2023年9月28日木曜日

聖書の歴史観


聖書は時間や期間にこだわる

 

 7日間での世界の創造。

 ノアの洪水、雨は40日、40夜降った。

 70年のバビロン捕囚期間。

 イエスは40日、40夜断食した。

 イエスは3日目に復活し、40日の間弟子たち

  に現れた。

 3年半の反キリストの神殿冒涜。

 千年王国

 

神は時間や期間に関して強い意識を持たれ、これらを大事にされる。水平に流れてゆくリニアルな時間軸の中で「神の物語」が展開してゆく。輪廻のように永遠に続く閉じられたサークルではなく、時間が流れてゆくリニアル(線状)なのだ。永遠なる神は、天と地を創造し、時空の世界が始まった。しかし、

現在、この世は神の支配を離れ、サタンと人が支配する世となっている。やがて、キリストが王として、この世を支配する時が来る。(黙示録11:15)時間軸の中で、次の時代が来る。これが聖書の歴史観。

 

歴史の時間軸の中で、預言は成就する!

有名なダニエル書のエルサレムに関する70週の預言。(ダニエル9:24−27)69週はすでに成就し、残りの1週(7年)が近い将来始まると考えられている。着々と神は駒を進めておられる。

 

バビロン捕囚は70年だった。70年が満ちると、異邦人クロス王の命令で、エルサレムの町の復興が開始される。始めに不可能に思えたことが可能になってゆく。そもそもあの絶頂期のバビロン帝国が倒され、メド・ペルシャ帝国に移行してゆくなど誰が想像できただろう。しかし、預言通りとなった。

 

AD70年にローマ軍がエルサレムに侵攻し、神殿は焼かれ、ユダヤ人は、世界に離散した。約1900年さまよった後、イスラエルの民は帰還して国を作った。(1948年5月14日)常識では不可能な奇跡が起こったのだ。今は不可能に思える、第三神殿は、やがてエルサレムに建てられ、生贄と捧げ物が始まるだろう。そして、患難期中、異邦人に3年半支配される。ここでは「3年半」と期間が明記されている。(黙示録11:2)悪の支配には時間制限がある。「もはや時が延ばされることはない。」(黙示10:6)・・・3年半後にキリストは再臨され、裁きが行われる。反キリストの滅亡は定められている。

 

カイロスとクロノス

ギリシア語にはこの区別がある。流れていく時間はクロノス。歴史が変わる瞬間がカイロス。以前、NHKの番組で「その時、歴史が動いた」という番組があったが、まさにそれだ。

 

あなたが、この王国に来たのは、もしかすると、このような時のためかも知れない。(エステル4:14)

 

ユダヤ民族滅亡の危機に瀕した時、まさにその場に遣わされたエステル。歴史を変える行動を取ったのだった。

 

時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。 (エペソ1:10) 

 

これなどは典型的な例だろう。神が動く時、それは歴史が動く時。               

 

 

聖書の歴史観はリニアル

多くのクリスチャンは「下」にある「地上」と、「上」にある「天」という「上下」意識が強いように思われる。「死んで、天国に行く」は「下から上」への垂直移動だろう。確かに今、天は上であり、地は下であり、地では患難、天では賛美が同時並行で動いている。しかし、それはリニアルな時間軸で、ある方向に向かって「動いている」のであり、「上下」構造が静止しているのではない。

 

御国は未来からやって来る。時間軸の中で、将来、成就する。これは水平の動きだ。

 

私たちはこの地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。(ヘブル13:14)

 

「後に来る」とはリニアルな時間軸の延長線上に「やって来る」(成就する)のだ。上にある「天国」に行くというニュアンスではない。

 

また、今の世ばかりではなく、次に来る世においても唱えられる・・・

                          (エペソ1:21)

 

ここでも、「次に来る世」と水平時間軸が語られている。神のドラマは水平軸で展開してゆく。

 

旧約の時代が終わり、約2000年前、キリストが地上に来られ、贖いのわざを成し終え、新しい契約の時代(新約)に入った。パラダイムが変わった。ペンテコステで教会が誕生し、世界宣教の時代に入った。しかし、それは、永遠に続くのではない。次には患難期が来る。終末点に向かって突き進んでゆく。神は忍耐を持って人々の悔い改めを待っていた。(IIペテロ3:9)しかし、ここまで来ると「もはや、時が延ばされることはない。」(黙示10:6)そしてキリストの地上再臨に続き、反キリスト勢力への裁きが行われる。そして、次なるステージ(千年王国)に入ってゆく。1つの時代が過ぎ去り、次の時代が来る。これが聖書の歴史観だ。

 

大転換の時が来る!

