「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」 (マタイ13:44)
よくある解釈
「福音」は宝のように尊い。犠牲を払って全財産を投じても手に入れる価値がある。
問題点
1. この喩えの主語は「天の御国」であって、「福音」ではない。
2. 宝を見つけた人はなぜ「そのまま隠す」必要があるのか?福音は他の人に取られてしまうと無くなってしまうものではない。
3. 弟子道は「犠牲」が伴うことは確かだが、「福音」を信じることは私たちの側にコストがかかるだろうか?特に「持っているものをすべて売り払う」犠牲が条件だろうか?これでは「行いによる救い」を示唆するものにならないか?
喩えの背景
1. マタイ13章に立て続けに出てくる9つの喩え話は一括りのグループとして理解されるべき。
2. なぜならテーマが同じ「神の国」だから。
3. この一連の喩え話は12章の「ベルゼブル論争」の後に出てきている。
13:1に「その日」とあるので、同日に起こっている出来事であることが分かる。エルサレムから派遣された宗教指導者たちはイエスのメシア性を公に正式に拒否した。(マタイ12:24)それに対してイエスご自身も大変、厳しい対応をしている。(マタイ12:31−32)それでも宗教指導者はメシアとしての「しるし」を見せてくれとしつこく要求するが、公にはヨナのしるし(イエスの復活)以外は与えられないとお答えになった。(マタイ12:39)
4. イスラエルが国家としてイエスのメシア性を拒否したので、イエスのミニストリーが方向転換する。もはや奇跡は公へのメシアの証明としては行われず、それらはイエスを信じる者たちへの「弟子訓練」として行われることになる。またメッセージも「山上の説教」のように公なものから、弟子たちに対して、また霊的に目の開かれている人にだけ分かるように「喩え」で話されるようになる。弟子も実はよく分からなかったので、イエスご自身が解説なさっている部分もある。
5. 方向転換はイエスのミニストリーだけではく、神の救いのご計画にも及んだ。イスラエルが国家としてメシアを拒んだので、「メシア王国」はしばらくお預けとなり、異邦人と少数のメシアニックジューからなる「エクレシア=教会」すなわち、奥義としての「神の国」の到来となる。これは旧約聖書には述べられていない。(エペソ3:5)イスラエル人は夢にも思い描いたことがなかったろう。新約になって初めて明らかにされたので、「奥義」と呼ばれている。これはイスラエル人が望んでいたメシアが地上で直接治める「メシア王国」ではなく、イエスの昇天後、聖霊降臨によって始まった「この世のものではない王国」(ヨハネ18:36)すでに始まった霊的な「神の国」(マタイ12:28)なのだ。
6. 9つの一連の喩え話はこの「奥義としての御国」、つまりは「新約の教会
時代」がどうなるのかを説明するためのものである。「奥義としての御国」
すなわち「キリスト教界」には麦も毒麦も生えている。パン種、すなわち間違った教え=異端も存在する。この時代は「4つの種」の喩えのように福音を聞いても信じない者、信じても、その信仰がすぐに枯れる者、誘惑にとらわれ霊的に成長しない信者もいる。つまり「キリスト教界」の中にはいろんな人がいるのだ。イエスは、そういう現実が起こると前もって教えている。(事実、コリントの教会は問題だらけだった!)今は毒麦もそのままにされている。しかし、最後には地引網のように良いもの、悪いものは選別される(マタイ13:48−50)
7. マタイの福音書は基本的にユダヤ人に対して書かれている。従って、喩
えで使っている「用語」はヘブル的=旧約聖書的に解釈すべきだ。例えば、畑に隠された「宝」。「宝」とは何だろうか?旧約聖書には神がイスラエルを「宝」と呼んでいる箇所が多数ある。(出エジプト19:5、申命記14:2、詩篇135:4)ちなみに「畑に隠された宝」の喩えは次の「良い真珠」の喩えとペアになっている。真珠が取れる「海」も、47節の地引網の喩えの「海」も聖書的には「異邦人」ないし、異邦人が出てくる「場所」を指している。(参照:黙示13:1、17:15)
この視点での解釈
では、このような背景を知った上でどう解釈したらいいのだろうか?
「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」 (マタイ13:44)
天の御国:奥義としての御国=「教会時代」。イエスが地上にはいないが、天から大祭司として執り成し、聖霊によって前進する(使徒9:31)、この世の王国ではない、霊的「神の国」。これはすでに到来した。(マタイ12:28)
畑:キリスト教界。「キリスト教界」には「異邦人」も、また「メシアニックジュー」もいる。また「麦」も「毒麦」も混在している。
隠された宝:今は少数で目立たない(隠された存在である)メシアニックジュー、イエスを信じるユダヤ人。「神の宝」であることには変わりない。やがてキリストの地上再臨直前に国家的悔い改めが起こり、「イスラエルはみな救われる」ことになる。(ローマ11:26)まだ今は、その時ではないので、宝を見つけた人(神)は、「そのまま隠しておく」
持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。畑を買うのはキリストだ。
すべての栄光を捨て、人となり、十字架で裸のまま命を下げた。文字通りすべてを捨て、捧げたのだ。イエスの犠牲によって一度はメシアを拒絶した「宝」である神の民が贖われるという「喜び」のゆえに十字架を忍ばれた。(ヘブル12:2)
どうだろうか、視点が変わるとこうも違ったメッセージになってくる。次の「真珠の喩え」は異邦人の救いについてである。つまり、キリストはメシアを拒絶した「イスラエル」のためにも、契約の外にいて神なく、望みなく生きていた「異邦人」(エペソ2:12)ためにも、「すべて」を捨て、買い戻してくださった!キリストが罪の代価を払ってくださったので、私たちは「信じる」だけで救われる!
Jesus paid it all, all to Him I owe
Sin has left a crimson stain
He washed it white as snow
イエスがすべての代価を払った わたしが誇れるものは何も無い
罪は真っ赤な染みを残した
しかし、イエスは真っ白な雪のように洗い流してくださった。(私訳)
(賛美歌514)
犠牲を払ったのは神なのだ!
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* ネタ元はハーベストミニストリーズ メッセージ「メシアの生涯」
(#69−#73)
https://message-station.net/episode/cat_episode/messiah/page/4/
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執筆者:栗原一芳