2023年2月2日木曜日

クリスチャンとしての防衛論


紛争解決の手段として「戦争」をすることは日本の憲法9条を待つまでもなく、国際的に否定されている。武力による現状変更(侵略)は国際的に非難される。

しかし、実際は、武力による現状変更を試みる国もある。侵略を受けた国は黙って見ているのか?当然、国内に入ってきた武装勢力を戦って排除しようとうるだろう。つまり、「防衛」だ。多くの人は、クリスチャンに限らず侵略にはNOと言うだろう。それでは防衛という戦いは正当化されうるのか?クリスチャンは非暴力に徹するべき?国家的に侵略を受けた時、無抵抗でいいのか?

 

頭を悩ます問題です。なかなか正解は出ないかも知れませんが、今回の記事が少し頭を整理する助けとなればと思います。まずそもそも論・・・

 

神の殺人〜主は与え、主は取られる。

殺人は絶対「悪」か?そうであるなら、神はその「悪」を行うことはできないはずだ。しかし、創造主であり、命の与え主なる神には、それを与え、それを取られる権威がある。神は世界的大洪水を起こし、地を裁き、それによりノアの家族8名を除いて全人類を滅ぼしてしまった。神はソドムに硫黄の火を下しソドムの街全体を滅ぼしてしまった。出エジプトするイスラエルを追ってきたエジプト軍を海に沈めて水死させてしてしまった。コラの事件では神罰で14700人が死んでいる。(民数記16:49)ダビデが人口調査をした罪のゆえに、イスラエルに疫病が下り、民の7万人が死んでいる。(IIサムエル24:15)偶像に走る自らの民を女子供含め、あわれみをかけずに殺害せよとの命令を下す。(エゼキエル9:4−6)そして終末の「白い御座の裁き」では、歴史に現れたすべての不信者を裁き、「燃える火の池」に投げ込んでしまう。これらは今の標準からいえば、人権無視も甚だしいが、命を創造した神には、それを奪う権威がある。そして、全能なる神の判断は絶対的に正しいと考えられる。

 

神の民の殺人

被造物である人間の場合は違う。基本、人が人の命を奪うことは許されない。「殺してはならない」(出エジプト20:13)が主の命令だ。命は神によって与えられているものだからだ。しかし、カナン侵攻の際、イスラエル人はカナンに住む女、子供も含め異教の民を、神の命令に従い「聖絶」している。「神の民」が殺人を犯している。(民数記21:34−35、申命記2:33−34)ただ、それはイスラエル人の恣意的決断ではなく、絶対的に義である神の命令従ったまでのことだ。それが罪であるかどうなの最終判断は神がなさることを考えると、神の命令は絶対正しいと解釈せざるを得ない。もし、殺人が絶対的悪ならば、いかなる状況でも、「全き義」である神ご自身は、殺人を犯せないし、神の民イスラエルに殺人を命じることも出来ないはずだ。

 

さて、次にハマンの悪巧みによって、ユダヤ民族が抹殺されようとした時の記事を見てみよう。

 

「神の民」の自衛の戦い

エステル記を読むと、ユダヤ民族を滅ぼそうとした勢力、7万5千人を殺している。(エステル9:16)これは明確に自らの民の「防衛」のためだ。救いの歴史の視点から言っても、人類の救い主、メシアを生む民が根絶されてはならなかったのだ。国家の責任は国民の生命と財産を守ること。守るためには戦うことが必要な時もあるのでは?