そして、大転換の「時」を迎える。カイロス中のカイロスだろう。主ご自身、こう言われた。

 

この天地は滅び去ります。(マタイ24:35)

 

ペテロは以下の表現を用いて大転換の時を描いている。

 

しかし、主の日は盗人のようにやって来ます。その日、天は大きな響きを立てて消え去り、天の万象は焼けて崩れ去り、地と地 にある働きはなくなってしまいます。・・・・・・その日の到来によって、天は燃え崩れ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし私たちは、神の約束にしたがって、義の宿る新しい天と新しい地を待ち望んでいます。  IIペテロ3:10−13)

 

ヨハネも同様の内容を語っている。

 

天も地もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。(黙示20:11)

 

その時が来るのだ。神のタイムテーブルの中で。この天地が過ぎ去った後に、新天新地が来る。新天新地では天と地が完全に重なるので、もはや下にある地、上にある天という構造が無くなる。神、御使、人間は同じスペースに住むことになる。

 

そして、「永遠の世界に入るのでリニアルな時間軸も無くなる。」と言いたいところだが、「毎月、実ができた。」(黙示22:2)という表現があり、正直、理解に苦しむ。新天新地に行ってみたら分かるだろう。

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3つの歴史観


  世界は進歩し、やがて地上天国が実現するという楽観論


  世界は悪化する一方で、やがて人類は滅亡するという悲観論


  聖書が語るのは「悲観論的楽観論」世界は人の罪とサタンの存在ゆえに、悪化し、最悪の患難期を迎えるが、その後にキリストの地上再臨があり、悪は滅ぼされ、キリストご自身が統治する楽園(千年王国)がやってくる。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2023年9月21日木曜日

本当に伝えたかったこと

 

キリスト教のイメージ

日本人がキリスト教と聞いて、思い浮かべるイメージは・・・? 十字架のアクセサリーやロザリオ、三角屋根の教会堂、白い襟カラーと黒いガウンの聖職者、教科書に載っているフランシスコ・ザビエルの肖像画。厳粛な礼拝、禁欲主義・・・

 

残念ながら「キリスト道」の本質ではありませんね。これらは、キリスト教文化や習慣や儀式といった周辺的なものです。新約の記者が伝えたかったこととは違うのです。

 

本当に伝えたかったこと〜復活

 

彼らが本気で伝えたかったのは・・・

 

私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあると おりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。                       (Iコリント15:3−6)

 

パウロが「最も大切なこと」として伝えたのは、福音の3要素です。

 

  キリストが私たちの罪のために死なれたこと

  葬られたこと

  三日目によみがえられたこと

 

特に、パウロはこの後、15章全部を使って長々と「私達の復活」について書いているのです。しかし、「キリスト教」と「復活」をすぐに結びつける日本人は少ないでしょう。使徒の働きを見ても、初代クリスチャンたちが力強く語ったのは「復活」でした。その「驚くべき希望」こそ、伝えたかったことなのです。「死んで魂が天国に行く」で止まっているクリスチャンが多いのではないでしょうか。勿体無い話です。聖書が伝えているのは、それよりはるかに優れた希望です。

 

本当に伝えたかったこと〜いのち

復活と関連している言葉ですが、ヨハネは好んで「いのち」という表現を使っています。事実、ヨハネの福音書を書いて目的が「いのち」を伝えることだったのです。

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。(ヨハネ20:31)

 

「いい教え」や「宗教的儀式」を伝えたかったのではなく、「いのち」を得て欲しかったのです。キリスト教と聞いて、「いのち」を連想する日本人がどれほどいるでしょうか?

 

ヨハネは手紙の方でも、このように語っています。

 

初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて。このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます。私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。                  Iヨハネ1:2−3)

 

ヨハネは「いのち」を見て、触れたので、人々に伝えているのです。「いのち」とはキリストそのものです。キリストの教えでさえない、キリストそのものです。

 

キリストご自身もこのように語りました。

 

わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

                       (ヨハネ10:10)

 

そして、伝える目的は、「交わり」に招き入れるためなのです。三位一体の神が、ご自身の「交わり」の中に私達をも招き入れてくださっているのです。ですから、キリスト道では、「交わりの中」に救われるのです。孤独なクリスチャンはあり得ません。

 

しかし、キリスト教と「交わり」を連想する人はどれほどいるのでしょうか?

