2023年10月26日木曜日

天地は本当に消滅するのか?

 

「天地は消滅しない」という論調

文字通り読めば、「天地は消え去る」(マタイ24:35)、「天も地も・・・あとかたも無くなった」(黙示20:11)、「天は大きな響きをたてて消え失せ」(IIペテロ3:10)とあり、新天新地の前に、この天地が消滅すると読めるのです。そして、無から世界を創造した神は、それができるお方です。自分はそう信じてきたし、そう教えてきました。

 

しかし、聖書全体からは「天地は消滅しない」と考えるクリスチャンたちもいます。その論(島先克臣氏のブログ記事より)もなかなか説得力があるので紹介させて頂きます。

 

 使徒3:20−21で「万物が改まる」のであり、「消滅」ではない。

  コロサイ1:19では万物の和解が語られている。「和解」であって「消滅」

ではない。またローマ9:19〜からでも被造物は滅びの束縛からの解放を願っているのであり、それは「消滅」を意味しない。存在して生かされることだ。

  マタイ24:35「天地は消え去る」パレルコマイは、「過ぎ去る」「過ぎ行く」1つの時代が過ぎ去るという意味でもある。 多くの英語聖書では、Pass awayと訳されている。つまり、罪とサタンの支配の時代が終わり、キリストが王として治める新しい時代になること。滅びるのは「悪」、「サタン」、「悪いこの世のシステム」。

  IIコリント5:17 「古いものは過ぎ去り」と同じ。自分は消滅していな

いが、古い自分のあり方は過ぎ去った。ノアの洪水で悪は洗い流されたが、

地球は残った。

  II ペテロ3:6—7 滅びたのは不敬虔なものたち、だから敬虔な生き方が

奨励されている。天地自体が消滅するのではない。

  天変地異は文学的表現?

  II ペテロ 3:10「地は燃えて無くなる」カタカイオーは「暴かれます」(信頼できる異本では)悪が隠れていられなくなる。きちんとした裁き(清算)が行われるということ。従って「消滅」ではなく新しい時代への「移行」

  天地消滅の背後には「物質悪」のギリシア哲学の影響がある。

 

 

「消滅」するという思想が与える影響

実はこれは、クリスチャンの地上での生き方や伝道の姿勢に大きく影響することなのです。このブログ記事を書かれた島先氏が最近、ノンクリスチャンから投げかけられた言葉が衝撃的です。

 

「クリスチャンは自分は天国に行くので、世界はどうなってもいいと思ってるんでしょ?」

 

これはハイパー・プラトン主義にもとずく、「どうせ、汚れた世界は消滅する。だから一人でも魂を天国に送ることが最大の使命。沈む船から助け出そう」という思想。天地はどうせ滅びるとなると、この世への関心が薄れ、天国への逃げの姿勢が強まるのです。

 

ここで、問うべきは、「クリスチャンは死んで天国に行って、永遠にそこで過ごすのか?」「世界は本当に消滅してしまうのか?」という事です。聖書的には、クリスチャンは「朽ちない体」に復活し、「地上に戻って」きます。天に上がったままではありません!キリストは再臨して「地上に戻って」きます。


少なくも千年間、キリストは「この世の国の王」として地を治めることは確かです。(黙示11:15、20:4−6)死んだら天に上がって、霊体のまま、そこで永遠に暮らし、今の天地は「消滅」してしまう・・は聖書の思想ではありません。

 

地を治めるクリスチャンとしての生き方

キリストはご自分で造られた被造世界を愛し、ケアし、回復します。クリスチャンもキリストと共に世界を治める(黙示20:4−6)のであれば、世界はどうなってもいいとは言えないのです。今、この地上で「王の見習い」として役割を果たすことが期待されています。伝道は「地獄から魂を救う」というより、もっとポジティブに「神と人を愛する人を生み出す」ことなのです。また「御国の民」を生み出すことなのです。個人が救われて天国に行けばいいというのは狭い視野です。

 

