2023年3月9日木曜日

この預言の書を封じるな


黙示録はユニークな書

この預言のことばを朗読する者と、それを聞いて、そこに書かれていることを守る者たちは、幸いである(黙示録1:3)

 

聖書66巻、もちろんどれも神の言葉であり、読むものは祝福を受けます。しかし、わざわざ、読む者は「幸いである」と冒頭から記されているのは黙示録だけです。そして、最終章の22章7節で、「幸いである」が繰り返されています。

 

「見よ、わたしはすぐに来る。この書の預言のことばを守る者は幸いである。」

 

旧約には「封じられた」メッセージがあります。ダニエルに与えられた預言の言葉は「終わりの時まで秘められ、封じられているからだ」とあります。(ダニエル12:9)しかし、ヨハネに与えられた預言の書は「書き記せ」(黙示録1:19)「封じてはならない」(22:10)と言われているのです。その理由は「時が近づいているから」(1:3、22:10)だというのです。終わりの時代に生きている、私達が読まなければならない書なのです。

 

そもそも、この書は「イエス・キリストの黙示」(1:1)なので、「黙示録」と呼ばれていますが、この「黙示」は、実は「覆いを取り除ける=啓示」という意味です。中国語聖書には「啓示録」と正確に訳されているようです。つまり、神が終末時代にどうしても人々に知らせたい内容なので、明らかにされたのです。そして、このタイミングで、この書を読む者は幸いだというのです。

 

しかし、実際、どうでしょう?「黙示録は難しいから」後回しにしようという人が多いのではないでしょうか。神のお心を汲んでください。神は知って欲しいのです。理解して欲しいのです。だから「封じてはならない」と命じられたのです。

 

さらにユニークなのは、この書の改ざん禁止命令が明記されているということです。まず、勝手に追加してはならないという命令です。

 

私は、この書の預言のことばを聞くすべての者に証しする。もし、だれかがこれにつけ加えるなら、神がその者に、この書に書かれている災害を加えられる。 (22:18)

 

そして、削除禁止命令です。

また、もし、だれかがこの預言の書のことばから何かを取り除くなら、神は、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、 その者の受ける分を取り除かれる。 (22:19)

 

このようなことが詳細に明記されている書は他にありません。つまり、書かれている内容を過不足なく、正確に受け取って欲しいという神の願いです。患難期に世界大の裁きがあること、反キリスト(獣)が現れること、キリストの地上再臨があり、サタンは縛られ、千年王国が地上に実現すること、白い御座の裁きがあること。ハデスと死とサタンは火の池に投げ込まれること、新天新地が来ることなどを文字通り受け取らなければならないのです。それをトンデモ話だからと削除するものは聖なる都(新天新地)には入れないのです。

 

黙示録がなかったら・・・

創世記は「初め」の書です。世界の初め、人間の初め、罪の初めが書かれています。聖書66巻の最後の本は黙示録です。ここには、世界がどう終わるのか、サタンはどう処理されるのか、人間はどう回復され、完全なものにされるのかという「結末」が書かれた書です。つまり、黙示録がないと聖書のストーリーは完結しないのです。また旧約預言のピークはイスラエルの回復、すなわち「メシア王国」です。黙示録がないと、それがどう成就されるのか分かりません。旧約のメシア王国預言は千年王国(黙示録20章)にて成就されるのです。これは失われたエデンの園の回復といってもいいかもしれません。そして、神はこの地を回復するだけではなく、さらにバージョンアップした永遠の秩序、「新天新地」をもたらすのです。これは黙示録で、初めて明らかにされた「奥義」です。

 

先ほど見たように「時が近づいているからである。」とあります。つまり、黙示録がないと、その時間軸を読めないのです。詳細に記されている事項を読み解く時に、人類は今、どの時点にいるのかが分かります。例えば、患難時代が始まって7年後にキリストの地上再臨があるのです。反キリスト(獣)の支配は永遠に続くのではありません、反キリストが正体を現してから3年半で、キリストが再臨し、み口の息吹により反キリストを滅ぼされます。黙示録を読むことで、永遠に悪が存在するのではなく、悪が清算されることが分かります。サタンと死が滅ぼされることが分かります。最後がハッピーエンドであることが分かります。そこから逆算して、現在の私達クリスチャンの歩みを見る視点が与えられます。だから忍耐と希望を持って生きることができるのです。

 

結論は再臨

黙示録の最後の21節は祝祷なので、実質、黙示録は以下の20節の言葉で終わっているのです。

 

これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。

 

これが結論です。歴史を通して、すべてのクリスチャンの希望はここにあります。主の再臨です。初代教会の挨拶は「マラナタ!」でした。この意味は「主よ、来てください!」です。この挨拶を交わしてお互い励まし合っていたのです。終末論の詳細については意見の違いがあるでしょう。しかし、再臨を否定することは許されません。黙示録だけでなく、新約の書簡で多々述べられているからです。主、ご自身、戻ってこられると約束されました。

                                                                                                                (ヨハネ14:3)


これは明白な神の約束なのです。そして、その時はさらに近づいているのです。

 

そういう訳で、今こそ、黙示録を学ぶ時なのです。そして、読むものは幸いなのです。



 

この書の預言のことばを封じてはなりません。時が近いからです。

                        (黙示録22:10)

 

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執筆者:栗原一芳

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