戦争には「大義」が必要
日常生活で人を一人殺せば、殺人罪で逮捕され裁かれる。しかし、戦場で敵を何人も殺せば讃えられる。考えてみれば変な論理だ。同じ「命」には変わりないのだが。ところで、人は平気で他人を殺せない。戦場とて人殺しをするには「理由=大義」がいる。
つまり、相手を「殺してもいい悪い奴らなのだ」と説得させなければならない。日本が太平洋戦争に突入した時は、「大東亜共栄圏」を構築し、欧米の帝国主義からアジアを守るという「大義」を掲げた。そして、敵国である英国、米国は「鬼畜米英」と呼ばれた。敵=悪人という構造が出来あがる。「いざ来い、ニミッツ、マッカーサー 出て来りゃ地獄へ 逆落とし」という品のない軍歌まで生まれた。
今回、ロシアは当初「ドンバス地方の親ロシア派住民を守るため」という大義を掲げた。初めから「侵略」しますと宣言する戦争は誰もやらない。日本も満州を守りたかったし、満州鉄道の護衛という目的で関東軍が配備されていた。しかし、そこには領土拡大の欲望が渦巻いており、盧溝橋事件(自作自演?)を起こして戦争を始めていく。ベトナム戦争開始時のトンキン湾事件もアメリカの自作自演だったと言われている。他国まで行って「罪のない」ベトナム人を殺した後遺症は大きかった。帰還した兵士たちの多くが精神的トラウマを抱えるようになった。当然だろう。戦場であれ、人を殺すとはそういうことだ。
戦争には「宗教」が必要
戦争には「大義」だけでは不十分だ。それで「宗教」が必要になる。十字軍のように「エルサレムをイスラムから奪還する!これは神のためなのだ!」と。宗教的大義を持ってくる。イスラムのジハード(聖戦)では、「自爆テロ」はアラーへの最高の奉仕であり、これで天国が確約されるとする。オウム真理教の起こした「地下鉄サリン事件」では人々をポア(殺害)することが最高善と信じて行った。つまり「正しいことをやっている」という洗脳が必要になる。戦争を正当化する「世界観」が必要になる。神を持ってきて神を後ろ盾にする。古今東西、戦争の神々は常に存在した。
大日本帝国時代、天皇は「神」であった。しかし、素朴な神社を構える伝統的な神主は「天皇は神ではない」と知っていた。その証言もある。国家神道が、すでに素朴なアニミズムを超えた、戦争を支える「装置」になっていったことを知っていたのだ。日本の場合はさらにそれに「同調圧力」が加わり、国民は「NO」と言えなくなった。メディアも反戦の記事を書けなくなった。反抗的な新聞社には紙の配給を停止した。戦争末期のスローガンは、「一億火の玉!」「一億玉砕!」。ここまで来ると、カルト狂信と同じだろう。宗教は献身を要求する。ちょっと考えて欲しい。あの時、「国家神道」がなかったら、「神国」日本でなかったら、天皇が「現人神」でなかったら、あの戦争はどうなっていたのか。そこまで無茶な戦闘を続けただろうかと・・・
真の戦争は「霊的戦い」
初代クリスチャンたちが戦争を拒否したのは、人殺しに反対するだけではなく、兵士になると現人神であるローマ皇帝礼拝を強要されるからだったのだ。それは偶像礼拝であり、戦争は「神」のために戦う、いわば礼拝行為の一部となっていた。
太平洋戦争中に「カミカゼ」に乗って自爆した兵士達は「靖国で会おう」「天皇陛下万歳!」と叫んで突っ込んで行ったのだ。それは大日本帝国への献身であり、天皇への礼拝行為だったのだ。戦争が悪なのは「偶像」礼拝なしにあり得ないからだ。単なる社会的、政治的大義だけでは、まだ人は殺せない。そこで神がかってくるのだ。神が「良し」とされる戦争でなければならない。神が「天国」(イスラムの天国であれ、 ヤスクニであれ)を保証しなければならない。後で国民は知ることになるのだが、「お国のため」とは民衆のためではなく、天皇制のことであったと。事実、沖縄では市民10万人が本土(天皇のいる東京)を守るための人の盾となった。
