栄光の王とは誰か。強く力ある主
万軍の主。戦いに力ある主。 (詩篇24:8)
すべてのヒーローは強いのが前提
遅まきながら、最近、「ごくせんthe movie」を見た。仲間由紀恵演じるヤクザの娘で、高校教師。正義を貫き、敵に動じない。命を張って教え子を守る。結局、つっぱり生徒たちの信頼を得る。そこまで命張って助けられたら、ついていくしかない。これはイエスのモデルだ。だから心を打つ。元ヤクザで今、牧師がこう言っていた。「親分がやられそうになった時、親分の前に出て盾となって親分を守るのが子分の役目だった。しかし、キリストという親分は子分のために命を捨てた。この方に従うしかない。」
ただ正義を貫けるのは、ごくせんが強いからだ。喧嘩して勝てるからだ。見た目、あんな華奢な女性教師が強いのはマンガだが・・・逆に、それだから映画としては、面白い。「正義なき力は暴力、力なき正義は無能」というフレーズがあるが、その通り。強いから、敵をやっつけるから正義が通る。座頭市も、ウルトラマンもスーパーマンも、すべてのヒーロー映画は同じ。ヒーローは強いのだ。悪い奴を最終的にやっつける。そして一件落着となる。敵にやられっぱなしでは解決が無いし、物語は終わらない。平和な社会は戻ってこない。
戦いに力ある神
聖書の神もそうなのだ。「万軍の主」。「戦いに力ある神」。「力ある主」この表現に見られるように、ヤハウエは強い神なのだ。旧約時代、戦いは現実であり、彼らの日常であった。神を実感できるのは戦いの中での勝利だったのだ。だから、「神」は「戦い」と連結していた。当時の一般社会がそうだったのだ。どの神が戦に強いのかが大きな関心事なのだ。戦いに出る前には自分達の神に祈願して出て行ったのだ。新約のクリスチャンは「霊的戦い」にフォーカスしすぎるが、旧約時代は現実の「戦い」に神を結びつけていた。
コンスタンティヌス帝の改心も興味ふかい。西暦312年,ある戦いの前日,異教徒コンスタンティヌスは,「この[印]の下に征服せよ」という標語を伴う十字架の幻を見た。彼はその戦いに勝利を収め、それから間もなく(西暦313年)“改宗”し,キリスト教を「公認」するミラノ勅令を出している。ただ、彼の信仰の真偽のほどは分からない。
戦って所有した約束の地
ダビデが巨人ゴリアテを倒した話を霊的に適用するのはいいが、事実、実際の戦いでダビデは勝利したのだ。当時、それは大きな意味があったのだ。イスラエルの民の日常生活を脅かす恐怖からの解放だったのだ。「戦いに力ある神」に意味があった。
約束の地、カナンも戦わずして得たのではない。戦場で戦って敵を倒して所有したのだ。「右の頬を打たれたら、左の頬も出していたら」占領できなかったのだ。神はアマレク人の「絶滅」を命じている。(Iサムエル15:18)サウル王は主の命令に背き、アマレクの王アガグを殺害しなかった故に、神に咎められている。(Iサムエル15:11)暴力の行使が絶対悪なら、これをどう説明するのだろうか。
悪の勢力を滅ぼす再臨の王、キリスト
終末にはキリストは再臨し、反キリスト勢力を滅ぼされる。最終的な敵である死とサタンを滅ぼす「力」があるのだ。悪を制する「力」があるのだ。神の権威はこの「力」にある。権威者が剣を帯びているのは悪を「力」で制するためであり、それをパウロも容認している。(ローマ13:4)神が無力なら、サタンはつけ上がり、マウントを取るだろう。これは戦いなのだ。
反キリスト勢力を制することができるから、メシアなのであり、神なのだ。敵を打ち負かす力があるからなのだ。イエスは力あるワザ(奇跡)を行い、メシア性を証明した。レギオンを追い出し、悪霊を黙らせた。嵐を沈め、弟子を圧倒した。それを見て弟子達は「この方は一体、どういう方なのだろうか?」と驚いた訳だ。メシアとしての力をデモンストレートしたからだ。十字架以降、パウロやペテロも奇跡(力)を持って、福音の「真正性」を証明した。一昔前にはPower evangelismという言葉もあった。癒しや奇跡が唯一の方法ではないが、日本のような聖書に無知な土壌では入り口としては必要なのかも知れない。当時もガリラヤ湖畔の人々はイエスの教えと行いに「驚いた」。日本でもその「驚き」がまず必要かも知れない。単なる道徳的なアプローチだけでは、「言葉だけじゃん」「いいことは言うけれども・・・」と言うことになる。路上で「癒しの祈り」をしながら伝道している兄弟がいるが、一理ある。
終末時、「愛」に感動して反キリストやサタンが改心してキリストの足元にひれ伏すという感動的なエンディングシーンは残念ながら起こらない。最後は、有無を言わさず、力でねじ伏せ、焼き尽くす。(黙示20:9)さばきは「力」の行使で行われる。最後は力で圧勝する。
キリストの二面性を理解する
一般のキリストのイメージは、無抵抗の受難のキリストのイメージが強い。クリスチャンもそのイメージに縛られているかも知れない。しかし、キリストは「子羊」であると共に、ユダの「獅子」でもある。「裁き主」であり、天においても地においても一切の権威を持つ「王」でもある。このキリストの2面性をしっかり理解する必要がある。その権威は全能者の「力」でバックアップされている。ゲッセマネでイエスが捕らえられた時、御使の軍団を置くこともできたが、預言の成就のため、「あえて」しなかった様子が書かれている。(マタイ26:53−54)。常に軍力を使わないわけでは無い。地上再臨の時には天の軍勢が従ってきている。(黙示録19:14)もちろん、反キリストと戦うにはキリストお一人で十分なのだが。
新約に入って神が、キャラクターチェンジした訳ではない。神の激しい面、こういう方であることも忘れてはならない。
主はねたんで復讐する神。主は復讐し、憤る方。主はご自分に逆らう者に復讐し、敵に対して怒る方。 (ナホム1:2)
おまえたちは主に対して何を企むのか。主は滅ぼし尽くす方。敵対する者は二度と立ち上がれない。 (ナホム1:9)
全地はわたしのねたみの火で焼き尽くされる。(ゼパニヤ3:8)
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執筆者:栗原一芳
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