2021年4月29日木曜日

12弟子の名前言えますか?

 

12弟子の名前言えますか?結構これが難しいのです。なぜかというと別名があったり、あだ名があったりするからです。例えば、バルトロマイはヨハネ1:45に出てくるナタナエルのことらしいです。トマスはデドモと呼ばれることもあります。ヤコブ、ヨハネは漁師で兄弟ですが、もう一人、アルパヨの子、ヤコブというのがいます。イスカリオテのユダと、もう一人のユダ(タダイ)がいます。いや、ややこしいですね。12弟子を3つのチームに分けるとわかりやすいです。(赤字は兄弟)



第一チーム (イエス様のコアチーム)

1.ペテロ (リーダー)  ヨハネの子、シモン。「ケファ=ペテロ=岩」

           

2.アンデレ        アンデレが先にメシアに会い、兄弟シモンに伝えた。

3.ヤコブ         ゼベダイの子

4.ヨハネ         ヤコブの兄弟

 

第二チーム

5.ピリポ

6.バルトロマイ(ナタナエル) タルマイの子

7.トマス(デドモ)

8.マタイ

 

第三チーム

9.アルパヨの子ヤコブ

10。タダイと呼ばれるユダ

11。熱心党員シモン

12。イスカリオテのユダ

 

 

ちなみに、ペテロやヨハネはガリラヤ湖で初めてイエスに出会い、弟子として召された印象がありますが、ユダ地方ですでに一度イエスに出会っています。

 

実は、ヨハネ1章35節を読むと、2人の弟子(アンデレとヨハネ)は初めバプテスマのヨハネの弟子だったことが分かります。洗礼を受けにガリラヤから旅をして、ユダ地方に来ていたのでしょう。バプテスマのヨハネがイエスを指して「見よ、神の子羊」と言ったことに興味を持ち、2人の弟子はイエスの後を追います。そしてイエスに弟子入りし、時間を過ごすことでイエスがメシアであることに目が開かれます。

 

2人の弟子の一人はアンデレで、その後、兄弟シモン(ペテロ)に「私たちはメシアに会った!」と感動を伝えています。2人のうち、もう一人の弟子は名前が出てきませんが、文脈からヨハネ自身であることが推測できます。

 

ヨハネ1:45を読むと、ピリポもアンデレやペテロと同じ町の出身で彼もバプテスマのヨハネから洗礼を受けるためユダ地方に来ていたと思われます。ピリポもイエスに出会い、目が開かれ、イエスをナタナエルに紹介します。ナタナエルもイエスに出会い「先生、あなたは神の子です。」(ヨハネ1:49)と告白するに至ります。こうしてみるとアンデレ、ペテロ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエル( バルトロマイ)の5人がユダのベタニヤ付近でイエスに会い(ヨハネ1:28−29)、最初の弟子となっていたことが分かります。カナでのイエスの最初の奇跡の時に同席していたのも、この5人と思われます。(ヨハネ2:2)

 

有名なマタイ4:16節「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしてあげよう。」彼らはすぐに網を捨ててイエスに従った。のくだりは、すでにイエスの弟子(職業を持ったパートタイム弟子)であった彼らが、網を捨て(職業を捨て)、フルタイム献身者になったという意味ですね。

 

結構、誤解していたり間違ったイメージを持っていたりするのですが、聖書をよく読んでいると「そうだったのか!」と気づかされることが多いのです。

 

==============================

今回のネタ元は、ハーベストタイムミニストリーズの中川健一氏の「メシアの生涯」シリーズ(44)「12使徒の選択」です。詳しく学びたい方はそちらをご視聴ください。

 

https://message-station.net

 

===============================

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2021年4月22日木曜日

悪の完全解決

 

悪はリアルか?

