そこに愛はあるんか?
消費者金融のコマーシャルです。でも結構、使えるフレーズです。ハーベストの中川健一氏は、自分がメッセージをする時、一番に考えることは、「聴衆を愛しているか?」ということだそうです。これは自分にも刺さりました。単に聖書の真理を語ればいいのではなく、愛をもって語る必要があるのです。語るだけでなく、何をやるにも「そこに愛はあるんか?」と問う必要があるのです。
有名なIコリント13章でパウロは、「山を動かすほどの信仰があっても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」と言い切っています。捉えようによっては厳しいお言葉です。ここでの愛は、キリストだけを見つめ、へりくだって神と人とに仕えることです。大きな集会で癒しの奇跡を行なっても、集まる人数や献金の額だけに興味があり、この愛がないなら意味がないのです。
愛のない教会への警告
黙示録2章−3章は当時のアジアにある7つの教会への励ましと警告のメッセージが語られています。エペソの教会は偽りの教えを見抜くほど、正確な教理を保持していました。キリストもこれを褒めておられます。しかし、彼らは「初めの愛」から落ちてしまったのです。イエスと共に行動した弟子たちや復活を目撃した弟子たちの時代から次世代への移行期だったのです。それで教理は継承していましたが、実際イエスと行動を共にしていた人々のような感動、愛をキープするのは難しくなっていたのでしょう。しかし、ここでのキリストの警告は厳しいものです。
けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。だから、どこから落ちたのか思い起こし、悔い改めて初めの行いをしなさい。そうせず、悔い改めないなら、わたしはあなたのところに行って、あなたの燭台をその場所から取り除く。 (黙示録2:4−5)
「初めの愛」とは、初めにあったキリストへの、そして兄弟姉妹に対しての愛です。方向転換し、「初めの愛」に戻らなければ、「燭台をその場所から取り除く」というのです。これはご臨在が去るとも解釈できますし、燭台を教会とするならば、教会としての本質や役割を消去するとも取れます。それほど厳しいものです。キリストのご臨在がなければ、立派な会堂はただの建築物にすぎません。おそらく、エペソの教会の状態を放置すると、正しいことは言っているけれど、キリストのご臨在のない、教会としては本質を失ったラオデキアの教会になってしまうからでしょう。(黙示録3:20)
今日でも「使徒信条」をお題目のように唱えてはいても、キリストへの情熱のない教会もあるのです。ある教会では礼拝が終わると皆、そそくさと帰ってしまうそうです。それで、心ある信徒が牧師に「礼拝後、2−3人でお互いのため祈る時間を持ちましょうよ」と提案し、それが役員会にかけられましたが、何と、否決されてしまったというのです。お互いの愛を強めることに、あまり関心がないのかも知れません。礼拝という儀式さえ無事、行われれば、「それで良し」ということなのでしょうか?悲しいですね。
愛の実践の場としてのエクレシア
初代教会は家々で集まっていました。家族のような付き合いだったのです。文字通り、「聖なる口づけをもって」(Iコリント16:20)挨拶を交わしていたのです。それがニコライ派の教えが入り込み、教職・信徒の「階級分け」が始まり、それこそソーシャルディスタンスが生まれてしまったのです。その後、中世カトリックにおいて、ディスタンスは決定的になります。もはや、口づけどころか、ローマ法王とは気軽に口も聞けない関係になってしまいました。
TMCエクレシアは「至近距離」と「等身大」をモットーにしています。皆、主にある兄弟姉妹として交わり、人生を分かち合います。祈り課題を出しあって、お互いのため、祈るので、メンバーはお互いどういう状況にあり、どういう必要があるのか知っているのです。スモールグループの人数なら関係も深まるし、ファーストネームで呼びあえる仲になれるのです。しかし、1000人も集まる礼拝であったら、お互い名前も分からないでしょう。愛を実践する場としてはスモールグループの方がいいのです。現代ではSNSで「つながって」はいますが、それでも孤独な人が多いのです。キリストを中心としたコミュニティが絶対に必要なのです。
愛は神から出ているのです
バイブルスタディグループのメンバーが「私には神を愛する愛がない。」と正直に告白しておられました。私には無いのです。愛は神から出ているのです。(Iヨハネ4:7)初めに私たちが神を愛したのではありません。神が先に、私たちを愛してくださったのです。それも口先だけではなく、犠牲を捧げてくださったのです。(Iヨハネ4:10)まず、神の愛を体験しなければ、神と人とを愛することはできません。次にこの事実を知ることです。聖霊によって、神の愛は私たちの心に注がれています。(ローマ5:5)どう感じようと、これが聖書的事実です。その愛を外に流して頂く事しかできません。それを信じることです。内に住むキリストに生きて頂くことです。(ガラテヤ2:20)愛することは自己啓発セミナーで習得するのではなく、むしろ古き人が十字架で死に、キリストが私を通して生きておられるという「信仰」によるのです。
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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