「世」にあるクリスチャン
イエス様はご自身、税を納める必要はなかったのですが、ペテロとご自分の分を納めるようにと魚の口にコインを用意されました。(マタイ17:27)パウロも上に立てられた権威に従うように勧めています。(ローマ13:1)我々の国籍は天にあるとはいえ、実際にはこの地上で生きています。社会生活をしています。聖書は、世の中に関わり、世の中で責任を果たすよう語っています。
特に日本のようなクリスチャンがマイノリティの国では、異文化と折り合いをつけて生きている訳です。聖書的価値観だけで、それ以外は一切見ない、聞かないということを欲するなら、パウロが言うようにこの世を出ていかなければならないでしょう。
私は前の手紙で、淫らな行いをする者たちと付き合わないようにと書きました。それは、この世の淫らな者、貪欲な者、奪い取る者、偶像を拝む者と、いっさい付き合わないようにという意味ではありません。そうだとしたら、この世から出て行かなければならないでしょう。 ( I コリント5:10)
アメリカ、ペンシルバニア州にはアーミッシュという、今でも電気も使わない保守的なクリスチャンの人達がいます。移動手段は馬車です。以前お分かちした私が学んだケンタッキー州のバイブルスクールのように「分離主義」を取っている場合、世の人と触れる機会がほとんど無くなります。それなりに「清さ」は保てますが、地の塩、世の光となることができません。「変貌山体験」(マタイ17章)のような、いわゆるMountain top experienceも必要でしょうが、その後、山を降りて民衆の只中に入ってミニストリーすることも必要です。そうでないと、世に対して証もできません。愛を示すこともできません。聖書は社会との関わりを断つようには言っていません。
カイザルのものはカイザルに
現実、社会で生きていくには、神を知らぬ人々との付き合いをしていかなければならないのです。違う道徳的価値観を持った人々と付き合わねばならないのです。社員、ほとんどがノンクリスチャンという会社環境で仕事しなければならないのです。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に」と2つの次元に責任を果たし、生きるのがクリスチャンです。もう少し正確に言うと、「神の権威に服する」と同時に、「限定的に神が地上のリーダーに付与した権威」にも従うということ。(ローマ13:1)「限定的」とは、もし地上のリーダーが明らかに神に反することを強要してくる時には、地上のリーダーの命令より神に従うということ。(使徒5:29)世には生活していても、世のものではない。すなわち「世にあって世のものでない」がクリスチャンのアイデンディディです。国籍はすでに「天」にあり(ピリピ3:20)、この地上に遣わされている「大使」なのです。
悪と善が共存する時代
聖書的に、どういう時代に生きているのかという時代認識が大事です。今は「奥義としての御国=教会」の時代です。旧約時代で預言された「メシア王国=御国」は、キリストの地上再臨後で、まだ先です。今は「麦」と「毒麦」が混在する時代という認識をすることが大切です。そして今は千年王国ではないので、サタンも大活躍です。クリスチャンとして生きるのにチャレンジングな状況です。時に迫害もあるでしょう。そういう時代なのです。それは想定内です。悪魔的なもの、反キリスト的なものの存在を想定して生きなければならないのです。今後、インターネットやAI、それらを含むデジタル社会を避けては通れません。神が与えた便利なツールなのか、悪魔のツールなのか?どう考えていったらいいのでしょう。
どこまで「世」を許容するのか?