もう、大分昔になるが、ニューズウイークだったか何か表紙に「悪は存在するか?」という大きな見出しが載っていた。ビジネス雑誌がこんなテーマを取り上げているので大変興味深く思い、今でも覚えている。世の中には戦争や虐殺、貧困や差別、汚職や家庭内暴力などがある。ニュースの9割は悪いニュースでは無いだろうか?北朝鮮に娘を拉致された親の気持ちはどんなだろうか?幻想では済まされない。それは確かに存在する「悪」だろう。聖書的には「悪」は存在する。サタンもリアル、悪もリアル。罪もリアル。

 

「悪」が存在した「エデンの園」

「えっ!アダムが罪を犯すまでは完全だったのではないですか?」しかし、エデンには誘惑者である「蛇」がいた。(創世記3:1)この蛇は黙示録12:9で「古い蛇=サタン」と説明されている。また創世記3:15を見ても、蛇がサタンであることがわかる。つまり、エデンの園にすでにサタン(神に敵対する者)がいたのである。そうすると人間が罪を犯す前から「神への反逆者」の存在、すなわち「悪」があったことになる。

 

ちなみに、創世記1:1と1:2の間に重大な事件が起こったと考える「ギャップ論」によれば、創世記1:1で神は御使のための宝石に飾られた「エデンの園」を造られた。(エゼキエル28:12−15)サタンは元々、守護者ケルビムとして任命された高級天使であったが、反逆し堕落した。その裁きとして地が虚しくなった(創世記1:2)と考える。神は新しく創造した世界の中に人のためにエデンの園を備え、そこに人を配置した。(創世記2:8)この論に従うと、世の終わりに成就する「千年王国=地上のメシア王国」は人間のための「エデンの園」の回復であり、「新天新地」はいわば第一エデンの園の回復となる。なぜなら黙示録21:19以下の天から降るエルサレムは宝石で造られており、それを示唆していると言えよう。「ギャップ論」には賛否両論あろうが、こうしてみるとどうしてサタンが人間を、なぜそれほどまでに妬み、憎く思うのかが分かる気がする。

 

現在、存在する「悪」

現在は以下の3つの事のゆえ、「悪」が存在する。

 

1.      神に反抗し、人を神に反抗するよう誘惑する「サタン」の存在。

悪魔(ギリシア語でディアボロス)は「中傷する者」神の御前で

人間を救われる価値が無いと訴え、特にクリスチャンに「ダメ出し」する。同時に神を中傷し、人に神を信じさせないようにする。サタンとは

「敵対する者」であり、神の御性質、価値観、ご計画にことごとく反対し、それを阻止しようとする存在。聖書では一貫してサタンや悪霊はシンボルではなく生ける現実の「存在」として描かれている。

 

2.      サタンが誤って人に信じ込ませる価値観(金、権力、快楽、プライド)によって動く「この世」というシステム。「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」(Iヨハネ2:16)と言われるもの。我々が毎日、社会で向き合っている現実では無いだろうか?だから、パウロはこの世と調子を合わせるな(言語ではこの世の「型」にハマるな)と言っている。(ローマ12:2)共産主義という無神論、唯物論に立つシステムによって国家を運営している国もある。

 

3.      そのシステムに引き寄せられる人間の「罪」という要素。

神から離れた人間は自分を基準に善悪を決める。神はいないと判断することもできる。行き着くところは「傲慢」である。「自分を正しい」とする、この自己中心性は夫婦間で、コミュニティで、会社で、国家間で問題を引き起こす。国単位で「優越思想」に陥ることもある。「人が誘惑にあうのは、それぞれ自分の欲に引かれ、誘われるからです。そして、欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:14−15)

 

ここに「サタン」と「世」と「罪」が悪において相関関係にあることが分かる。その1つだけが解決されてもダメなので、この3つが全て解決されなければ、「悪」は消滅しない。

 

人間の対処法

 

1)      サタン

科学的にサタンなどいないという嘘に騙されるか、サタンを恐れ崇拝する悪魔礼拝者になるという両極端がある。多くの人は、知らずして悪魔の虜(悪魔の好むものを好む)になっていく。(エペソ2:2)現在も悪霊現象があるし、悪魔の仕業としか思えない悲惨な事件も起こる。人間が解決できているとはとても思えない。今後、悪魔の力は強くなり、「獣」、すなわちサタンが送り込む「反キリスト=偽救世主」による世界統一政府が作られる。人は解決どころか、ますますサタンの配下に入ってゆくのだ。