最近、「公共神学」という言葉を耳にしました。天国・地獄 (いわゆるTurn or burn=改心か、地獄の火かアプローチではなく、社会の共通課題を共に背負いながら、地の塩、世の光となってゆく方向です。ちなみに旧約聖書には「地獄の思想=死後の苦しみ」が描かれていないというのも不思議ですね。旧約は、死後の事には無関心なのです。むしろ、神とともに、「この地上」でどう生きるかが関心事なのです。そして、聖書全体のテーマ、そして福音の内容は、「天国、地獄」より、「神の国の到来」です。被造世界全体の「贖い」、「回復」です。個人が「天国に行く、地獄に行く」の話にしてしまうと、矮小化されてしまいます。

 

自分が「教会防災ネットワーク」を推進しているのも、公共神学の視野からです。「防災」は町の共通課題なので、一緒に取り組んでいけます。

 

「千年王国」と「新天新地」

ただ、残された課題は「千年王国」と「新天新地」の関係ですね。今までの解釈では、「千年王国」は、この地上。「新天新地」は「この天地」が「「跡形も無くなった」(黙示20:11)後、やってくる「永遠の秩序」としての世界です。


新天新地も「霊の世界」ではありません。おそらく、全く新しい原子や分子で造られるのでしょう。何しろ「永遠」なのですから。これはイエスの復活の体と同じです。単なる霊ではなく、「骨や肉」があるのです。(ルカ24:39)それなのに、戸を閉めた部屋に突然、現れたり、エマオの途上で、突然、消えたりするのです。恐らく復活したイエスの肉体は、我々の知らない物質で出来ているからでしょう。事実、宇宙の96%の物質やエネルギーは未だに分かっていません。ですから創造主にとって全く新しい物質で「新天新地」を創造することはテクニカルには可能です。

 

黙示録20:11「天と地が跡形もなくなる」をどう解釈するかです。回復された世界の千年の後、本当に世界が「消滅」し、新天新地が来るのか、あるいは、「なくなる」とは「消滅」ではなく「移行」であり、新しい時代が来るということなのか・・・。イザヤ66:22の新しい天と地は、千年王国のことなのか、新天新地なのか・・・?「新天新地」では、毎月実がなったり(黙示22:2)、諸国の民や地の王がいることを考えると、永遠というより、この「時空」の延長のようにも思えます。う〜ん、なんとも結論には至りません。

 

 

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参考文献

創造の回復  投稿記事「天地は消え去ります」By 島先克臣

https://katsuomi1974.wixsite.com/website/blog

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

 

2023年10月19日木曜日

陰謀論と言うけれど・・・


聖書に記された陰謀

「グローバリストの世界統治」とか、聞くと、「ああ、陰謀論」と言うかもしれません。しかし、聖書には沢山、「陰謀」の話が出てきます。そもそもサタンが神のご計画を妨げようと活躍しているので、当然と言えば、当然ですが・・・

 

例えば、エステル記を見ると、悪人ハマンが悪巧みをし、ユダヤ民族を抹殺しようとします。その危機的な状況の時にエステルが王宮に遣わされ役目を果たし、危機一髪のところで、その「陰謀」を暴露し、危機を回避しました。歴史的な事件ですが、霊的に解釈すれば、メシアを生み出すユダヤ民族を抹殺しようとしたサタンの背後の動機も見逃せません。

 

次々に出現した、この世の権力を持つ帝国(バビロン、ペルシャ、ギリシア、ローマ)の背後にはサタンや悪霊の存在(神に反抗する勢力)があったようです。ダニエル10:13にはペルシアの背後に悪霊が働いていたことが示唆されています。また、ギリシア帝国が4分割された後、シリア・セレウコス朝のアンティコス・エピファネスは神殿を汚した「忌むべきもの」だった訳ですが、これは終末に現れる「反キリスト=獣」のモデルです。国の背後にサタンの働きがあるのです。ただ、サタンの支配は限定的で究極的には、神が世界を統治していることも付け加えておきます。(ダニエル4:32)

