2021年6月24日木曜日

実はよく分からない「畑に隠された宝」の喩え

 

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」 (マタイ13:44)

 



よくある解釈

「福音」は宝のように尊い。犠牲を払って全財産を投じても手に入れる価値がある。

 

 

問題点

1.      この喩えの主語は「天の御国」であって、「福音」ではない。

 

2.      宝を見つけた人はなぜ「そのまま隠す」必要があるのか?福音は他の人に取られてしまうと無くなってしまうものではない。

 

3.      弟子道は「犠牲」が伴うことは確かだが、「福音」を信じることは私たちの側にコストがかかるだろうか?特に「持っているものをすべて売り払う」犠牲が条件だろうか?これでは「行いによる救い」を示唆するものにならないか?

 

喩えの背景

1.      マタイ13章に立て続けに出てくる9つの喩え話は一括りのグループとして理解されるべき。

 

2.      なぜならテーマが同じ「神の国」だから。

 

3.      この一連の喩え話は12章の「ベルゼブル論争」の後に出てきている。

13:1に「その日」とあるので、同日に起こっている出来事であることが分かる。エルサレムから派遣された宗教指導者たちはイエスのメシア性を公に正式に拒否した。(マタイ12:24)それに対してイエスご自身も大変、厳しい対応をしている。(マタイ12:31−32)それでも宗教指導者はメシアとしての「しるし」を見せてくれとしつこく要求するが、公にはヨナのしるし(イエスの復活)以外は与えられないとお答えになった。(マタイ12:39)

 

4.      イスラエルが国家としてイエスのメシア性を拒否したので、イエスのミニストリーが方向転換する。もはや奇跡は公へのメシアの証明としては行われず、それらはイエスを信じる者たちへの「弟子訓練」として行われることになる。またメッセージも「山上の説教」のように公なものから、弟子たちに対して、また霊的に目の開かれている人にだけ分かるように「喩え」で話されるようになる。弟子も実はよく分からなかったので、イエスご自身が解説なさっている部分もある。

 

5.      方向転換はイエスのミニストリーだけではく、神の救いのご計画にも及んだ。イスラエルが国家としてメシアを拒んだので、「メシア王国」はしばらくお預けとなり、異邦人と少数のメシアニックジューからなる「エクレシア=教会」すなわち、奥義としての「神の国」の到来となる。これは旧約聖書には述べられていない。(エペソ3:5)イスラエル人は夢にも思い描いたことがなかったろう。新約になって初めて明らかにされたので、「奥義」と呼ばれている。これはイスラエル人が望んでいたメシアが地上で直接治める「メシア王国」ではなく、イエスの昇天後、聖霊降臨によって始まった「この世のものではない王国」(ヨハネ18:36)すでに始まった霊的な「神の国」(マタイ12:28)なのだ。

 

6.      9つの一連の喩え話はこの「奥義としての御国」、つまりは「新約の教会

時代」がどうなるのかを説明するためのものである。「奥義としての御国」

すなわち「キリスト教界」には麦も毒麦も生えている。パン種、すなわち間違った教え=異端も存在する。この時代は「4つの種」の喩えのように福音を聞いても信じない者、信じても、その信仰がすぐに枯れる者、誘惑にとらわれ霊的に成長しない信者もいる。つまり「キリスト教界」の中にはいろんな人がいるのだ。イエスは、そういう現実が起こると前もって教えている。(事実、コリントの教会は問題だらけだった!)今は毒麦もそのままにされている。しかし、最後には地引網のように良いもの、悪いものは選別される(マタイ13:48−50)


7.      マタイの福音書は基本的にユダヤ人に対して書かれている。従って、喩

えで使っている「用語」はヘブル的=旧約聖書的に解釈すべきだ。例えば、畑に隠された「宝」。「宝」とは何だろうか?旧約聖書には神がイスラエルを「宝」と呼んでいる箇所が多数ある。(出エジプト19:5、申命記14:2、詩篇135:4)ちなみに「畑に隠された宝」の喩えは次の「良い真珠」の喩えとペアになっている。真珠が取れる「海」も、47節の地引網の喩えの「海」も聖書的には「異邦人」ないし、異邦人が出てくる「場所」を指している。(参照:黙示13:1、17:15)


 

この視点での解釈

では、このような背景を知った上でどう解釈したらいいのだろうか?