人が人を殺すことの背後にはサタンがいる。人類最初の殺人はカインによるアベルの殺人。妬みによる殺人には、サタンのプッシュがあったと思われる。自殺もサタンのプッシュがなければ通常できることではない。「誰でもよかった」という無差別殺人を行う犯人の背後には悪霊の働きがあるだろう。神が与えた命を奪う行為はサタン的だ。戦争は多くの憎しみを生み、多くの命を奪い、土地や被造物(動植物や自然環境)を荒廃させる。どう考えても御心ではない。人を殺すものに永遠のいのちがとどまることはない。(Iヨハネ3:15)今回のウクライナ戦でも大義はともかく、多くの子供達が犠牲になっている。それだけでアウトだろう。それを喜ぶのはサタンだろう。サタンは「この世の神」と呼ばれている。(IIコリント3:4)残念ながら、この世は直接的には「空中の権威を持つ支配者」であるサタンに支配されている。(エペソ2:2)サタンにひれ伏せば権力、富が手に入る。(マタイ4:8−9)侵略戦争の背後には、この力が働かないと言えるだろうか?(ヤコブ3:16、4:1−2)
霊的戦いに勝利せよ!
戦争は偶像礼拝を喚起する。そして、その神(指導者、主義)のために殺人をしに戦場に行く。戦争の背後にはサタンがいる。ドンパチやっている背後では「霊的戦い」が繰り広げられている。だから、クリスチャンは、霊界での戦いに勝利しなければならない。(ダニエル10:13、20)ニュースや新聞で報道されている表面的なことだけで一喜一憂できないのだ。背後で起こっている霊的戦いに目を向けなければならない。戦争を長引かせることで益を得る軍事産業もある。ベトナム戦争のように、米国指導層のプライドゆえに負けを認められず、戦争を継続し、若者を戦場に送り続けることもある。サタンの策略に無知であってはならない。( IIコリント2:11、エペソ6:11)
地上の王たちはイエスにひれ伏さない限り、サタンの餌食になる可能性がある。国は「獣化」する。現在も少数民族を弾圧、抹殺、または再教育(洗脳)しようとしている国がある。また、戦争には「嘘」(フェイクニュース)がつきものだ。サタンは「偽りの父」(ヨハネ8:44)と呼ばれているこのように「獣化」した国の背後にはサタンが働いていると言えよう。私たちには「祈り」という別の武器がある。私たちは大祭司イエスと共に「執り成し」の祈りをすることができる。
私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。私たちの戦いの武器は肉のものではなく、神のために要塞を打ち倒す力があるものです。 (IIコリント10:3—4)
1962年10月、ソ連がキューバに攻撃用核ミサイルを配備し、当時冷戦状態だったアメリカとの緊張関係がマックスとなった。あわや世界を巻き込む核戦争になる瀬戸際で、フルシチョフからの申入れで交渉が行われ、アメリカがキューバへ侵攻しないことを条件に、ソ連がミサイルを撤去することに同意した。こうして危機は回避された。この背後には多くの教会で平和のための祈りが積まれていたことを見逃してはならない。寸でのところで神が介入し人間の愚かしさを止めてくださったのではないだろうか。
最終的な平和はイエスの再臨によってもたらされる「メシア王国」まで待たなければならないが、その希望を抱きつつ、今は、霊的戦いに参戦しよう。祈りにより霊の流れを変えることは可能なのだ。
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● お勧め映画
「Thirteen Days」
キューバ危機についての映画 いかに危機を脱したのか?
「ペンタゴン文書」
ベトナム戦争下、政府が国民を騙していたことの記録が発覚!
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執筆者:栗原一芳