 

静かな礼拝堂で、一人祈っている姿の方が一般的なイメージですね。しかし、先ほどのIヨハネ1:2−3が「キリスト道」の肝なのです。キーワードは「いのち」と「交わり」です。これがエクレシアの本質です。この「いのち」と「交わり」を欠いて、儀式だけしているとしたら本質からずれていることになります。それを見たらヨハネは嘆くでしょうね。

 

イメージを変えられませんかね?

このように、本質ではなく、周辺の文化的なものだけが伝わってしまったのは誠に残念です。ある意味、三角屋根の教会堂やガウンを着た聖職者はどうでもいいのです。本質はそこには無いのです。初代教会は家々で集まり、聖職者もいませんでした。それでも立派な「エクレシア」だったのです。「いのち」と「交わり」があったからです。

 

もっと、こういう事が伝わるといいですね。(それが聖書的事実ですから)

 

  聖霊による生まれ変わり=新生

  アダム族からキリスト族への種族替え

  私達が朽ちない体に蘇る事

  クリスチャンとはキリストが内に生きている人

  キリストは王として再臨し、世界を統治する事

 

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執筆者:栗原一芳

 

2023年9月14日木曜日

聖書に書いてありますよね?


私達、「福音派」は聖書を(原典において)霊感された「神のことば」として信じ、信仰と生活の唯一の規範と考えています。

 

聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義 の訓練のため有益です。IIテモテ3:16)

 

「聖書に書いてある!」が決定打になるのです。ただ同時に、聖書の正しい読み方は、文脈や背景を考慮して読む読み方です。誰がいつ、どのような状況で、誰に宛てて書いたのかが重要なのです。そうしないと「聖書に書いてある」を振りかがしてトンデモないことになります。

 

それは旧約ですか、新約ですか?

旧約と新約ではパラダイムが変わっています。旧約は「古い契約」、新約は「新しい契約」です。通常、新しい契約が交わされると古い契約は破棄されます。(ヘブル8:13)聖書の場合、破棄というよりイエス・キリストにおいて成就したので、イエス・キリストで十分ということです。旧約時代はキリストが現れるまで「養育係」として律法が機能していました。キリストが現れ、御霊が降ったので、新約時代は御霊に導かれて生活します。従って、旧約の律法をそのまま現代に適用することはしません。これを間違えるとエホバの証人のように、旧約の律法を持ち出して「輸血」は罪と言ったりすることになります。

 

現在は「安息日の主」であるキリストを崇めることで、安息日の規定に従わなくてもよくなっています。罪なき子羊が完全な贖いをなしてくださったので、動物犠牲も捧げません。

 

当時のイスラエルには「聖と俗」の区別を教えるために「きよさ」に関して詳細は規定がありましたが、新約時代は御霊が内住することにより、その規定からも解放されています。従って、「汚れている」とされている豚や鱗のないものも食することが可能になっています。

 

 

十字架前ですか、十字架後ですか?

トリッキーなのは福音書に書かれているイエスの地上生涯の時期です。これは十字架前なので、旧約の律法がまだ生きている時代です。イエスご自身、安息日を守り、ユダヤの例祭に参加し、律法を守っておられました。有名な「山上の垂訓」は、ユダヤ人を対象に、旧約の律法を神の視点からの解釈しているものです。また、十分の1論争が出てきますが・・

 

わざわいだ、偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちはミント、イノンド、クミンの十分の一を納めているが、律法の中ではるかに重要なもの、正義とあわれみと誠実をおろそかにしている。十分の一もおろそかにしてはいけないが、これこそしなければならないことだ (マタイ23:23)  

 

ほら、イエス様も「10分の1をおろそかにしてはいけない」と言っているではないか?・・と言われるかも知れませんが、これはまだ十字架前で旧約のパラダイム、すなわち、旧約の律法の生きている期間だったのです。

 

献金に関して新約の規定は以下のみです。

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです。

                        IIコリント9:7)

 

新約の手紙に書いてあるけれど・・

さらに厄介なのは、新約に書かれている十字架後の規定です。初代教会でのプラクティスをどこまで現代の教会に当てはめるかです。例えば・・・

 

しかし、女はだれでも祈りや預言をするとき、頭にかぶり物を着けていなかったら、自分の頭を辱めることになります。それは頭を剃っているのと全く同じことなのです。女は、かぶり物を着けないのなら、髪も切ってしまいなさい。髪を切り、頭を剃ることが女として恥ずかしいことなら、かぶり物を着けなさい。 Iコリント11:5−6)

 