 

次に「個人的復讐」と「国家の防衛」の違いについて見てみよう。

 

ダビデのサウル王への態度

サウル王はダビデへの妬みから、腹心の部下であるダビデを殺そうとした。ダビデは、個人的復讐はせずに、ご判断を主に仰ぎ、復讐を主にお任せしている。

(詩篇17:13)エステル記の「国民的サバイバル」のケースと「個人的な復讐」は区別しないといけない。ちなみに「歯には歯を」は、元来、復讐のガイドではなく、加害者が負う責任(償い)の話である。カインの兄弟殺人から始まり、個人的な復讐(あるいは妬み)により血を流すことは許されるべきではない。

 

キリストの教え

「右の頬を打たれたら・・・」有名なこの箇所も個人的な復讐に関するケースで防衛には適用できない。また、「剣を持つものは剣によって滅ぶ」(マタイ26:50−52)も、のちに使徒(伝道者)となるペテロに言った言葉であり、防衛のコンテキストではない。伝道を武力(強制的改宗)によって行なってはならないという戒めだ。

 

イエスは「あなたの敵を愛しなさい、迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5:44)と言われた。「迫害」というコンテキストで、個人的な「信仰」に関わる問題だ。これもクリスチャンの個人的な生活の中での教えで「国防」に適用すべきではないだろう。

 

次に「国家」に与えられた「剣」の話を見てみよう。

 

剣を帯びる国家権力 (ローマ13:1)

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられているからです。(ローマ13:1)  

 

国家レベルの話に戻ろう。国家には「権力」が与えられている。神が認めて、お与えになっている。「権力」が「力」として行使される背景に、実行力のある「力」がある。その具体的な現れが「剣」(武力)だ。

 

彼はあなたに益を与えるための、神のしもべなのです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。            

                  (ローマ13:4)

 

つまり、「権力」を行使するために「剣」が与えられているというのだ。悪いものを罰するためには「剣」により言うことを聞かせる。国家秩序維持のために武力の行使を認めている。どの国でも警察はピストルを携帯している。最終手段として悪いものを従わせるためである。以上の聖句にも「悪を行う人には怒りを持って報いる」とある。この場合は「個人」の復讐の話ではなく、「公」の機関が悪に立ち向かうケースである。自国に侵略してくる悪い国の軍隊を自国から追い出すために、言うことを聞かせるために「武力」の行使が必要になるのではない? 

 

また、防衛力=攻撃ではなく、防衛力は「交渉力」という考えもある。武力の行使の前に、外交が重要であることは言うまでもない。しかし、裏打ちのない、言葉には説得力がない。「正義」のない「力」は「暴力」にしか過ぎないが、「力」のない「正義」では悪をねじ伏せる事は出来ない。結果、悪をのさばらすことになる。

 

聖書が語る世界のリアリティ

今は混在の時代。悪と善、麦と毒麦、神もリアルだが、サタンもリアル。特に極端な理想論に陥らないために、以下の2つのことの認識が必要だ。

 

1.      サタンは現実。サタンにより獣化する国が出現することが可能。つまり、

国際秩序を無視して、侵攻する国は現実にあるということだ。

2.      人は罪人。地位・名誉・財産・権力に誘惑される。自己中心になる。

間違った判断をする国家的リーダーの出現は可能なのだ。

 

国連本部にも引用されている有名なイザヤ書の箇所。

 

主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない。

                          (イザヤ2:4)

 

後半は引用されるが、実は前半が見落とされる。「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。」つまり再臨の主が王として来られ、国々を裁き、判決を下した後に、世界的平和(千年王国)が来るのだ。逆に言えば、再臨までは真の世界平和は来ないのだ。条約は破られ、侵略は繰り返される。剣が必要なくなるのは再臨後なのだ。国防の問題はクリスチャンによっても見解が異なるだろう。しかし、以下を思いに留めておくのが良いと思う。

 

  死にまで従順な「受難のメシア」と、裁きを行う再臨の「王なるメシア」。このメシアの二面性の理解が必要。王とは、裁き主、統治者である。

 悪のいいなりでいいのではない。再臨時に、主は決着をつける。

 今は、サタンが活躍する時代。闇の力はリアル。個人的には殉教への備え、

  国民的には国防が必要と思われる。信仰の自由を維持するための戦いはある。

 

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参考資料

「バイブルと安全保障シリーズ」(1)〜(3)高原剛一郎

 https://www.youtube.com/watch?v=x_XFLTXXGr4

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

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執筆者:栗原一芳

Japantmc@gmail.com

 

 

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