 

2) 世

   歴史を通して社会改革の試みは何度もあった。しかし、無神論の共産主

   義にしろ、有神論の自由主義にしろ、完全な社会は到来していない。選

   挙に立つ政治家達の「政治を変えよう!社会を変えよう!」との呼びか

   けは聞き飽きている。「教育」でも、「〇〇主義」でも理想の社会システ

   ムを作ることはできない。そして、人間に権力志向がある限り、必ずシ

   ステムは腐敗する。格差が生まれる。「うまい汁」を吸う層が必ず現れる。

 

3)      

   道徳教育で世界が救えるなら今頃、地上天国が来ていなければならない。

犯罪は終わることはなく、離婚は絶えることがなく、戦争がなかった時代もない。最近はSNSでの誹謗中傷で犠牲者まで出ている。人の罪は深く、神を否定しても理想郷は作れない。罪に打ち勝った人など見たことがない。「すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず・・」(ローマ3:23)が現実なのだ。

 

神は悪を完全に解決する

では神が以下の3つをどのように解決するのか見てみよう。

 

1)「サタン」への対処

サタンは騙しの天才なので、似て非なるものを作って人を騙す。キリスト教カルトを作ったり、終末には「悪の三位一体」すなわち、「竜」「獣」「偽預言者」

として世を惑わす。しかし、サタン攻略の布石は打たれてきた。

 

  「彼(キリスト)はおまえ(蛇=サタン)の頭を打ち、おまえは彼のかかとを打つ」(創世記3:15)とあり、これは「原福音」と言われ、十字架でサタンに勝利することが預言されている。

 

  「しかし、わたしが神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、もう

 神の国はあなたがたのところに来ているのです。」(ルカ11:20)

イエスは地上のミニストリーで悪霊を追い出し、病人を癒し、御国の福音を宣べ伝えた。悪霊はイエスの権威には勝てないことが証明された。

 

  終末の患難期の最後の3年半には竜(サタン)は天から地に追い出され、人

類への直接的な攻撃が始まる。しかし、キリストの来臨により、「獣=反キリスト」、「偽預言者」は火の池に投げ込まれ滅びてしまう。(黙示19:20)

 

  竜=サタンは千年王国の間、1000年間底知れぬところに閉じ込められる

が、最終的には火の池に投げ込まれる。(黙示20:10)

 

  これでサタンと彼の手下である悪霊どもは全て姿を消す。

 

2)「この世」というシステムへの対処

神なしで動く社会システム。そのクライマックスは獣=半キリストによる「世界統一政府」だが、主の来臨により獣とともにこのシステムは破壊され、機能しなくなる。そして、真の王であるイエス・キリストがメシア王国をもたらし、全世界を直々に治めることになる。ここには悪の要素がもはや無い。ここでは「山の上の説教」で示された御国の憲法が全うされる。人権蹂躙、人種差別、圧政、パワハラ、セクハラ、いじめ、汚職は無くなる。「世と世の欲は過ぎ去ります。」(Iヨハネ2:17)「この世」という神無きシステムは消滅する。

 

3)人の「罪」に対する対処

十字架で主イエスが我らの罪を負って死んでくださったので、主を信じる者は神の目に義と認められる存在となる。(ローマ3:24、4:4−5、8:33)法律上、罪の刑罰は無くなった。(ローマ6:23)我らを責め立てている債務証書は無効となった。(コロサイ2:14)さらに内なる御霊が栄光から栄光へと主と同じ姿に変えてくださっている。(IIコリント3:18)

 

この地上では「霊的戦い」がある。「救い」が完成された訳では無い。神の御前ではすでに「聖徒」であり、「罪人」認定はされないが、悪魔に機会を与えることは可能である。(エペソ4:27)罪を犯す可能性は残っている。(Iヨハネ2:1)しかし、同時に赦される道も用意されている。(Iヨハネ1:9)神ご自身が再臨の時に、御前に立てるよう守ってくださる。(Iテサロニケ5:23)

 

後は時間の問題で、罪の問題はキリストにあって完全に解決されていると言ってもいい。

 

このように3つの悪の要素は完全に処置される!