 

新約の手紙にも、悪の力がこの世の背後に働いていることが何度も出てきます。

(ルカ4:6−7、エペソ2:2、IIコリント4:4など)サタンが「騙しの天才」であることを考えると「陰謀」が行われていることは当然、あり得ることでしょう。「バベルの塔=神に反抗する、人の知恵と権力による世界統治」の陰謀が、終末に行われても不思議ではないのです。そして、今はそのプロセスにあり、「不法の秘密(陰謀)はすでに働いています。」(IIテサロニケ2:7)とある通りです。

 

しかし、聖書中、一番の「陰謀」はイエスの殺害計画だったでしょう。サタンは何としてもメシアを抹殺したかったのです。

 

ムカついていたユダヤの指導者たち 

大祭司ファミリービジネスであった宮の両替業がイエスの「宮清め」により滅茶苦茶にされました。面目丸つぶれの大祭司は怒りマックスだったでしょう。また、律法の専門家であったパリサイ人は、イエスにより「偽善の律法学者」(マタイ23:13以下)、「まむしのすえ」(マタイ23:33)、「白く塗った墓」(マタイ23:37)などと痛烈な批判をされ、これまた面目丸つぶれです。祭司長、律法学者たちは「腹を立てていた。」(マタイ21:15)のです。また、ローマに媚びるサドカイ人にとっては、イエスが治安を乱し、騒動となり、ローマを怒らせることを懸念していました。何れにしても、イエスは、自分たちの地位の安泰を揺るがす邪魔な存在だったのです。

 

不当な裁判

ユダの裏切りにより、夜中に逮捕されたイエスは大祭司カヤパの官邸に連行されます。大祭司官邸での深夜の裁判が行われますが、深夜の裁判はルール違反です。そもそもこの裁判は「イエスを死刑にするため」(マタイ26:59)の裁判で、そのために「偽証を求めていた。」(マタイ26:59)のです。死刑判決ありきの裁判で、これはもう裁判ではありません。イスラエルの指導者層である、祭司長、民の長老たち全員は「イエスを死刑にするために協議した。」(マタイ27:1)のであり、これも結論ありきの協議です。フェアではありません。

 

  祭司長は「冒涜罪」を宣言します。(マタイ26:65)、当時、ローマにより死刑の権利が奪われていた(ヨハネ18:31)ので、死刑を求めて総督ピラトにイエスを引き渡します。

  ピラトは尋問した結果、無罪宣告をします。(ルカ23:4)

  ピラトはヘロデにイエスを引き渡します。しかし、ヘロデも尋問後、イエスをピラトに戻します。実質ヘロデも無罪と認定したのです。(ルカ23:15)

  ピラトの2度目の無罪宣告(ルカ23:14)

  ピラトの3度目の無罪宣告(ルカ23:22)

  反対者の声が勝って、ピラトは妥協し、血の責任をユダヤ人になすり付ける。

(マタイ27:24)つまり、責任逃れをしたのです。それでもピラトは最後の抵抗として十字架の認否状に「ユダヤ人の王、イエス」と付けさせています。

 

このように結論ありきの不当な裁判で死刑が決まりました。大陰謀です。闇の力(サタン)の勝利かと思われましたが、キリストは復活したのです!

 

復活の事実の隠蔽工作

封印が解かれ、石が転がされ、イエスの墓が空になったことを目撃したローマ兵は上司のところには行かず、祭司長のところに駆け込むのです。復活の噂が広まると厄介なことになると察した祭司長たちは、ローマ兵に金をやって「弟子たちが盗んだ」という証言をしてくれと頼みます。(マタイ28:12−13)

もちろん、通常、こんなヘマをやれば、番をしていたローマ兵は責任を取って処刑されますが、祭司長は総督に、なんとかうまく説得するから心配ないと工作までするのです。(マタイ28:14)

 

「闇」は「光」を嫌うのです。このように、「不当」なことが「闇の力」によって行われたのです。

 