問題は、神なき世界で、どこまで許容するか・・そこが難しいところです。
インターネットが始まった頃、あるクリスチャン達は「それは悪魔のツールだ。これでポルノが全世界に広がる!」と警告したかも知れません。しかし、今日、多くのクリスチャンはコンピューターを使い、インターネット、SNSを使っています。学校にもタブレットが入ってきています。今はYouTubeで福音メッセージも広げられるし、zoomでクリスチャンの世界カンファレンスを開けます。コロナ渦でもzoomのおかげでスモールグループでのバイブルスタディができます。同じツールを使って反キリスト的な悪魔的な思想や不道徳を広げることもできます。私の考えではテクノロジー自体は中立です。使う人によって良くも悪くもなるのです。
最近、フェイスブックが人権やメンタル面の問題より利得を優先したことで問題になったことがありましたね。テクノロジー自体は中立ですが、テクノロジー開発者、管理者の多くは反キリスト的、無神論的なリベラル思想を持っているように思えます。
どんどん進むデジタル社会
社会全体は有無を言わさず、デジタル社会へ移行しています。日本でもマイナンバーカードと運転免許証、保険証が紐つけられていきます。今後、スマホで投票や納税申告、役所手続きが出来るようになるでしょう。便利と同時に、そのシステムに入らないと社会的な責任も果たせなくなる訳です。
キャッシュレスはさらに進み、そして人体への情報チップ埋め込みが進むでしょう。チップに情報が入ることで、認知症の高齢者が迷い人になってもすぐ名前や住所が分かり助かります。医療情報が入っていれば、災害時に「お薬手帳」が無くても服用すべき薬の情報がわかります。手をかざすだけで買い物や役所の手続きができれば便利です。またスーパーでお年寄りが震える手で財布からコインを出すのに手間取って、後ろの列の人々がイライラすることも無くなります。手をかざすだけで会計は終わりです。色々便利なのです。はい、便利です。ただ、それはデジタル管理社会への道でもあります。では、だからと言ってアーミッシュのように全てのテクノロジーを拒否して生きるべきなのでしょうか?徹底するならそういうことになるでしょう。
聖書的には、この世界は世界統一政府が管理するデジタル管理社会になっていくことは分かっているのです。しかし、だからと言って何でも反対すればいいのでしょうか?ここが難しいところです。
もちろん、ネブカデネザルの金の像を拝めと言われれば、拒否しなければなりません。では、コロナワクチンは? ワクチンパスポートは? ベーシックインカムは? メタバースは?・・・
フェイスブックはメタバース(仮想社会)を推進するようですね。仮想社会の中でアバターとなって登場し、売ったり買ったり、実際のビジネス会議をしたり、果てはメガチャーチで礼拝もしたりできるようになるでしょう。それがどういう結果をもたらすのか、まだ分かりません。
人権より利得?
カインはテクノロジー、アート系の祖先です。(創世記4:16−22)そして、カイン自身は神への反逆者であり、最初の殺人者です。つまり悪魔側だったのです。その影響が代々、伝達されているのかも知れません。テクノロジーは今日進歩し、クローン技術やメタバース(仮想現実社会)を作り出しています。多くの「世」の音楽や、前衛アートなどは、基本的には反キリスト的性質を持っているようです。
神なき共産主義は道徳基準がないので、人体実験など含め、一線を超えた技術開発をやる可能性があります。「臓器狩り」などすでにやっているし、細菌兵器を含めた化学兵器の開発実験、人間クローンなども、実験中かも知れないのです。最終的には「効率」、「便利」さを「道徳」や「人権」より優先させた「優秀人間優先社会」へと向かっていくでしょう。進化論的淘汰理論を進めれば、当然の結果なのです。生まれる段階で、子宮をスキャンされ、障害者は排除されていくかもです。
今もワクチン接種では副反応リスクより、打たないリスクの方が大きいと言う「リスクの大小」で選択していく論理が進んでいます。少数の人が重い副反応に苦しんでも、社会全体にとって益がある方を取るのです。そして、社会全体に貢献しない部分は切り捨てられていくことになるでしょう。やがては利益と欲望の渦巻く「大バビロン」に向かっていくでしょう。(黙示録18章)
ただ、携挙があるまでは、クリスチャンは「この地上」で「社会の一員」として生きていくのです。クリスチャンが何を利用し、何に対してNOと言っていくのかが、問われてきますね。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
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執筆者:栗原一芳
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