パウロがかなりストレートに語っています。「聖書に書いてある!」のです。しかも、新約に。パウロは、教会宛てに書いているのです。そして、初代教会はこのように行っていたのです。ならば、そうすべきじゃないですか?とは当然の質問ですね。

 

しかし、実際、礼拝に女性がベールを被って参加する教会はごく稀でしょう。それでは私達は聖書に従っていないのでしょうか?多くの教会では「いやこれは当時の文化だから」で説明しているようですね。当時は、被り物をしない女性は、娼婦だったようです。女性に対して厳しい規定をしているパウロですが、一方、奴隷制に関しては寛容だったようです。当時のローマ社会では、奴隷(当時の奴隷は、家庭教師であったり、召使い、お手伝いさんのようなものだった。)がいるのは当たり前の環境だったので、その文化環境を受け入れながら、信仰を保つように勧めています。(コリント7:20−21)

 

70年代、教会の礼拝でギターを弾くことはタブーだった時期がありますが、時と共に寛容になっていきました。欧米の宣教師が福音と共に欧米文化を一緒に持ってきたので、混乱したこともあります。北欧に適した三角屋根の教会堂をマネする必要はありません。聖書には教会堂に関しての規定は書いてありません。文化と福音そのものを区別していく作業が必要です。

 

また、これも議論を醸す箇所です。

私は、女が教えたり男を支配したりすることを許しません。むしろ、静かにしていなさい。 IIコリント2:12)

 

先のコリント11:5では、「女はだれでも祈りや預言をするとき・・・」とあるので、女が教会で、祈りや預言はしていたことが明らかです。しかし、「女が教える」を「教会の講壇からの説教」と捉えて、女性がメッセージすることを禁じる教派もあります。女性の牧師を認めない神学校もあります。教派によっては、かなり自由で、夫人が牧師、夫は平信徒というケースもあります。ある教団では女性が教団理事長をしています。

 

このように「聖書に書いてある」のですが、実際のプラクティスにおいて違いが出てきます。単に「当時の文化」では済まないケースもあり、聖書全体から考察が必要になりますね。

 

字義的?比喩的?

これも、福音派の中でも議論が分かれます。特に黙示録となると・・・

 

黙示録に出てくる二人の証人。(11:3−5)ゼカリヤ4:14から文字通り、油注がれた「2人の証人」と解釈する人もあれば、これは比喩であり、黙示11:4から燭台=神の民(教会)なのだと言う人もいます*。特に、5節に「もし誰かが彼らに害を加えようとするなら、口から火が出て、敵を焼き尽くす。」とあり、「幾ら何でもそれはあり得ないので、やはり教会のことだろう」と言う人もあり、いや、エリヤは天から火を下したのだから、これもあり得るだろうと考える人もいます。黙示録9章のサソリの尾を持つ「イナゴ」や獅子の顔をした2億の軍馬なども、「こんなトンデモ話、まともには受け取れない、裁きの象徴だろう」と言う人もあり、「これらは底知れぬ穴から出てきた悪霊ども」と字義的解釈する人もいます。千年王国も文字通り、千年なのか、3年半の激しい迫害との対照的な数字なのか?などの議論があります。また「火と硫黄の池」の火は文字通りの火なのか、比喩なのか・・・などなど、きりがありません。

ただ、「比喩的解釈」には人間的な恣意が入り込む危険性もあります。

 

確かに聖書には、「そう書いてある」のですが、解釈が違ってくるのです。最近のLGBT神学論議でも、保守派の多くは「そう書いてる」と字義通りに読むのですが、LGBT擁護派は、当時の文化背景などを考慮して、「実は、こういう事です。」と再解釈しています。同じ土俵に立っていないので、意見が噛み合わないのです。最近は同性愛者の聖職者を認める教団もあります。

 

トンデモ話が現実に・・・

正直、聖書にはたくさんのトンデモ話があります。しかし、現代の常識だけで全てを判断するのも間違っています。ユークリッド幾何学の時代には「平行線は交わらない」が常識でしたが、相対性理論の時代になると「時空は歪む」が常識になりました。「超ひも理論」を提唱する先端の宇宙物理学者は異次元の存在を真顔で語っています。100年前の人には、インターネットやAIはドンデモ話だったでしょう。黙示録11章の二人の証人が反キリストに殺され、エルサレムの大通りにさらされている姿を全世界の人が見る(11:9)とありますが、100年前まで、「そんなことはあり得ない、やはり聖書はデタラメだ」と言えたとしても、SNSの発達した今、これを疑う人はいません。「世界統一政府」や「世界統一宗教」も、昨今の動きを見ると現実味を帯びてきています。