 

「天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。」 (マタイ13:44)

 

天の御国:奥義としての御国=「教会時代」。イエスが地上にはいないが、天から大祭司として執り成し、聖霊によって前進する(使徒9:31)、この世の王国ではない、霊的「神の国」。これはすでに到来した。(マタイ12:28)

 

畑:キリスト教界。「キリスト教界」には「異邦人」も、また「メシアニックジュー」もいる。また「麦」も「毒麦」も混在している。

 

隠された宝:今は少数で目立たない(隠された存在である)メシアニックジュー、イエスを信じるユダヤ人。「神の宝」であることには変わりない。やがてキリストの地上再臨直前に国家的悔い改めが起こり、「イスラエルはみな救われる」ことになる。(ローマ11:26)まだ今は、その時ではないので、宝を見つけた人(神)は、「そのまま隠しておく」

 

持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。畑を買うのはキリストだ。

すべての栄光を捨て、人となり、十字架で裸のまま命を下げた。文字通りすべてを捨て、捧げたのだ。イエスの犠牲によって一度はメシアを拒絶した「宝」である神の民が贖われるという「喜び」のゆえに十字架を忍ばれた。(ヘブル12:2)

 

どうだろうか、視点が変わるとこうも違ったメッセージになってくる。次の「真珠の喩え」は異邦人の救いについてである。つまり、キリストはメシアを拒絶した「イスラエル」のためにも、契約の外にいて神なく、望みなく生きていた「異邦人」(エペソ2:12)ためにも、「すべて」を捨て、買い戻してくださった!キリストが罪の代価を払ってくださったので、私たちは「信じる」だけで救われる!


 

Jesus paid it all, all to Him I owe

Sin has left a crimson stain

He washed it white as snow

 

イエスがすべての代価を払った わたしが誇れるものは何も無い

罪は真っ赤な染みを残した

しかし、イエスは真っ白な雪のように洗い流してくださった。(私訳)

 

                      (賛美歌514)

 

犠牲を払ったのは神なのだ! 

 

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  ネタ元はハーベストミニストリーズ メッセージ「メシアの生涯」

 (#69−#73)

https://message-station.net/episode/cat_episode/messiah/page/4/

 

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執筆者:栗原一芳

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2021年6月16日水曜日

コロナ渦に思う、イエスと食事

団欒は信頼を生む

どの文化でも共に食事をすること(共食)が大事にされている。ある意味、会食の空間を共有することが、言葉より大事なのだ。最近、G7があったが、国のリーダー同士が信頼を築くのに必ず会食する。団欒は信頼を生む。それは「愛」の表現でもある。パリサイ人は「罪びと」とは一緒に食べなかった。彼らにとって「罪びと」達は、敬遠する対象で、愛する対象ではなかったからだ。しかし、イエス様は喜んで罪人たちと会食した。

 

イエスが家の中で食事の席に着いておられたとき、見よ、取税人たちや罪人たちが大勢来て、イエスや弟子たちとともに食卓に着いていた。これを見たパリサイ人たちは弟子たちに、「なぜあなたがたの先生は、取税人たちや罪人たちと一緒に食事をするのですか」と言った。 (マタイ9:10−11)

 

人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。  (マタイ11:19)

 

と、会食は伝道において、また弟子訓練において、イエス様のミニストリーの大きい部分を占めていた。一緒に食事することができないコロナ渦はクリスチャン生活にも実は多大な負の影響を与えていると思われる。例えば、クリスチャンリトリート。その目的は「共に食事し、共にスポーツし、共にお風呂に入り、共に笑い・・・」と時間と空間を共有して「密」に交わることにある。今は、無理してリトリートをやったとしても、食事は個食、黙食、共に声を出して賛美できない。交わりもマスクで表情が見られない・・と何とも虚しい。

 

 

赦しの共食

復活後のイエスと弟子達がガリラヤ湖畔で朝食をとった。ペテロが裏切って初めての会食。ペテロはあれ以来、どんな気持ちだっただろうか。すでに希望を捨て、漁師に戻っていた。しかし、イエスは再び、ペテロの前に現れ、以前のように親しく接し、共に朝食を取られた。これは「赦し」と「和解」の確認であり、「愛」と「絆」の再確認だった。「共食」は関係を確認する大事な手段なのだ。

 

ちなみに、新約聖書では、断食は命じられてない。イエスご自身は、罪びとが周りを囲む食事が好きだったようだ。やがて私たちも天国での大祝会に参加する。(ヘブル12:22 新改訳第3版)。イエスのミニストリーの最初がカナの婚礼での奇跡だった。イエスがもたらすものは禁欲律法ではなく、「祝宴」であることの象徴だ。カナの「祝宴」始まり、天での「大祝宴」で終わる。イエス様と食事(共食)は切っても切れない関係があるのだ。

 

 

