2021年4月8日木曜日

霊とまことによる礼拝

 

人と神殿の関係が大きく変わった。

完全な犠牲、罪なき神の子羊イエスが十字架で死んで、贖いは完成しました。

 

「ただ1度」で、「完全」で「永遠」(ヘブル7:25−27、9:12)の贖いが成し遂げられました。

 

新約に入り、イエスの十字架と復活の御業が為されたあと、神殿に関連して

3つの重要なことが起こりました。

 

1)   イエスの復活後、至聖所のカーテンが上から下まで裂けた。

大祭司のみが1年に一度入る「至聖所」がオープンになった。隔てのカーテンがなくなった。イエスを信じる者は誰でも大胆に恵みの御座、神のもとへと行くことができるようになった。(ヘブル4:16)

2)   神殿は破壊され、以来再建されていない。

イエスは人々がエルサレムの神殿のすばらしさに驚いている時、この神殿

は破壊されると預言した。その預言は実現した。AD70年、ローマ軍の

侵入によって壊された。その後、神殿は再建されていないし、不思議なこ

とに、神はそれ以降、神殿を再建せよとは命じていない。

 

3)信じる者に聖霊が注がれた。(ヨハネ7:37-39、使徒の働き2章)

  信じる者のうちに神が宿ることになった。

 

つまり、どういうことでしょうか?・・・

 

 

私達は神の神殿、神の宮Iコリ 3:16−17)

イエスの御業ゆえに私たち、イエスを信じる者が「神の宮」となったのです!旧約時代に捧げられた無数の動物犠牲を考えてみてください。もう必要ないのです。完全なる子羊イエスが捧げられたからです。私たちは罪赦されて、「アバ父=お父ちゃん」と呼んで神の御前に出て、楽しめるのです。イエスは私たちに聖霊を注いでくださいました。聖霊は神です。すなわち、私たちのうちに神が宿っているのです。神の住まうところは本当の神殿です。神の家です。

 

私達はもう、神に出会うため、神殿に行く必要はありません。

 

神が私たちの内におられるのです。これはヨハネ4:21の成就なのです。イエス様があのサマリアの女と話したとき、非常に興味深いことを語りました。

 

イエスは彼女に言われた、わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。。。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人を礼拝者として求めておられるからです。」 

 

礼拝する「場所」はサマリア人が礼拝したこの山(ゲリジム山)でもなく、エルサレムでさえない、そういう時代に今、私たちは生きているのです。十字架と復活のみ業が為されたからです。

 

礼拝に特定の場所は必要ないのです。特定の建物は必要ないのです。

 

 

霊とまことによる礼拝

神は、霊とまことによって礼拝する者を礼拝者として求めておられます。神は「礼拝者」を求めているのであって、「場所」や「建物」を求めているのではありません。

 

霊とまことを持って神を礼拝するものの集まりが神殿であり、真の教会(エクレシア)なのです。

 

本当の神殿は、主を信じる人々のことです。(エペソ2:22)ですから礼拝を捧げる「場所」はどこであってもいいのです。神は霊ですからどこにでもおられます。家でも自然の中でもいいのです。会堂に集まるのが便利であれば、それでもいいのです。礼拝は霊的なものです。荘厳で立派なプログラムがあっても、そこに「霊的交わり」がなければ、ただのショーです。さらに言うと「礼拝」はプログラムへの参加ではなく、私たちの態度です。

 

「あなたがたのからだを神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさ

 い。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」(ローマ12:1)

 

イエスは言われました。「この神殿を壊してみなさい、わたしは3日で神殿を建て直す。」これはご自身の体のことを言われたのです。事実、3日ののちに復活しました。教会はイエスの体です。イエスが来られたのであの荘厳なエルサレル神殿の必要はなくなったのです。再建しなくてもいいのです。黙示録21:22によると、やがて天から下ってくるエルサレムには神殿がないと書いてあります。なぜなら、神ご自身がそこにおられ、それが神殿となるからです。

