また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです。
(Iテサロニケ1:9−10)
これはテサロニケの人々がクリスチャンになってどのように変えられたかをパウロが書いているものです。「生けるまことの神」に仕えていなければ、結局、何らかの「偶像」に仕えているのです。偶像に満ちた、99%がノンクリスチャンという日本で、私が「生けるまことの神」に仕えるようになったのは奇跡です。
興味ふかいのは、彼らが「御子が天から来られるのを待ち望むようになった。」という事実です。つまり再臨のイエスを待ち望むものになったということです。クリスチャン信仰は「いい教え」を信奉する「道徳」を超越しています。このような「非常識」なことを信じるようになるのは「奇跡」です。
Born again、「新生」するとは、こういう事です。キリスト教の知識が増えること=Born againではありません!宗教法人としてのキリスト教会の会員に加わることでもありません。「新人類」(エペソ2:15、4:23−34)に加わる事です。神なしの世界観と価値観(聖書では「世」と表現しています)を否定し、聖書が提供する世界観と価値観に生きるようになることです。(ヨハネ17:16、Iヨハネ2:15−16)
さらにペテロはこう言っています。
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っています。 (Iペテロ1:8)
私自身、実際にイエスにあったことはありません。高校2年の時、伝道メッセージを聞いてイエスを信じました。見たこともない人を信じ、今は見たこともない人を愛し、喜んでいます。歴史を通して、多くの人がイエスを見たことはないけれども信じて喜びに満たされ、それを証し、賛美の歌を作ってきました。私自身、祈りの中で「栄光に満ちた喜び」に涙したことも何度もあります。一体どうしたことでしょう。これは聖霊の働きとしか言いようがありませんね。
福音を聞いた人に、この「不思議」が起こるのです。そして、この喜びを伝えるために海外にまで宣教師として出ていく人もいるのです。実際、そのような宣教師の働きゆえに、日本人の私達もクリスチャンになったのです。
私は今、クリスチャンとして以下のことを信じています。
● キリストが十字架で私の罪のために死なれたこと。
● キリストは3日目に蘇ったこと。
● 天に昇ったこと。
● やがて再び地上に来られること。
さらに言うならば、「御使」や「悪霊」の存在、「天国」、「地獄」の存在、イエスのなさった数々の超自然的な「奇跡」を信じています。実は聖書をまともに信じるとは、世の人の常識にとっては「キチガイ」でしょう。きっとこんな会話になるでしょう。
「2000年前、イエスと言う神の御子が私の身代わりに十字架で死んでくださったのですよ。」
「ほう・・」
「そのイエスは3日後に蘇って500人以上の弟子たちに現れたのです。」
「まあ、あなたたちの教義上そうなのでしょうけど、人が蘇るなんて到底、信
じられませんね。」
「そのイエスは、復活後、天に昇られ見えなくなったのです。」
「やっぱり、宗教やってる人は怪しいな。」
「やがて主イエスは再び、天からやって来られ、悪を裁き、自ら王となって、
この地を治めるのです。」
「あなた、そんなこと本気で信じてるんですか?」
「私はいたって本気です。」
「頭大丈夫ですか、精神科に診てもらったほうが良さそうですね。」
私がノンクリスチャンなら、そう言うでしょうね。はっきり言って聖書の内容は、この世の常識から言うと「トンデモ話」です。しかし、聖書的に言うならば、この「世」の人々は(かつて自分もそうでしたが・・)空中の権威を持つ支配者、すなわちサタンに騙され、言いなりになっているのです。(エペソ2:2)霊的に盲目で真実が見えていないのです。イエスを信じた時、聖霊が与えられます。聖霊は「真理の御霊」です。(ヨハネ14:17)このお方が真理に目覚めさせて下さるのです。自分でもどうしてか分かりません。しかし、今はまとも聖書の内容を信じているのです。そして、納得がいっているのです。
新約聖書を読むと、イエスの「復活」と「再臨」が大きなテーマであることが分かります。クリスマスでは「キリストのご降誕」だけが切り取られて「お祝い」されていますが、本来「主はきませり!」はキリストの来られた以下の理由を含むトータルプラン・パッケージなのです。
● 創造主なる神は、人類の救い主としてイエス・キリストを2000年前、神地上に遣わされ、御子は、馬小屋で赤子として生まれ、様々なメシア的奇跡を行い、自らのメシア性を実証し、最後は、受難のメシアを成就するため、十字架で私達の罪のために死なれ、3日後に「初穂」として蘇り、神の子であることを実証すると同時に、私たちの「復活の体」を保証し、天に昇り、現在は、「大祭司」として私達のために取りなしをし、やがて「裁き主」として再臨され、悪を滅ぼし、「王」として、この地に「御国」(メシア王国=千年王国)を樹立し、諸国を治める。
つまり、その「受難のメシア」としての「初臨」、「栄光のメシア」としての「再臨」を含め「主はきませり」を祝うべきなのです。すでに来られたキリストの事実は、将来、来られる「再臨」のキリストへの約束と希望です。
あなたがたが、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。
(Iテサロニケ1:9)
「ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに躍っている」や、「御子が天から来られるのを待ち望むようになる」ことは「信仰の結果である、たましいの救いを得ている」からなのです。人間的には説明がつきません。世の非常識をまともに信じられるようになる。もっと正確に言うと、違う次元に目が開かれる、違う世界観、歴史観を持つようになる。これは不思議な聖霊の御業です。
救いは神のワザです。人の説得ではありません。ですから私たちは愚かになって福音の言葉を語るだけです。あとは聖霊に任せましょう。
十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。 (Iコリント1:18−21)
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳
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