イエスを味わう

イエスは、「わたしは命のパンです。」(ヨハネ6:35)と言われた。私たちにとっては「ご飯」かも知れない。つまり毎日、肉体を維持するために食べているもの。イエスは「新しい命」に生きるために必要な「糧」なのだ。こんなに解りやすい例えはないだろう。食することと霊的真理は深い関係にある。(ヨハネ6:54−58)あまりに例話がビビッドなので、聞くのに耐えないと言った弟子たちがいたくらいだ。(ヨハネ6:60)

 

また、聖餐式で受ける盃とパンはイエスの血と裂かれた肉を表す。(Iコリント10:16−17、11:23−26)これまた霊的真理と食物がビビッドな形で関係づけ、描写されている。今でも聖餐に与る時、口にパンを入れもぐもぐさせながら肉感的に十字架を体感する。(11:26)イエスはそうせよと命じたのだ。ギリシアの形而上学とは随分違う。「からだの復活」もそうだが、新旧約聖書は観念論というよりは、tangible(触知可能)志向なのだ。

 

「天の御国は飲み食いのことではなく・・・」(ローマ14:17)とパウロは言っているがそれは「奥義としての御国」=「エクレシア」の霊的本質を伝えるためであり、実際、初代教会では食事を共にてのフェローシップを大事にしていた。むしろ行き過ぎていたのでパウロは修正せねばならなかった。(Iコリント11:20−22、33−34)

 

実際イエスご自身は「天の御国で飲み食いするのです。」と言っている(ルカ22:30)幽霊のような「霊的」世界に行くのではなく、「飲み食い」できる復活の「からだ」を頂くということだ。そして「飲み食い」の重要性はそこにもあるのだ。体があるということは「タッチ」や「ハグ」という接触があるということでもある。

 

 

コロナ渦の障害

人間らしさをキープする3つの自由があるという。 1)動く自由 2)集まる自由 3)対話する自由。やはり、人間は「群れ」、「一緒に食べ」、「語り合う」ところに「生きている意味」を感じる。言葉で伝わるのは7%と言われる。幼稚園の子どもたちが情緒不安定になるという。マスクで先生の表情が見えないから。これはボディブローのように後で効いてくるだろう。会社員もオンライン会議ばかりでは情緒不安定になる。オンラインだとコミュニケーションの大部分を占めるボディランゲージが制限される。さらに触れ合い、匂いも制限される。確かに「言葉」で語り合って機能的にはコミュニケーションはできるのだが、実際会うのとは「質」が違うのだ。





 イエスは病人に「触れて」癒された。「触れる」ことで愛とケアを伝えた。タッチも、握手も、ハグも無い世界。やはりこれが長く続くと見えないところで障害が出てくるのではないか?

 

TMCエクレシアもzoomに移って、一応「機能的」には通常営業なのだが、何か言葉にできない障害が出てきている気がする。初めは、Stay Homeもマイペースで生活できて「いいな」と思っていたところ、1年も経つと、何か倦怠感や気分の落ち込みを経験するようになっている。やっぱり不自然だ。人々のマスク姿にもうんざりしてきた。

 

愛は「密」。だから「密」を避けることは「反愛」だろう。タッチする意義。顔を合わせて会食する意義がコロナで奪われている。ある牧師が今の状況を嘆き「教会は食べる集団なのに・・」と言っていた。うなずける。「共食」ができない影響は大きい。

 

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2021年6月10日木曜日

セカンド・チャンス論?

 教会にとって避けて通れない難しい問題(3)

セカンド・チャンス論?




日本のキリスト教界を代表するような牧師が最近セカンド・チャンス論を公式に宣言し物議を醸している。

 

「死んだ先祖はどうなるんですか?」よくある質問だ。その時「安心してください、陰府で福音を聞くチャンスがありますよ。」と言われれば何と安心することだろう。日本のような土壌では、死んだ人にも福音のチャンスがあって欲しいというのは心情的には痛いほど分かる。逆に「それなら勝手に生きて、死んだあとゆっくり考えるよ。」という人も必ず出てくるだろう。

 

フランスの観光地、モン・サン・ミシェルの修道院には「陰府を訪れるキリストの絵」が展示されている。イエスは本当に陰府に行って、福音を語ったのか?もっともカトリックには、そもそも「煉獄」という特異な教理があるが・・。

 

果たして、セカンド・チャンスはあるのだろうか?彼らの根拠としているのは・・・

 

1.      なぜ罪人はすぐに地獄に行かないでハデスと言う中間地(拘置所)にいるのか?最終審判は「白い御座の裁き」で下る。それまでは最終審判は下ってないので、拘置所(ハデス)で悔い改める機会があってもいいのでは?なぜ、「白い御座の裁き」で「いのちの書」が開かれ、(黙示20:12)未信者かどうか、もう一度確認する必要があるのか?それは、ハデスで悔い改める人が出る可能性があるからではないか?

