イエスが王として来られるのは知っているでしょう。しかし、あなたも王になることをどれだけ理解しているでしょうか?
新天新地において王となる
最終的に新天新地において、「神のしもべ達」は神に仕え、同時に「王」として治めることが明記されています。
彼らは世よ限りなく王として治める。(黙示録22:5)
「彼らは」とは文脈上、「神のしもべ達」で信者の事です。つまり、王はキリストだけではないのです。私たち信者は「王」となるのです。そして、「世よ限りなく」とあり、永遠の秩序であることが分かります。また、諸国の民がいることも明記されており、新天新地はイスラエルだけではないことも分かります。
こうして人々は、諸国の民の栄光と誉れを都(新エルサレム)に携えてくることになる。(黙示録21:26)
千年王国で王となる
また私は、イエスの証しと神のことばのゆえに首をはねられた人々のたましいを見た。彼らは獣もその像も拝まず、額にも手にも獣の刻印を受けていなかった。彼らは生き返って、キリストとともに千年の間、王として治めた。
(黙示録20:4)
「彼ら」は、この文脈からは患難期を通って殉教した信者のことであることが分かります。
しかし、同時に、
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。 (黙示録20:6)
ここでの「彼ら」は「第一の復活」に預かるものであり、第二の死(白い御座の裁きで裁かれる)に会わない者、すなわち全ての信者(聖徒)と考えられます。それは私たちクリスチャンを含んでいるのです。そして、もう1つ明確なのは、地上に成就する千年王国での統治期間は、「千年」という期間限定です。
ここで大事なのは、「王となる」というステイタスの話だけではなく、王として「治める」と役割を執行することが書かれている点です。「行政的」な仕事をするのです。そして、治めるためには「治める側」と「治められる側」の人々がいるということです。
補完し合う「旧約預言」と「新約預言」
旧約聖書と新約聖書は補完し合っています。特に「ダニエル書」、「エゼキエル書」、「ゼカリヤ書」と「黙示録」は密接な関係があります。というより、これらの旧約預言書なしに、黙示録を正確に理解することはできないし、黙示録なしに、これらの預言を正確に理解することができないのです。
例えば、ダニエル12:7の「それは一時と二時と半時(3年半)である。聖なる民の力を打ち砕くことが終わるとき、これらすべてのことが成就する」とありますが、これは黙示録13:5−7と関連しています。「この獣には・・・42ヶ月(3年半)活動する権威が与えられた。・・・獣は、聖徒たちに戦いを挑んで打ち勝つことが許された。」そして、この獣は7年間の患難期の終わりに再臨するキリストによって滅ぼされ、御国(千年王国)が「成就」するのです。
イザヤ書65章−66章は千年王国の記述と思われます。「新しい天と新しい地」という表現が出てきますが、「百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる」(イザヤ65:20)また、「わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく」(イザヤ65:22)とあり、寿命があるのです。永遠の秩序である新天新地とは違う世界であることが分かります。つまり、この地上だということです。なぜ、千年王国には死ぬ者がいるのかは、後で説明します。
またエゼキエルの神殿から流れ出る生ける水の描写(エゼキエル47章)は、黙示録20章の千年王国の描写と思われます。「生ける川」の描写は新天新地にも出てきますが、新天新地には神殿がない(黙示録21:22)ので、これは新天新地ではなく、この地上に成就する千年王国であることが分かります。また、「海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。」(エゼキエル47:9)とあり、ここからも、これがこの地上に成就する千年王国であることが分かります。なぜなら、新天新地には海がなく(黙示録21:1)、呪われるものは何もない(黙示録22:3)ので「悪い水」が「良くなる」ことはあり得ないのです。
ともあれ、このように旧約預言が、黙示録の預言を補完し、より詳細にわかる手助けをしていることが分かります。
ゼカリヤ書から読み解く黙示録
さあ、そしてゼカリヤ書です。旧約最後の書であるマラキ書の1つ手前にある書です。後ろから探すと探しやすいです。特に14章に注目してみましょう。
まず「主の日」という表現は主が偶像礼拝や悪を「裁く」日を表わします。2節には「すべての国々を集めてエルサレムを攻めさせる」とあり、これは黙示録16:16「こうして汚れた霊どもは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる場所に王たちを集めた」また、「また私は、獣と地の王たちとその軍勢が集まって、馬に乗る方とその軍勢に戦いを挑むのを見た。」(黙示録19:19)に呼応しており、反キリストとキリスト軍との最終戦、(ゼカリヤ14:3)いわゆる「ハルマゲドンの戦い」の描写です。「すべての国々」が攻めてくるので、国名が限定されている「エゼキエル戦争」(エゼキエル38章)とは違います。ちなみに、「ハルマゲドンの戦い」は諸国が戦い合う世界大戦のことではなく、天と地の戦い、すなわち天から来るキリスト軍と「獣」率いる諸国の反キリスト連合軍との戦いの事です。