 

 

「場所」や「建物」が偶像になる危険

神殿が偶像になる危険もあります。建物にパワーがあるかのようになる危険

があります。あの「神殿」にいけば、あの「教会」に行けば、あの「場所」

に行けば、神に出会えると間違った信仰を持つことがあるのではないでしょう

か。今日、エルサレムの「嘆きの壁」を神のように慕い、礼拝している人がい

ます。しかし、礼拝すべきはイエスのみです。イエス様がすべてです。イエス

様が神殿の主人公なのです。

 

ちょっと考えてください。スターバックスで2,3名、イエスの名によって集まったら、あのエルサレムの金ぴかの荘厳な神殿より、偉大なのです。神殿の主であるイエスがおられるからです。「わたしの名によって集まるところにわたしもいる」と言われたからです。

 

残念な事に、2000年前、エルサレムはイエスを排除したのです。宗教指導者たちはイエスを「ベルゼブル=サタン」呼ばわりしたのです。(マタイ12:24)そして十字架につけて、この世から追い出してしまったのです。イエスを追い出したエルサレムの神殿は主人を失った伽藍堂に過ぎません。今日、立派な教会堂はあっても、イエス様を追い出しているラオデキア教会のようであるなら、(黙示録3:20)そこには生きた礼拝はなく、単なる宗教儀式を行事として繰り返しているだけということになります。「教会に通う」ことが救いとなる訳ではありません。


 



 建物は関係ないなら、伝統的な礼拝堂でもいいんじゃない?と言われるかも知れませんね。しかし、礼拝堂の構造が信仰のあり方を形作ることも覚えておく必要があります。礼拝堂を特別空間にすることで、「神に会える場所」にしてしまってないでしょうか?それでは丸の内ビジネス街には、神の御臨在は無いのでしょうか?日曜午前中の礼拝を特別視することで、一週間の日常の時間帯には神の御臨在は薄いという印象を与えることにならないでしょうか?礼拝堂に固定長椅子があることで、「顔と顔を合わせる」エクレシアに大切な「お互い」の要素を剥奪していないでしょうか?説教者の講壇が高いところにあることで、説教者が特別で、その「仲介者」無しには神に近づけない、あるいは神の言葉を理解できないという印象を与えてないでしょうか? ちなみに、神と人との唯一の仲介者はイエス・キリストです。(第一テモテ2:5)結果、信徒を受動的にしていないでしょうか?教会堂を持つことが悪い訳ではありませんが、必要以上に豪華にするより、そのお金を「宣教」や「福祉」に使った方がいいのではないでしょうか?そもそも何千人を収容する大会堂が必要なのでしょうか?何千、何万という人達が毎週、同じ会堂に集う必要があるのでしょうか?小さな教会(エクレシア=信者の群れ)が社会の隅々まで行き渡る方が意味があるのではないでしょうか?

 

ホームレスGOD

ある本を読んでいるとき、面白い表現に出会いました。「ホームレスGOD」です。イエス様が地上に来られたとき、お生まれになる宿屋もなく、馬小屋で生まれましたね。お働きをなさっている時、こう言いました。「きつねには穴があり、鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない。」(マタイ8:20)ご自分の家であるばずのエルサレムの神殿に行くと、宗教指導者から、追い出されました。最後には町の外に追い出され、地上から追い出さ十字架につけられたのです。イエス様には休む家が無かったのです。イエス様が唯一休めたのは、エルサレル郊外のベタニヤにある一般家庭でした。あのマリヤとマルタが住んでいた家です。イエス様が住むのは荘厳な神殿ではなく、イエス様を信じるあなたやわたしの内です。名も無い私達はイエス様のお住まいなのです。私達は神の家。神は私達を「住まい」として選ばれたのです。それを聖書では「奥義」呼んでいます。

 

この奥義が異邦人の間でどれほど栄光に富んだものであるか、神は聖徒たちに知らせたいと思われました。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。(コロサイ1:27)

 

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

 

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