 

そして我々の最終地点「新天新地」には「もはや呪われるものはなにも無い」(黙示22:3)。すなわち、「悪」が全く消滅するということだ。ハレルヤ!

 

---------------------------------------------------------------------

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2021年4月15日木曜日

「神の国」と「地上の国」


外国で暮らす

私は、2009年から2010年、就労ビサを取得して家族4人アメリカ、フロリダ州に滞在したことがあります。子供達は近所の公立小学校と中学校に通い、私は宣教団の本部オフィスで仕事。フロリダ州ライセンスも取り、車を手に入れ、日常生活が始まりました。スーパーで買い物をし、日曜日は教会へと他のアメリア人と同じく生活していたのです。唯一違うのは、私達は日本国のパスポートを持っており、国籍は日本にあったということです。8ヶ月後は日本に戻ることを知っていました。



私達クリスチャンの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)「天」=「御国」=「神の国」=「天の御国」と言い換えてもいいでしょう。クリスチャンは、神の国のパスポートを持ちながら、この世に生きています。そして、「この世」に永住しないことも知っています。やがては「この世」を離れて本国である「神の国」に帰ります。将来、帰る故郷のことをヘブルの記者もこのように書いています。

 

これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白 していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。

                     (ヘブル11:13−16)

 

ここで分かるのは、クリスチャンは「天の故郷」に帰るのであり、そして、そこは、この地上より「もっと良い」故郷だということです。さらに・・

 

私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。(ヘブル13:14)  

 

「来るべき」とは時間軸で未来にあるということですね。単に天=上というだけでなく、それは「やって来る」という概念です。パウロもエペソ1:7で「来るべき世々」と表現しています。

 

 世と違う価値観でこの世を生きる

というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。  しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。  (ピリピ3:18−20)

 

注意深くこの箇所を読むと、「私達は天国に行きます。」と書いているのではないのです。これは「国籍」の話、アイデンティティの話です。あなたは「誰」でしょう?どういう者と認識して生きているでしょう? 19節に世の人の価値観が書かれています。彼らには「欲望が神」です。結局は、「地上のことだけ」を考える人達です。この地上での生活がすべてなのです。権力、お金、快楽でしょうか? それに対して、「私達の国籍は天にある」と言っているのです。つまり、私達のアイデンディディと価値観が違うことを示しているのです。イエスご自身、「神と富とに兼ね仕えることはできない。」と語ったコンテキストで、こう言われています。

 

「人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」

                        (ルカ16:15)

 

ヨハネもこう言っています。

 

あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もし  だれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。Iヨハネ2:15−17)  

 

今や、この世から取り出されて、神の子供とされ、「福音の大使」として、この世に派遣されている者としての意識です。(I Iコリント5:20)アンバサダー、「大使」は自国の代表として他国に住んでいるのです。自分の国を理解してもらい、友好関係を築くのが使命です。クリスチャンも「この世」に、「天の国民」としてのアイデンティティを持って生きるのです。

 

二重国籍

これは単なる天への「逃避行」ではありません。「この地」での使命を果たします。そして、興味深いのは「私達はやがて主イエスの御元に行きます。」ではなく、「そこから主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいる。」とあることです。この世に生きながら「主の来臨」を待ち望む生き方が示されているのです。

 

私はある意味、「2重国籍者」です。「天の国民」であると同時に、「日本」の国民です。私が日本に生まれ育ったことは、ある意味、神のご計画です。(使徒17:26)

 