今もある陰謀

それでは、今日は、もう闇の力(サタン=空中の主権者)はないのでしょうか?新約聖書を読む限り、サタンは現在進行形で活躍中です。目に見えないサタンの活動はあるのです。全世界を騙す陰謀はあるのです。その力は終末において増大するのです。 

 

すべての国々の民が、おまえ(大淫婦)の魔術に騙されていたからだ。」

                      (黙示録18:23)

 

終末時には背教が起こります。(IIテサロニケ2:3)多くの人が真理から耳を背け愛が冷え、不法がはびこります。(マタイ24:12)神なしの新世界秩序が提起され、グレートリセットがされるでしょう。かつてバベルの塔の指導者ニムロデを崇拝したように、食料と安全を保障してくれる有能な世界的リーダーを崇めるようになるでしょう。人体にチップが埋め込まれ売り買いするようになるのは、もうすぐです。確かに便利な側面もあります。しかし、問題は、誰がコントロールするのかです。小さい悪は気がつくのですが、巨悪は知らずに進行するものです。

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年10月12日木曜日

キリストのイメチェン?


アブラハムが生まれる前から「いる」お方

皆さんは、イエス・キリストと聞くとどんなイメージをお持ちでしょうか?白い衣を着て、長髪、ヒゲの優しいお顔で、子供達を抱いているイメージ、または、裸にされ、十字架につけられているイメージ。おそらく、これに関しては、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、同じようなイメージを持たれているのではないでしょうか。

 

確かに約2030年前、中東のイスラエルにマリアから赤ちゃんが生まれ、イエスと名付けられました。イエスは、ヘブル語では「イエシュア」、旧約聖書に出てくる「ヨシュア」と同じ発音です。「主は救い」という意味で、イスラエルではよくある名前だったのではないでしょうか。キリストは称号で「救い主」なので、ガリラヤ出身のイエス=キリストということで、イエス・キリストと呼ばれています。

 

私たちがイメージするのは、この33年間の地上でのイエスの生涯です。しかし、キリストは、ご自身が語られたように、地上の受肉以前から存在しておられるのです。

 

「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)

 

イスラエルの先祖である、アブラハムが生まれる前から存在していると、ご自信で証言されています。

 

新改訳2017年版では「わたしはある」と訳しています。これは出エジプト記3:13−14に呼応しており、イスラエルの民に「わたしはある」とご自身を紹介した「神」そのものを指しています。まさに「アフファであり、オメガである。」お方(黙示録1:8)。時間の起点から終点までの間、いつでも存在されているお方。実は、私達がイメージしているのは、(ちょっと永遠のことは置いておいても)創世記1:1から新天新地直前までの何千年という時間帯の中で、たった33年の地上生涯のキリスト像なのです。実は私自身を含め、相当、意識していないと、あの地上33年のイエス・キリスト像しか、イメージできないのです。受肉前のユダヤ人ですらない、イエス(イエシュア)という名前すらない、神としてのキリストの方が時間的には圧倒的に長いのです。むしろ、そちらがキリストの本質とも言えるでしょう。

 

キリストは神?

「お客様は神様です!」の日本人にとっては、そういうレベルでは「キリストは神様=偉いお方」ということで抵抗ないでしょう。しかし、ユダヤ社会で自らを神と称することは勇気のいることです。しかし、イエスは、こう宣言しました。

 

わたしと父とは一つ(同質)です。  (ヨハネ10:30)

 

本当でないなら、「冒涜罪」となっても仕方ないですね。それほど重い発言です。

神にしかできない「罪を赦す」宣言をしたイエスを石打ちにしようとしたユダヤ人の気持ちも分からないではありません。

 

私達も、神学的にはキリストは神、三位一体の神と信仰告白しますが、あまりにあの地上での33年間の生涯のキリスト像が強いので、キリスト=神をイメージしにくいのです。聖書的にはキリストが創造主なのです。

 

この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ1:2−3)

 