その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ、残りの半分は南へ移る。(ゼカリヤ14:4)
キリストの初臨の時、確かにオリーブ山を訪ねてはいますが、このような大地震が起こった記録はないので、これは再臨時であることが分かるのです。すべての聖徒達(すでに天に挙げられていた)も主と共に下ってきます。(ゼカリヤ14:5)キリストは反キリスト軍を滅ぼし、オリーブ山で勝利宣言をされます。反キリストは偽預言者と共に捕らえられ火の池に投げ込まれます。(黙示録19:20)「残りの者達」、つまり獣=反キリストだけではなく、反キリスト軍の軍隊も滅ぼされます。(黙示録19:21)ただし、反キリスト軍が全人類ではないので、全世界の民間人がどうなっているのかは定かではありません。しかし、このような説明もあります。
エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る 。(ゼカリヤ14:16)
このような事は人類の歴史上まだ起こったことがありません。従って、これもキリストの地上再臨後の千年王国での出来事である事がわかります。この聖句から分かるのは、ハルマゲドンの戦いの後、「生き残った者」がいるという事。おそらく諸国の民間人でしょう。そして、その者達は、万軍の主である王キリストを礼拝し、仮庵の祭り(千年王国の成就)を祝うためにエルサレムに上ってくるとあります。つまり、心から信じていなくても、強制的にでも王キリストに従わされるという事です。そうしないと雨が降らないという呪いを受けてしまうのです。(ゼカリヤ14:17−18)「千年王国」後のサタンが解放された時、エルサレムに攻め入る反抗的な人々がどこから出てくるのか(黙示録20:7−8)これで、説明がつきます。
ハルマゲドンの戦いで、反キリスト軍がエルサレムに攻め入りますが、ユダヤ人の中にも「残される人々」がいるのです。「しかし、残りの民は都から絶ち滅ぼされない。」(ゼカリヤ14:2)患難期に「生き残った」ユダヤ人たち、また「生き残った」諸国の民は、その肉体(朽ちる肉体)のまま千年王国に入ります。それで、千年王国で、自然環境が良くなるので長寿にはなるけれど、死ぬ人はいるのです。これで説明がつきます。私たちクリスチャンは患難期前の携挙の時に、すでに復活の体、朽ちない体に変えられるので、キリストの地上再臨後の千年王国には復活の体で、この地上に戻ってきます。
あなたも王になる
千年王国では、もちろんキリストが真の王として世界を治めます。
主は地のすべてを治める王となられる。(ゼカリヤ14:9)
しかし、黙示録を見ると、同時に私たちもキリストと共に地を治めることが分かってきます。
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。(黙示録20:6)
私たちは、王となるだけではなく、「王」として「治める」のです。復活の体を持つ者は「治める側」となり、そうでない民は「治められる側」となるでしょう。諸国の民で「生き残った者」(ゼカリヤ14:16)たちは、直前まで反キリストに従っていた人たちなので、純粋な信仰を持って王なるイエスに仕えている訳ではないでしょう。つまり、生まれ変わって復活の体を持っている訳ではないのです。千年王国では「死ぬ人たち」がいるのです。また結婚して子供を作る人たちもいるのです。これらの人々は「統治される側」となります。
信者は復活の体を持っています。御使のようです。復活の体を持つ者は、イエスのように消えたり、瞬間移動したり、壁をすり抜けたりという身体能力もさることながら、脳も劣化せず、神とつながっているゆえの知恵も豊富なので朽ちる肉体の人から見ると超人のようでしょう。イエスも復活時には御使のようになると言っておられます。そして何よりキリストの愛で満たされているので、野望によってではなく、愛を持って統治することが可能となるのです。能力と責任は表裏一体です。「能力」が与えられるということは、それを持って地を治める「責任」もあるということです。千年王国でも新天新地でも「王」として治める「仕事」があるのです。
そう、あなたは王となるのです。王として地を治めるのです。今から批判ばかりする「奴隷マインド」ではなく、自分が王ならどうするだろうという、「王様マインド」で過ごしましょう。今の期間は、王の「見習い人」なのですよ。
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執筆者:栗原一芳
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