2000年前のイエスの到来で「神の国」は始まっています。(ルカ11:20)ということは「神の国」と「地上の国」は同時並行で存在していることになります。(最終的には天のエルサレムが地に降りてきますが。)イエスご自身、地上にいた時には税を納めることを軽視せず、(マタイ17:27)パウロも「立てられた権威に従うよう」(ローマ13:1)勧めています。この世での責任を果たします。私は、日本の憲法を守ります。神の創造された被造物、日本の美を楽しみます。しかし、プライオリティとしては天の国民なのです。そこの王、真の王、諸国の王であるイエスに忠誠を誓っています。その国は永遠の国です。その国の憲法(キリストの律法)に従っています。

 

時として、この2つの国は対立します。特に、この世の王が「神」となり「礼拝」を強要する時には大問題になるのです。私達には、母国の王の他に、もう一人の王がいます。その王は永遠の王であり、真実の王です。たとえ、この世の王を裏切っても、この真の王を裏切ることはできません。(ルカ12:5)そこで、迫害、殉教という事態が発生するのです。

 

全てはアイデンディディの問題です。あなたは「誰」ですか?「誰」に属していますか?「誰」があなたの王ですか?「誰」に忠誠を誓っていますか?

 

弟子としての犠牲

ローマ時代、初代クリスチャン達は激しい迫害下にありました。クリスチャンとして生きることは命がけでした。313年、コンスタンティヌス皇帝が「キリスト道」を公認化されます。皇帝が自らをクリスチャンと宣言し、キリスト教に好意的になると、人々は「クリスチャン」になっておいたほうが得だと考えるようになります。礼拝が儀式や習慣となっていく中、真の信仰がなくても「教会に行っている人」が増え、「キリスト教徒」とみなされていきます。やがて生まれ変わっていない人がクリスチャンリーダーとして権威を振るうようになっていきます。聖書が信徒の手にないので、指導者の言うことに従うしかありません。やがて「十字軍」という神が喜ばれない虐殺を「聖戦」とし、行うようになります。権力が及ぶ範囲を広げること、戦利品で豊かになること・・・欲望が神となり、彼らの思いは地上のことだけになっていきます。「神の国」は名ばかりで「この世」の国に吸収されていきます。2重国籍は消え、この世だけが残るのです。

 

迫害下にあっては「殉教者の血は教会の種」と言われ、逆境の中で真のエクレシアが生み出されていったのです。彼らの告白は「イエスは主」であったのです。そして、「我らの国籍は天にある」だったのです。

 

 「キリストにはかえられません」 「讃美歌21」522番

  キリストにはかえられません 世の宝もまた富も、               

  このおかたがわたしに 代わって死んだゆえです。

   世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け               

  キリストにはかえられません、         

  世のなにものも。    

 

  キリストにはかえられません、有名なひとになることも、

  ひとのほめることばも、このこころをひきません。

  世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け               

  キリストにはかえられません、         

  世のなにものも。                                      

               

---------------------------------------------------------------------------------

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

2021年4月8日木曜日

霊とまことによる礼拝

 

人と神殿の関係が大きく変わった。

完全な犠牲、罪なき神の子羊イエスが十字架で死んで、贖いは完成しました。

 

「ただ1度」で、「完全」で「永遠」(ヘブル7:25−27、9:12)の贖いが成し遂げられました。

 

新約に入り、イエスの十字架と復活の御業が為されたあと、神殿に関連して

3つの重要なことが起こりました。

 

1)   イエスの復活後、至聖所のカーテンが上から下まで裂けた。

大祭司のみが1年に一度入る「至聖所」がオープンになった。隔てのカーテンがなくなった。イエスを信じる者は誰でも大胆に恵みの御座、神のもとへと行くことができるようになった。(ヘブル4:16)

2)   神殿は破壊され、以来再建されていない。

イエスは人々がエルサレムの神殿のすばらしさに驚いている時、この神殿

は破壊されると預言した。その預言は実現した。AD70年、ローマ軍の

侵入によって壊された。その後、神殿は再建されていないし、不思議なこ

とに、神はそれ以降、神殿を再建せよとは命じていない。

 

3)信じる者に聖霊が注がれた。(ヨハネ7:37-39、使徒の働き2章)