「なぜキリストじゃなければダメなんだ!」「キリスト教は排他的で高慢だ!」「他の宗教の人をキリストに改宗させるのは失礼な話だ!」という批判があります。キリストがただの宗教的偉人であり、キリスト教が単に諸宗教の1つであるなら、その批判は正しいことになります。しかし、キリストが「創造主」であったなら、話は違ってきます。さらに・・

 

イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、(マタイ28:19)

 

「天においても、地においても一切の権威を持っているお方」となると話は違います。上の聖句によると「父と子と聖霊」は同等に置かれています。つまり、父と子は同等であり、同質なのです。キリストは創造主です。

 

また、キリストが「アルファであり、オメガである」お方となると話は違います。地上33年だけの生涯であるなら、他の偉人と同類でしょう。しかし、「アブラハムが生まれる前からいる」となると話は違います。

 

地上33年の中で、愛を示したイエス、私達のために十字架で死んでくださったイエス。3日後に復活し昇天されたイエス。全て事実であり、大事な真理です。人はこれを信じれば救われるのです。しかし、キリスト像は、これだけではありません。もっと、もっと壮大なのです。33年の前後もあるのです。

 

万物の主、王の王

「王の王、主の主」と私達は祈りで告白し、賛美で歌います。しかし、どれだけシリアスに信じているでしょうか?「王の王」とは政治的な宣言です。再臨の主は「王」なのです。キリストはこの世の「真の王」なのです。そう告白したために戦中のホーリネスの牧師達は逮捕され投獄されたのです。もう一度言いますが、「王」や「御国=Kingdom」というのは「政治的」な概念なのです。キリストを宗教指導者に留めておけない宣言なのです。これをどれほど理解しているでしょうか?

 

第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」 (黙示録11:15)

 

これは常識的にはトンデモ発言です。わざわざ「この世の王国」と書いています。天国の話ではありません。この世の諸国の上にキリストが君臨するということです。キリストが地上に33年だけ生きただけの宗教指導者であるなら、この発言は高慢甚だしいことになりますし、非現実的でさえあります。誰も信じないでしょう。しかし、黙示録11章を読み進んでいくと、そう宣言できるお方である証拠が述べられています。

 

すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。

(黙示録11:17)

 

先ほどの文脈からキリストが諸国の王となるのです。ここでは王となられたのは、全能者、神となっています。新改訳第3版では、全能者を「万物の支配者」と訳しています。ヘブル書2:8では・・・

 

万物をその足の下に従わされました。

 

とあります。キリストの上の存在はいないという事です。キリストは万物の支配者なのです。それなら諸国の王となることも納得できます。

 

なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。 (コロサイ1:16−17)

 

ここまでくると宇宙論的キリスト像です。キリストが世界を造り、すべての権威を造られたお方であるなら、当然、世界を、いや宇宙を治めるのは当然であり、真の王 (The Lord of the Universe) はキリストということになります。キリストがこの宇宙を創造されただけでなく、「万物は御子にあって成り立っている」のであり、このお方が手を離せば、大宇宙は跡形もなく崩れていくのです。実際、そのことが将来起こります。(黙示録20:11、ペテロ3:10)

 

だから、このお方の前で、

 

すべてのひざは、わたしの前でひざまずき、すべての舌は、神(キリスト)をほめたたえる。(ローマ14:11)

 

彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」(黙示録5:12−13)

 

キリストが聖書に書いてある通りに「万物の支配者」であるなら、上記の賛美と礼拝がささげられるのは当然なのです。

 

どうでしょう。少しキリスト像が変わりましたか?福音書を学び、キリストの地上生涯を学ぶことは大切です。と、同時に聖書全体から宇宙的キリスト像(三位一体の神)を学ぶことも重要です。少し、視野を広げてみませんか?

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年10月5日木曜日

神のイメチェン?

 神のイメチェン?

