰に立つ者は「偏狭」だと罵られ、迫害を受けていくことになるだろう。
聖書は「罪から来る報酬は死」(ローマ6:23)と明言している。「神の裁き」は大衆受けしないが、このバッドニュースなしに、グッドニュース(福音)はあり得ない。本来、死すべき存在が、永遠の命を頂ける・・(ローマ6:23)そこに福音が福音たる由縁がある。
というのは、人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳に心地よい話を聞こうと、自分の好みにしたがって自分たちのために教師を寄せ集め、真理から耳を背け、作り話にそれて行くような時代になるからです。
(IIテモテ4:3−4)
「神の裁き」という健全な教えに「耐えられなくなり」、耳障りの良い、「万人救済説」に傾いていくのだ。しかし、真理から耳を背ければ、それは作り話にすぎなくなる。人が死んでから神の前に立つ事実を変えることはできない。(ヘブル9:27)その時、弁護人であるイエスが共にいるだろうか?
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執筆者:栗原一芳