 

  「その霊において、キリストは囚われの霊たちのところに行って、みこと

   ばを語られたのです。」Iペテロ3:19 新改訳第3阪)

 

ほら、キリストはハデスにいる罪人たちのところに行って、福音を宣べ伝えたでしょう?

 

ただ、「囚われの霊」が人々なのか、「悪霊」なのか議論が分かれる。ただ、20節に「従わなかった霊」との対比に方舟で救われた8名の話がされているので、従わなかった「人々」と解釈する方が自然な気がする。

 

また、「みことばを語られた」も解釈が難しい。そのまま読むと「福音を語った。」と解釈できそうだ。また、「宣べ伝えられました。」という別訳もある。そうすると「福音を宣べ伝えた。」と解釈でき得ることなる。

 

しかし、新改訳2017年版では単に「宣言されました。」になっている。原語は中立的な言葉で必ずしも「福音を語った」ことにはならないようだ。2017年版では、「囚われの霊」のところに行って、十字架上でのイエスの勝利を「宣言した」と解釈できる。翻訳には常に翻訳者の神学が反映されるので難しいところだ。

 

2.      「・・死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていたのですが、・・」

                (Iペテロ4:6 新改訳第3版)

 

ほら、「死んだ人々にも福音が宣べ伝えられていた・・」と明確に書いてあるでしょ?

 

しかし、新改訳2017年版では誤解を避けるためか「死んだ人々にも生前、福音が宣べ伝えられていたのです。」に直されている。ただし「生前」は原文にないので補足である

 

3.      「天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。『御座についておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世よ限りなくあるように。』(黙示5:13)

   

ここでは「地の下」にいるすべての造られたものが賛美するとあるので、「地の下」=ハデスで悔い改め、賛美する者達がいるということだ。

 

反対論者は、これは神の全的支配そして、創造者と被造物との関係を示す表現だと弁明する。

 

 

皆さんはどう考えるだろうか?大事なことは聖書全体から見ていくことだろう。

 

「御子を信じる者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神の

 ひとり子の名を信じなかったからである。」(ヨハネ3:18、参照3:36)

 

このような聖句を見ると、「すでに」地上での御子イエスに対する態度で、「さばき」が決まっているように思える。さらに言うと、ある意味での「さばき」はすでに地上で始まっているとも言える。闇を愛する歩みには、それなりの苦痛が伴うからだ。(3:19)

 

LGBTに関しても聖書の「再解釈」や「冷静」な議論が勧められている今日、福音派が当たり前に解釈してきたことが「再解釈」される可能性がある。今後、どうなって行くのか?

 

最終的には神のご判断だが、聖書全体からはセカンド・チャンスを支持するのは難しいのではないか?


 

Q. 神は公平なお方です。「福音」を一度も聞いたことのない人をそのまま「地

  獄へ直行」はあり得ない。あくまで、「福音」にどう応答するかで運命が決

  まるはずです。福音に触れなかった人に、最終的裁きである「白い御座の裁

   き」に出頭する前に、ハデス(中間地=拘置所)で福音を聞くチャンスがあ

   るのは妥当だと思います。それを示唆するような聖書の箇所もあるじゃない

   ですか?

 

あなたならどう答えますか?

 

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2021年6月3日木曜日

自衛戦争と非暴力

 教会にとって避けて通れない難しい問題(2)

教会に突きつけられてくる以下の課題は簡単には答えが出ない。自分も悩んでいる部分があるので、今回は回答ではなく、問題を考える視点を分かち合うことにします。

 

自衛戦争と非暴力

尖閣問題が浮上し、ここ数年で一気に「改憲論者」が増えた。この時代、誰も侵略戦争は肯定しないだろうが、国際ルールを無視して、力による現状変更をしてくる輩にどう対処したらいいのか?