旧約の神は、あのシナイ山の怖い神のイメージ。新約の神は放蕩息子の寛大で優しい父のイメージ。神はイメチェンしたの?と思われるかもしれませんが。アルフであり、オメガである神はもちろん同じです。新約では確かに神の愛が強調されてはいますが、旧約で強調されている「神の義」と「聖」は無くなった訳ではありません。神は「愛」であると共に、「義」であり、「聖」であるお方です。神をアバ父と呼び、親しく近づけるようになったのは、ただただ、キリストの十字架の贖いの故です。そのことを忘れてはなりません。新約にもこのような厳しい表現があります。

 

思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、刈り取りもすることになります。 (ガラテヤ6:7)

 

異邦人たちは、あなたがたが一緒に、度を越した同じ放蕩に走らないので不審に思い、中傷しますが、彼らは、生きている者と死んだ者をさばこうとしておられる方に対して、申し開きをすることになります。  ペテロ4:4−5)

 

私たちの神は焼き尽くす火なのです。 (ヘブル12:29)

 

キリストの十字架の故であると言うことは、キリストへの信仰なしに、この特権は無いと言うことです。従って「万人救済主義」(誰もが神の子であり、どの宗教の人も自動的に、すべての人は救われる)はここからは出てきません。

 

主の日〜神の怒りの日

旧約には「主の日」と言う表現が出てきます。ゼパニヤ1:14−15には、その説明が出てきます。

 

主の大いなる日は近い。それは近く、すぐにも来る。主の日に声がする。勇士の悲痛な叫び声が。その日は激しい怒りの日、苦難と苦悩の日、荒廃と滅亡の日、闇と暗黒の日、雲と暗闇の日、

 

それは「闇と暗黒の日」、神の「激しい怒りの日」なのです。1つは、偶像に走ったイスラエルの民への裁き。もう一つは「神の民」をそしった異邦の民への裁きです。神は異邦人を用いて、イスラエルを罰するが、結局、それらの異邦人の国々をも裁く。そして、これは終末に現れる患難時代にも起こることなのです。(黙示15:1)それはヤコブの苦しみの時です。イスラエルの民が苦しみを通して洗練され、苦しみを通って霊の目が開かれる時であります。と同時に、反キリスト勢力への裁きの時でもあります。主が世界を裁かれるときは、反キリスト勢力にとっては「恐ろしい日」、神の民にとっては清算がつく「救いの日」となるのです。(黙示6:10)

 

神々への裁き

世界には諸宗教があり、それらはそれぞれの風土、文化の中で生まれたものであり、優劣はないとする「宗教多元主義」がまかり通っています。こうなると「キリストだけが救い」と言うメッセージを持った宣教はやりにくくなります。それで「キリストだけ」を引っ込めるようになります。終末時には多くの教会もこれを支持するようになるでしょう。しかし、これは聖書の主張とは反するのです。聖書は真の神からの堕落の結果として諸宗教(偶像礼拝)を捉えています。(ローマ1:21以下)これについては、このブログ記事「ニムロデと諸宗教」でも、すでに解説しました。聖書はこの点、非常に明確なのです。

 

主への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。 (ゼパニヤ2:11)

 

全地は、わたしのねたみの火で焼き尽くされる。そのとき、わたしは諸国の民の唇を変えて清くする。彼らはみな、主の御名を呼び求め、一つになって主に仕える。  (ゼパニヤ3:8−9)

 

創世記は「はじめに神が天と地を創造した」で始まっているのであり、11章までは全人類の話であって、イスラエル宗教の話でさえ無いのです。そして、聖書の結論の書である黙示録では、神は「万物の支配者」(黙示11:17)と表現されています。諸宗教の1つではないことを強調しています。御使が全世界に福音を宣言するときも「天と地と海と水の源を創造した方を拝め」と、あえてキリストではなく、創造主にフォーカスしているのです。創造主に始まり、創造主で終わるからです。「諸宗教、みんなで仲良く」の思想は聖書にはないのです。

 

主への恐れが彼らに下る。主が地のすべての神々を消し去られるからだ。人々はそれぞれ、自分のところで主を礼拝する。異国のすべての島々も。

                         (ゼパニヤ2:11)

 

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執筆者:栗原一芳