今回は最近「舟の右側」に掲載された日本同盟キリスト教団中原キリスト教会牧師の山口希生氏の記事を分かち合うことにします。「福音とは何か」シリーズの最終回で「イエスが王となられた!」というタイトルです。大変重要な内容なので、2回に分けて分かち合いたいと思いました。記事からの引用にコメントをつける形にしていきます。(記事からの引用文は緑の「 」内)
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「福音=エバンゲリオン」は政治的な用語として使われていた
「福音という言葉のギリシア語の原語はエバンゲリオンで、今や日本語としてもすっかり定着したようにも思えるが、この言葉は紀元1世紀のギリシア・ローマ世界では新しいローマ皇帝が即位するという『喜ばしい知らせ』を伝える言語として用いられていた。」
当時、皇帝の即位に使われていた言葉で、宗教的というより、もともと政治的な用語だったのだ。実際に皇帝アウグストが即位された時に、彼が世界に平和や秩序をもたらしたことが「福音」(エバンゲリオン)と呼ばれていた。また当時は、皇帝が「救い主」「神」と呼ばれることも多々あったようだ。
「したがって、使徒パウロが『キリスト・イエスの福音』と述べる時、それはイエスという方が王として即位された、世界の王になられたことの布告という意味合いを、当時のギリシア・ローマ世界の人々は感じ取ったであろう。」
そういう政治的コンテキストで「福音」が使われていたのだから、当然イエスの福音は「王の即位」という意味になる。また、キリスト=メシアは称号であり、旧約では「王」「祭司」「預言者」が即位するときに「油注がれる」ことに由来している。
メシアには政治的解放者としてのイメージが強い。ローマからのユダヤ独立のため戦ったバルコクバはラビによりメシアと認定された。実際、メシア(キリスト)は歴史的に沢山、出現したと山口氏は語る。例えば、バビロン捕囚からイスラエル人を解放して祖国に帰還させたアケメネス朝ペルシアの創始者キュロス大王は「キリスト・キュロス」と呼ばれていたことを指摘している。
福音の内容は「イエスが世界の王として即位した!」こと
「福音」と聞くと私たちは「罪赦されて天国に行けること」と理解するが、歴史的、言語的には、世界の王の即位のことなのだ。「福音」を「個人的なもの」に限定してしまうと本来の全体像が見えなくなる。
『イエスが、私たちの世界の王となられた!』、これこそが福音の内容であり、私たちの救いとはイエスが王となられたことに伴う結果の1つなのである。
この理解は大変重要だ。黙示録1:5ではヨハネはイエスを「地の王たちの支配者」と紹介しているが、誠に的を得た表現なのだ。「天」の支配者ではなく、わざわざ「地の王たちの支配者=諸国の王」としてのキリストが描かれている。それは歴史的な「メシア」、「福音」の用語の使い方からは当然の描写だろう。また黙示録11:15では「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。」という表現もある。まさに山口氏が指摘しているように「私たちの救いとはイエスが王となられたことに伴う結果の1つなの」だ。「贖い」も同じように「個人」の贖いを超えて「全宇宙」「全被造物」の贖いが視野に入っている。「救い」を個人的なものに矮小化しないよう注意が必要だ。
この記事ではローマ書の冒頭部分のNTライト訳が紹介されている。
王であるイエスの奴隷、使徒として呼び出され、神の良き知らせのために分けられたパウロより。神はこの良き知らせを、聖典の中で神の預言者を通して前もって約束しました。この知らせは、肉のつながりという点ではダビデの子孫にあたる神の子に関するものです。この方は、聖なる霊により死者の間からよみがえらされ、神の子として力強く宣言された、イエス、王、我らの主です。私たちはこの方をとおして、その名のゆえに、信仰による従順をすべての国々へもたらすため、恵みと使徒としての役割を授けられました。そこには、王であるイエスによって呼び出されたあなたがたがも含まれています。
山口氏は新改訳聖書2017年版と比較して、ライト訳の方が宗教的というより、政治的色合いが濃い(より原意に近い?)ことを指摘している。
この新しい王の即位のニュースに、当時の政治的リーダー達が穏やかでいられなかったことは想像に難くない。
「このように考えるのなら、ローマ書は宗教的な信仰を呼びかける書であるのみならず、政治的な忠誠の向かうべき先を問う文書、絶大な権威を誇るローマ皇帝よりも、その皇帝によって無残に殺されたユダヤの王にこそ忠誠を示すべきだとローマ市民に呼びかけている書だということになる。かつて太平洋戦争中の日本においても、秘密警察に取り調べを受けたキリスト者が『天皇とキリストとどっちが偉いのか?』と尋問を受けたと言われているが、ローマ書は同じような問いをローマのキリスト者に向かって投げかけているのだ。」
パウロはキリストを王として伝えていたので、反対者達はこう言ったのだ。
「彼らはみな、『イエスという別の王がいる』と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています。」(使徒17:7)
イエスを放っておくと、群衆が「王」として崇めるので、ローマが介入してくるのをユダヤのリーダー達は心配した。(ヨハネ11:48)「メシア」は「政治的解放者」であるとの認識があったからだ。覇権国ローマを不快にさせる政治的問題に発展する可能性があると見たのだ。だからイエスを十字架につけた。だいたい宗教的リーダーの即位というだけなら「世界中を騒がせてきた者たち」(使徒17:6)という騒動になるだろうか。
「つまりパウロは、イエスを単に宗教的な信仰の対象としてではなく、ローマ皇帝(カエサル)に勝る政治的な王としてイエスを宣べ伝えていたということだ。」
つまり、クリスチャン信仰には、イエスという「世界の王」へ忠誠を誓うという側面があるので、歴史的に「この世の王」から迫害を受けてきたのだ。また大艱難時代に反キリスト(政治的、経済的、宗教的グローバルリーダー)から激しい迫害を受けることなる。クリスチャン信仰には「信仰は単なる心の問題だから・・」では済まされない要素があるのだ。
(次回に続く)
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執筆者:栗原一芳
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