  信じる者のうちに神が宿ることになった。

 

つまり、どういうことでしょうか?・・・

 

 

私達は神の神殿、神の宮Iコリ 3:16−17)

イエスの御業ゆえに私たち、イエスを信じる者が「神の宮」となったのです!旧約時代に捧げられた無数の動物犠牲を考えてみてください。もう必要ないのです。完全なる子羊イエスが捧げられたからです。私たちは罪赦されて、「アバ父=お父ちゃん」と呼んで神の御前に出て、楽しめるのです。イエスは私たちに聖霊を注いでくださいました。聖霊は神です。すなわち、私たちのうちに神が宿っているのです。神の住まうところは本当の神殿です。神の家です。

 

私達はもう、神に出会うため、神殿に行く必要はありません。

 

神が私たちの内におられるのです。これはヨハネ4:21の成就なのです。イエス様があのサマリアの女と話したとき、非常に興味深いことを語りました。

 

イエスは彼女に言われた、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。。。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人を礼拝者として求めておられるからです。」 

 

礼拝する「場所」はサマリア人が礼拝したこの山(ゲリジム山)でもなく、エルサレムでさえない、そういう時代に今、私たちは生きているのです。十字架と復活のみ業が為されたからです。

 

礼拝に特定の場所は必要ないのです。特定の建物は必要ないのです。

 

 

霊とまことによる礼拝

神は、霊とまことによって礼拝する者を礼拝者として求めておられます。神は「礼拝者」を求めているのであって、「場所」や「建物」を求めているのではありません。

 

霊とまことを持って神を礼拝するものの集まりが神殿であり、真の教会(エクレシア)なのです。

 

本当の神殿は、主を信じる人々のことです。(エペソ2:22)ですから礼拝を捧げる「場所」はどこであってもいいのです。神は霊ですからどこにでもおられます。家でも自然の中でもいいのです。会堂に集まるのが便利であれば、それでもいいのです。礼拝は霊的なものです。荘厳で立派なプログラムがあっても、そこに「霊的交わり」がなければ、ただのショーです。さらに言うと「礼拝」はプログラムへの参加ではなく、私たちの態度です。

 

「あなたがたのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさ

 い。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

 

イエスは言われました。「この神殿を壊してみなさい、わたしは3日で神殿を建て直す。」これはご自身の体のことを言われたのです。事実、3日ののちに復活しました。教会はイエスの体です。イエスが来られたのであの荘厳なエルサレル神殿の必要はなくなったのです。再建しなくてもいいのです。黙示録21:22によると、やがて天から下ってくるエルサレムには神殿がないと書いてあります。なぜなら、神ご自身がそこにおられ、それが神殿となるからです。

 

 

「場所」や「建物」が偶像になる危険

神殿が偶像になる危険もあります。建物にパワーがあるかのようになる危険

があります。あの「神殿」にいけば、あの「教会」に行けば、あの「場所」

に行けば、神に出会えると間違った信仰を持つことがあるのではないでしょう

か。今日、エルサレムの「嘆きの壁」を神のように慕い、礼拝している人がい

ます。しかし、礼拝すべきはイエスのみです。イエス様がすべてです。イエス

様が神殿の主人公なのです。

 

ちょっと考えてください。スターバックスで2,3名、イエスの名によって集まったら、あのエルサレムの金ぴかの荘厳な神殿より、偉大なのです。神殿の主であるイエスがおられるからです。「わたしの名によって集まるところにわたしもいる」と言われたからです。

 

残念な事に、2000年前、エルサレムはイエスを排除したのです。宗教指導者たちはイエスを「ベルゼブル=サタン」呼ばわりしたのです。(マタイ12:24)そして十字架につけて、この世から追い出してしまったのです。イエスを追い出したエルサレムの神殿は主人を失った伽藍堂に過ぎません。今日、立派な教会堂はあっても、イエス様を追い出しているラオデキア教会のようであるなら、(黙示録3:20)そこには生きた礼拝はなく、単なる宗教儀式を行事として繰り返しているだけということになります。「教会に通う」ことが救いとなる訳ではありません。


