「さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるも
のです。」(ヘブル11:1)
ヘブル11:1は誤用されやすい箇所だ。オリジナルの聖書には章、節は無い。
11:1は10章の終わりから続いている。つまり、「来るべき方が来られる」という、まだ見てないが、実現する約束を確信することが「信仰」だという意味だ。11章は信仰者の列伝だが、まず著者はここで「信仰」の定義をしている。
間違った「信仰」
「信仰」は、好き勝手に願望を願い達成することではない。アメリカのベテル教会ではSuper Natural School(超自然学習センター)が開設され、超自然的な能力を訓練取得するようだが、奇跡や癒しは賜物であって、訓練して取得するものではない。モーセ、エリヤやエリシャが修行して奇跡を行う能力を得たとは記されていない。
「信仰」とは、「信じるごとくになる!」という人間側の信念でもない。しかし、異端的な教会では「言葉に出して言うごとくになる!」といった間違った「信仰」が勧められている。「ベンツが欲しいと、思い描いて祈り続ければ、そうなる。」的な教えだ。ラオデキア教会の「行く末」である世界統一教会ではおそらく、ヒューマニズム+超能力的ものになるだろう。サイキックパワーで自分の願望を達成しようとするものだ。
したがって、「信仰」といっても2通りある。
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1. 信仰: 自分の信じる力 願望の実現
VS
2。信仰: 正しい信仰の対象(神と神の言葉)に信頼する
啓示に対する応答として、行動を起こす。
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正しい「信仰」
さて、正しい信仰とは何だろう。それは、神が約束した事柄、つまり神がすでに啓示として与えた事柄への応答なのだ。
神がすでに啓示として与えた事柄への応答
神がすでに啓示として与えた事柄への応答
神がすでに啓示として与えた事柄への応答
掲示されていないことへの「信仰」は「思い込み」に過ぎない。「信仰」があれば、すべての病が癒される訳ではない。事業が成功する訳でもない。
この信仰
「昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。」(ヘブル11:2)
「この信仰によって賞賛された」の「この信仰」とは上記の「正しい信仰」だ。そこでヘブルの記者はまず、世界の創造のことを持ち出す。
「この世界が神のことばで造られたことを悟り・・」 (ヘブル11:2)
世界の「創造」に立ち会った人はいない。誰も見ていない。しかし、神がご自身啓示した、神の言葉の語るところを信じるのだ。神が語ったこと、「はじめに神が天と地を創造した。」(創世記1:1)を、そのまま字義通り信じ受け取る。そのような人の信仰は神に賞賛(認められる)される。
啓示された「血」による贖いへの応答
次の例はカインとアベル。(ヘブル11:4)神はアベルの捧げ物を良しとした。一見、不公平に見える。しかし、「そのいけにえによって、彼が義人であることの証明を得ました。」(新改訳3版 ヘブル11:4)とある。義人の証明を得る捧げ物とは単なる「感謝の捧げ物」ではなく、「義」を得るための「罪の贖いの捧げ物」ということになる。ヘブル9:22で「血を流すことがなければ、罪の赦しはありません。」と解説されている。神はアダムに罪の贖いとして、獣の皮の衣を着せた。(創世記3:21)皮の衣を得るには動物が犠牲(血)にならなければならない。この意味を知ったアダムとエバはこの大切な真理を息子たちに伝えたに違いない。アベルは啓示された通りに従ったのであり、カインは自分のやり方で捧げ、礼拝した。これが「宗教」の始まりだ。
• 兄カイン(農夫) 地の作物(血がない)
宗教的義務的行い
VS
• 弟アベル(羊飼い) 動物(血)の捧げ物
信仰の行い
掲示された「携挙」への応答
次の例はエノク(創世記5:21−24)。彼は365年生きて、生きたまま天に上げられた。生前、神に喜ばれていた。つまり、信仰があった=神の言われたことを信じていた。その信仰は、天に移される前から証されていた。(11:5)とある。
この時代は神が直接、人に語っていた。生きたまま天に上げられることが生前エノクに伝えられていたことは十分考え得る。エノクはその啓示された約束を信じ、期待していたのだろう。さて、それを今の私たちに適用するとどうだろう。
「携挙」については、I テサロニケ4章16−17節ではっきり語られている。マタイ24章のイエスのオリーブ山講話(マタイ24:40−41)でも示唆されている。これを人間的判断で「有り得ない!」と言うか?それとも、神の啓示に応答して「YES」と信じ、期待するか? どちらを神は喜ぶだろうか?信仰がなくては神を喜ばすことはできない。(ヘブル11:6)信仰は神が約束されたことを、まだ、見ていなし、実現していないけれど、(時に前例の無いことであっても)希望を持って信じ、忍耐し、期待することなのだ。事実、エノクは信じて、生きたまま天に上げられている。
啓示された警告への応答
洪水が来ること、箱舟を作って避難することは「前もって」神に語られていた。ノアは額面通り信じ、行動に移した。啓示された警告に応答したのだ。多くの人は人間の常識を優先し、「ありもしないこと」との判断を下した。これこそが「知恵の実」を食べた結果なのだ。神の言葉より、自分の判断に従う。当時の人口がどのくらいは分からないが、たった8名が神の警告を信じて箱舟に逃れた。洪水はやってきて、地を飲み込んでしまった。聖書を通して、本物の信者(バアルに膝をかがめない7千人)は、レムナント(残りのもの)として描かれ、常に少数派だった。事実、選民であるはずのイスラエルの民は「神の訪れの時」を知らず、やってきたメシアを拒絶し、十字架につけてしまった。世の終わりにも、人々はこぞって反キリスト的になるだろう。
主の「再臨」も「復活」も、「御国の到来」もはっきり神の御言葉である聖書に書かれているにもかからず、多くの人は「ありもしないこと」との判断を下している。どうだろう、クリスチャンと呼ばれる人でも、どこまで本気で信じているだろうか。いわゆる聖書の「トンデモ話」は人間の判断によって「比喩的解釈」により受け入れ易いものに変容していく傾向がある。
ノアの日と同じなのだ。洪水が全てをさらってしまうまで分からなかったのだ。( マタイ24:39)主の日(大艱難時代)はそのようにして来る。それは来るのだ。前もって警告されている。だからイエスという「方舟」に乗って避難する必要がある。御言葉はこれから起こることについて明確に語っている。これらの預言をないがしろにしてはならない。
「昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。」(ヘブル11:2)
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東京メトロ・コミュニティ
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執筆者:栗原一芳
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