外国で暮らす
私は、2009年から2010年、就労ビサを取得して家族4人アメリカ、フロリダ州に滞在したことがあります。子供達は近所の公立小学校と中学校に通い、私は宣教団の本部オフィスで仕事。フロリダ州ライセンスも取り、車を手に入れ、日常生活が始まりました。スーパーで買い物をし、日曜日は教会へと他のアメリア人と同じく生活していたのです。唯一違うのは、私達は日本国のパスポートを持っており、国籍は日本にあったということです。8ヶ月後は日本に戻ることを知っていました。
私達クリスチャンの国籍は天にあります。(ピリピ3:20)「天」=「御国」=「神の国」=「天の御国」と言い換えてもいいでしょう。クリスチャンは、神の国のパスポートを持ちながら、この世に生きています。そして、「この世」に永住しないことも知っています。やがては「この世」を離れて本国である「神の国」に帰ります。将来、帰る故郷のことをヘブルの記者もこのように書いています。
これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白 していました。そのように言っている人たちは、自分の故郷を求めていることを明らかにしています。もし彼らが思っていたのが、出て来た故郷だったなら、帰る機会はあったでしょう。しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。
(ヘブル11:13−16)
ここで分かるのは、クリスチャンは「天の故郷」に帰るのであり、そして、そこは、この地上より「もっと良い」故郷だということです。さらに・・
私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。(ヘブル13:14)
「来るべき」とは時間軸で未来にあるということですね。単に天=上というだけでなく、それは「やって来る」という概念です。パウロもエペソ1:7で「来るべき世々」と表現しています。
世と違う価値観でこの世を生きる
というのは、私はたびたびあなたがたに言ってきたし、今も涙ながらに言うのですが、多くの人がキリストの十字架の敵として歩んでいるからです。その人たちの最後は滅びです。彼らは欲望を神とし、恥ずべきものを栄光として、地上のことだけを考える者たちです。 しかし、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。 (ピリピ3:18−20)
注意深くこの箇所を読むと、「私達は天国に行きます。」と書いているのではないのです。これは「国籍」の話、アイデンティティの話です。あなたは「誰」でしょう?どういう者と認識して生きているでしょう? 19節に世の人の価値観が書かれています。彼らには「欲望が神」です。結局は、「地上のことだけ」を考える人達です。この地上での生活がすべてなのです。権力、お金、快楽でしょうか? それに対して、「私達の国籍は天にある」と言っているのです。つまり、私達のアイデンディディと価値観が違うことを示しているのです。イエスご自身、「神と富とに兼ね仕えることはできない。」と語ったコンテキストで、こう言われています。
「人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです。」
(ルカ16:15)
ヨハネもこう言っています。
あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もし だれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(Iヨハネ2:15−17)
今や、この世から取り出されて、神の子供とされ、「福音の大使」として、この世に派遣されている者としての意識です。(I Iコリント5:20)アンバサダー、「大使」は自国の代表として他国に住んでいるのです。自分の国を理解してもらい、友好関係を築くのが使命です。クリスチャンも「この世」に、「天の国民」としてのアイデンティティを持って生きるのです。
二重国籍
これは単なる天への「逃避行」ではありません。「この地」での使命を果たします。そして、興味深いのは「私達はやがて主イエスの御元に行きます。」ではなく、「そこから主イエス・キリストが来られるのを待ち望んでいる。」とあることです。この世に生きながら「主の来臨」を待ち望む生き方が示されているのです。
私はある意味、「2重国籍者」です。「天の国民」であると同時に、「日本」の国民です。私が日本に生まれ育ったことは、ある意味、神のご計画です。(使徒17:26)
2000年前のイエスの到来で「神の国」は始まっています。(ルカ11:20)ということは「神の国」と「地上の国」は同時並行で存在していることになります。(最終的には天のエルサレムが地に降りてきますが。)イエスご自身、地上にいた時には税を納めることを軽視せず、(マタイ17:27)パウロも「立てられた権威に従うよう」(ローマ13:1)勧めています。この世での責任を果たします。私は、日本の憲法を守ります。神の創造された被造物、日本の美を楽しみます。しかし、プライオリティとしては天の国民なのです。そこの王、真の王、諸国の王であるイエスに忠誠を誓っています。その国は永遠の国です。その国の憲法(キリストの律法)に従っています。
時として、この2つの国は対立します。特に、この世の王が「神」となり「礼拝」を強要する時には大問題になるのです。私達には、母国の王の他に、もう一人の王がいます。その王は永遠の王であり、真実の王です。たとえ、この世の王を裏切っても、この真の王を裏切ることはできません。(ルカ12:5)そこで、迫害、殉教という事態が発生するのです。
全てはアイデンディディの問題です。あなたは「誰」ですか?「誰」に属していますか?「誰」があなたの王ですか?「誰」に忠誠を誓っていますか?
弟子としての犠牲
ローマ時代、初代クリスチャン達は激しい迫害下にありました。クリスチャンとして生きることは命がけでした。313年、コンスタンティヌス皇帝が「キリスト道」を公認化されます。皇帝が自らをクリスチャンと宣言し、キリスト教に好意的になると、人々は「クリスチャン」になっておいたほうが得だと考えるようになります。礼拝が儀式や習慣となっていく中、真の信仰がなくても「教会に行っている人」が増え、「キリスト教徒」とみなされていきます。やがて生まれ変わっていない人がクリスチャンリーダーとして権威を振るうようになっていきます。聖書が信徒の手にないので、指導者の言うことに従うしかありません。やがて「十字軍」という神が喜ばれない虐殺を「聖戦」とし、行うようになります。権力が及ぶ範囲を広げること、戦利品で豊かになること・・・欲望が神となり、彼らの思いは地上のことだけになっていきます。「神の国」は名ばかりで「この世」の国に吸収されていきます。2重国籍は消え、この世だけが残るのです。
迫害下にあっては「殉教者の血は教会の種」と言われ、逆境の中で真のエクレシアが生み出されていったのです。彼らの告白は「イエスは主」であったのです。そして、「我らの国籍は天にある」だったのです。
「キリストにはかえられません」 「讃美歌21」522番
キリストにはかえられません 世の宝もまた富も、
このおかたがわたしに 代わって死んだゆえです。
世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け
キリストにはかえられません、
世のなにものも。
キリストにはかえられません、有名なひとになることも、
ひとのほめることばも、このこころをひきません。
世の楽しみよ、去れ、世のほまれよ、行け
キリストにはかえられません、
世のなにものも。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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