 



 建物は関係ないなら、伝統的な礼拝堂でもいいんじゃない?と言われるかも知れませんね。しかし、礼拝堂の構造が信仰のあり方を形作ることも覚えておく必要があります。礼拝堂を特別空間にすることで、「神に会える場所」にしてしまってないでしょうか?それでは丸の内ビジネス街には、神の御臨在は無いのでしょうか?日曜午前中の礼拝を特別視することで、一週間の日常の時間帯には神の御臨在は薄いという印象を与えることにならないでしょうか?礼拝堂に固定長椅子があることで、「顔と顔を合わせる」エクレシアに大切な「お互い」の要素を剥奪していないでしょうか?説教者の講壇が高いところにあることで、説教者が特別で、その「仲介者」無しには神に近づけない、あるいは神の言葉を理解できないという印象を与えてないでしょうか? ちなみに、神と人との唯一の仲介者はイエス・キリストです。(第一テモテ2:5)結果、信徒を受動的にしていないでしょうか?教会堂を持つことが悪い訳ではありませんが、必要以上に豪華にするより、そのお金を「宣教」や「福祉」に使った方がいいのではないでしょうか?そもそも何千人を収容する大会堂が必要なのでしょうか?何千、何万という人達が毎週、同じ会堂に集う必要があるのでしょうか?小さな教会(エクレシア=信者の群れ)が社会の隅々まで行き渡る方が意味があるのではないでしょうか?

 

ホームレスGOD

ある本を読んでいるとき、面白い表現に出会いました。「ホームレスGOD」です。イエス様が地上に来られたとき、お生まれになる宿屋もなく、馬小屋で生まれましたね。お働きをなさっている時、こう言いました。「きつねには穴があり、鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない。」(マタイ8:20)ご自分の家であるばずのエルサレムの神殿に行くと、宗教指導者から、追い出されました。最後には町の外に追い出され、地上から追い出さ十字架につけられたのです。イエス様には休む家が無かったのです。イエス様が唯一休めたのは、エルサレル郊外のベタニヤにある一般家庭でした。あのマリヤとマルタが住んでいた家です。イエス様が住むのは荘厳な神殿ではなく、イエス様を信じるあなたやわたしの内です。名も無い私達はイエス様のお住まいなのです。私達は神の家。神は私達を「住まい」として選ばれたのです。それを聖書では「奥義」呼んでいます。

 

この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)

 

--------------------------------------------------------------------------

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

2021年4月3日土曜日

イエス・キリストは復活した!

 (特番)

CCCJesus Film 部門が作成したアニメショートビデオです。「復活」にフォーカスしています。大変よくできています。どんどん拡散してください。Here is a short anime film just released today. Please pass it on, "選ばれた証人 (日本語)" on YouTube.


https://youtu.be/LTo5xYzokIc

 

-----------------------------------------------------

福音(Good News)とは?

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

 

  キリストは、聖書に書いてある
とおりに、私たちの罪のために死なれたこ

  また、葬られたこと、

  また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、

 

 

キリストは復活して500人以上に現れた

また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。そして最後に、月足らずで生まれた者のような私(パウロ)にも現れてくださいました。

                    (Iコリント15:3−8)




 

復活がなかったら・・・

ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。もし死者の復活がないとしたら、

 

  キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、キリストがよみがえらな  

かったとしたら、・・・

  私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。

  私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみ
がえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。

  そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。

  そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに
望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。

                   (Iコリント15:12—19)

 

復活の事実

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。死が一人の人を通して来たのですから、死者の復活も一人の人を通して来るのです。アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストにあってすべての人が生かされるのです。

 

しかし、それぞれに順序があります。まず初穂であるキリスト、次にその来臨のときにキリストに属している人たちです
。それから終わりが来ます。

 

そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです。

 

最後の敵として滅ぼされるのは、死です。

                    (Iコリント15:20−26)

 

============================= 

意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com