 

また、聖書の世界観は、全能の神が世界を創造したのであり(・・と言う事は世界を消滅させることも可能)、また、天的な存在(神、御使、悪霊など)を前提にしています。受胎告知では御使がマリアに現れ会話をしています。サタンは、かつて御使だったことを考えると、サタンや悪霊が地上に姿を現すことも、人と会話することも不可能ではありません。聖書はそういう世界観なのです。それを理解した上で聖書解釈をしてゆく必要があるのだと思います。だから、黙示録の記述が文字通り起こることは可能なのだと思われます。(例えば黙示録20:11)

 

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  P。98 「子羊の王国」 岡山英雄 著 いのちのことば社

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年9月7日木曜日

キリスト道

 

日本人は「道」が好き

「茶道」「華道」「剣道」「柔道」これらは、「道」なのですね。単に技術を学ぶのではなく、「生き方」「あり方」を習得していくからでしょう。その「道」を「極める」とかも言います。例えば「料理の道を極める」など。そこには技術を超えた「精神的」なものも含まれるのでしょう。

 

「キリスト教」は「キリスト道」

東北の被災地でボランティアに来ていたクリスチャンを現地の人は「キリストさん」と呼びました。言い当て妙ですね。それは「キリスト教徒」より本質を得た呼び名です。「キリスト教」という「宗教」をやっている人ではなく、キリストが内に生きている人なのです。キリストと同質化している人なのです。だから「キリストさん」なのです。また、「クリスチャン」というハイカラな名前より、日本的でいい響きですよね。

 

キリストの弟子たちはアンテオケで初めて「クリスチャン」と呼ばれました。(使徒11:26)そう「呼ばれるよう」になったのであり、そう自称した訳ではなく、そう呼ばなければならない訳でもありません。1世紀には「キリスト教」という言葉もなく、しばらくは「この道」と呼ばれていたようです。そして、これに従う者を「この道のもの」(使徒9:2)と呼んでいました。やっぱり「道」ですね。

 

その後、Christianityが訳されて「キリスト教」となったわけですが、本来「教え」という要素は入っていません。ブッダの「教え」で「仏教」、モハメッドの教えで「イスラム教」ならいいですが、Christianityはキリストの教えの集大成ではないのです。キリストご自身は書物を残していませんし、弟子たちの書物も「キリストの教え大全」ではなく、キリストご自身(キリストがメシアであること)を伝えているのです。

 

キリストご自身も「私が道であり、」(ヨハネ14:6)と言われました。そのキリストが自分の内にあって生きる生き方(ガラテヤ2:20)が本質なのです。すなわち「キリスト道」です。ちなみに「神道」は「道」ですね。本来、キリスト教は「神道」です。世界の創造神の「道」を歩む者たちです。初代クリスチャンは「キリスト道」だったのです。人が作った「宗教」をやっていたという意識ではなかったのです。それはキリストの命が入った「生き方」そのものであり「ライフスタイル」であったのです。

 

「キリスト教」に違和感を覚える人たち

最近、「キリスト教」という「宗教」に違和感を感じるクリスチャンたちが増えてきました。日曜の朝の礼拝儀式に集うことでアイデンディディを保つのではなく、生けるキリストと共に、いや、キリストがうちに生きてくださる日常生活をする人々なのだという意識の覚醒です。そろそろやめませんか?「キリスト教」。キリストご自身は魅力ある方なのです。「キリスト道」は魅力ある生き方です。退屈な宗教儀式ではないはずです。聖書の記者たちが伝えたのは、規律に従う退屈な宗教ではなく、「いのち」そのものだったのです。特にヨハネは「命」を大事なテーマとして福音書や手紙を書いています。

 

これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。 (ヨハネ20:31)

 

その証しとは、神が私たちに永遠のいのちを与えてくださったということ、そして、そのいのちが御子のうちにあるということです。御子を持つ者はいのちを持っており、神の御子を持たない者はいのちを持っていません。神の御子の名を信じているあなたがたに、これらのことを書いたのは、永遠のいのちを持っていることを、あなたがたに分からせるためです。Iヨハネ5:11−13)

 

そして、エクレシアは、神に召され、「いのち」を頂いたもの達の集まりであり、「キリストの体」であり、「キリストの充満」です。「教える」会ではありません。

 

「茶道」、「華道」、「柔道」そして、「キリスト道」

 

そろそろ「キリスト教」を「キリスト道」、「教会」を「エクレシア=神に召された者の集い」にしませんか?

 

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執筆者:栗原一芳