 

イエスは「あなたの敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われた。

 

少なくもコンスタンチン皇帝の時代までの初代クリスチャンはイエスの教えに忠実に一切の殺人(戦争、中絶、死刑)には加わらなかったようだ。その後、アウグスティヌスやトマス・アクイナスなどが正統的な「戦争」はありうるとし、宗教改革時のルターやカルビンも「正戦論」を踏襲している。今日までクリスチャンの間でも意見は2分している。「十字軍」の暴挙を行った中世カトリックだが、今日、方向転換したようだ。サイダーによると、「カトリック教会のカテキズム」も平和主義を支持しており、教皇ベネディクト16世は2007年に「敵を愛することは『クリスチャン革命』の核心なのです。」と語ったという。

 

クリスチャンはイエスの教えを守り戦争、死刑を含め一切の殺人を拒否すべきか?私が大学時代に出会った宣教師は「『命には命』、死刑制度は聖書も支持している。」と聞いたことを今でも覚えている。あるいは、自国民を守るために戦うことは正しいことか?アメリカのキリスト教右派では「共産主義を叩くことは正戦」という思想がある。また、テロ集団を叩くのは正しいことなのか?今なら「イスラム原理主義テロを叩くことは正戦か?」となるだろう。

 

個人レベルでも、暴漢に襲われた時、抵抗しないのか?そもそも非戦、非暴力は現実的じゃないのでは?悪がはびこるこの世では役に立たないのではという意見もある。いや、そうやってイエスの教えを無力化するのかという反論もある。

サイダーは「クリスチャンが非暴力を選択する根拠は、費用対効果の計算ではなく、十字架にある。」と言い切っている。

 

クリスチャンの間でも見解に幅がある。悪を見過ごすことが正しいこととも思えない。非暴力による「抵抗」運動という考えもある。ガンジーや、キング牧師を思い浮かべるだろう。彼らは文字通り、命をかけた。非暴力抵抗が「弱々しい」というとこにはならない。口先だけの「抵抗」なら大きな力にはならなかったろう。

 

「戦場で死の危険にさらされる兵士と同じリスクを取って、不正や抑圧と戦う非暴力運動に挺身しない限り、イエスが教える平和構築に従うと言ったところで何の重みもない。」(191)とサイダー(下欄の参考本紹介参照)が語っているごとくだ。

 

確かに、彼らの努力で、社会が変わった。ただ、かつての天安門事件や、今日の香港での民主化運動の結末を見ると、なんともやるせない。結局、「力」がねじ伏せるのか?

 

戦争を考える時、もう一つの大事な側面は「平和構築」という視点だ。テロリスト集団は社会的、経済的に抑圧されていることが多い。未成年たちが生きるために武器を渡されて戦うこともあるだろう。「平和構築」では戦争が起きる原因(例えば人種差別や貧困、教育の格差など)を前もって取り除き、戦争が起きない国作りを支援する。「平和をつくるものは幸いだ。神の子供と呼ばれる。」(マタイ5:9)

 

今後の戦争はドンパチより情報戦。オーストラリアでは中国共産党の「静かなる侵略=Silent Invasion」が話題となった。知らないうちに軍施設近辺の土地が外国人に買われていたり、若い人への左翼教育が広がったりする。静かに革命分子を育てていく。さらにそれに関連してサイバーテロという形での戦争がある。アメリカでは安全保障の観点から中国への理解を深める目的(?)で設立された「孔子学園」を閉鎖した。日本はスパイ天国と言われている。スパイ活動をどう監視するのか。サイバーテロは軍事施設を狙うよりライフラインを狙う。水道、電気、原発・・どうサイバーテロから守るのか?隣国との「親和」と「不信」をどう現実的にバランス取るのか?考えることは沢山ありそうだ。

 

Q: 地引網出版「キリスト者の戦争論」(富岡幸一郎氏x岡山英雄氏の対談)の中で岡山氏はこう語っている。「私は、絶対非戦、絶対平和主義、つまり、たとえ自分は殺されても相手を殺さないというのが聖書の教えだと思います。新約聖書に従うなら、それ以外の立場は取れないと思います。・・・私は実際にできるかどうかは、わかりませんが、家族を守るためであっても人を殺さないという立場を貫きたいと思います。(p.66

 

あなたなら、なんと応答しますか?

 

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このテーマでさらに学びたい人は・・・

 

「イエスは戦争について何を教えたか」〜暴力に時代に敵を愛するということ

              ロナルド・J・サイダー著 あおぞら書房

 

「キリスト者の戦争論」 岡山英雄、富岡幸一郎 地引網出版

 

「非戦論」 富岡幸一郎  NTT出版

 

「聖書と戦争」 ピーター・C・クレイギ著  すぐ書房

 

「キリスト教と戦争」 石川明人著  中公新書

 

「日本の戦争と宗教 1899−1945」 小川原正道 著 講談社選書

 

「植民地化・デモクラシー・再臨運動」 キリスト教史学会編 教文館

 

「キリストが主だから」いま求められる告白と抵抗

               山口陽一・朝岡勝 共著  新教出版社

 

「告白と抵抗」ボンヘッファーの十字架の神学

               森野善右衛門 著  新教出版社

 

「平和構築とは何か」紛争地域の再生のために

               山田満 著  平凡社新書



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