アブラハムが生まれる前から「いる」お方
皆さんは、イエス・キリストと聞くとどんなイメージをお持ちでしょうか?白い衣を着て、長髪、ヒゲの優しいお顔で、子供達を抱いているイメージ、または、裸にされ、十字架につけられているイメージ。おそらく、これに関しては、クリスチャン、ノンクリスチャンを問わず、同じようなイメージを持たれているのではないでしょうか。
確かに約2030年前、中東のイスラエルにマリアから赤ちゃんが生まれ、イエスと名付けられました。イエスは、ヘブル語では「イエシュア」、旧約聖書に出てくる「ヨシュア」と同じ発音です。「主は救い」という意味で、イスラエルではよくある名前だったのではないでしょうか。キリストは称号で「救い主」なので、ガリラヤ出身のイエス=キリストということで、イエス・キリストと呼ばれています。
私たちがイメージするのは、この33年間の地上でのイエスの生涯です。しかし、キリストは、ご自身が語られたように、地上の受肉以前から存在しておられるのです。
「アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」(ヨハネ8:58)
イスラエルの先祖である、アブラハムが生まれる前から存在していると、ご自信で証言されています。
新改訳2017年版では「わたしはある」と訳しています。これは出エジプト記3:13−14に呼応しており、イスラエルの民に「わたしはある」とご自身を紹介した「神」そのものを指しています。まさに「アフファであり、オメガである。」お方(黙示録1:8)。時間の起点から終点までの間、いつでも存在されているお方。実は、私達がイメージしているのは、(ちょっと永遠のことは置いておいても)創世記1:1から新天新地直前までの何千年という時間帯の中で、たった33年の地上生涯のキリスト像なのです。実は私自身を含め、相当、意識していないと、あの地上33年のイエス・キリスト像しか、イメージできないのです。受肉前のユダヤ人ですらない、イエス(イエシュア)という名前すらない、神としてのキリストの方が時間的には圧倒的に長いのです。むしろ、そちらがキリストの本質とも言えるでしょう。
キリストは神?
「お客様は神様です!」の日本人にとっては、そういうレベルでは「キリストは神様=偉いお方」ということで抵抗ないでしょう。しかし、ユダヤ社会で自らを神と称することは勇気のいることです。しかし、イエスは、こう宣言しました。
わたしと父とは一つ(同質)です。 (ヨハネ10:30)
本当でないなら、「冒涜罪」となっても仕方ないですね。それほど重い発言です。
神にしかできない「罪を赦す」宣言をしたイエスを石打ちにしようとしたユダヤ人の気持ちも分からないではありません。
私達も、神学的にはキリストは神、三位一体の神と信仰告白しますが、あまりにあの地上での33年間の生涯のキリスト像が強いので、キリスト=神をイメージしにくいのです。聖書的にはキリストが創造主なのです。
この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。(ヨハネ1:2−3)
「なぜキリストじゃなければダメなんだ!」「キリスト教は排他的で高慢だ!」「他の宗教の人をキリストに改宗させるのは失礼な話だ!」という批判があります。キリストがただの宗教的偉人であり、キリスト教が単に諸宗教の1つであるなら、その批判は正しいことになります。しかし、キリストが「創造主」であったなら、話は違ってきます。さらに・・
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。 ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、(マタイ28:19)
「天においても、地においても一切の権威を持っているお方」となると話は違います。上の聖句によると「父と子と聖霊」は同等に置かれています。つまり、父と子は同等であり、同質なのです。キリストは創造主です。
また、キリストが「アルファであり、オメガである」お方となると話は違います。地上33年だけの生涯であるなら、他の偉人と同類でしょう。しかし、「アブラハムが生まれる前からいる」となると話は違います。
地上33年の中で、愛を示したイエス、私達のために十字架で死んでくださったイエス。3日後に復活し昇天されたイエス。全て事実であり、大事な真理です。人はこれを信じれば救われるのです。しかし、キリスト像は、これだけではありません。もっと、もっと壮大なのです。33年の前後もあるのです。
万物の主、王の王
「王の王、主の主」と私達は祈りで告白し、賛美で歌います。しかし、どれだけシリアスに信じているでしょうか?「王の王」とは政治的な宣言です。再臨の主は「王」なのです。キリストはこの世の「真の王」なのです。そう告白したために戦中のホーリネスの牧師達は逮捕され投獄されたのです。もう一度言いますが、「王」や「御国=Kingdom」というのは「政治的」な概念なのです。キリストを宗教指導者に留めておけない宣言なのです。これをどれほど理解しているでしょうか?
第七の御使いがラッパを吹いた。すると大きな声が天に起こって、こう言った。「この世の王国は、私たちの主と、そのキリストのものとなった。主は世々限りなく支配される。」 (黙示録11:15)
これは常識的にはトンデモ発言です。わざわざ「この世の王国」と書いています。天国の話ではありません。この世の諸国の上にキリストが君臨するということです。キリストが地上に33年だけ生きただけの宗教指導者であるなら、この発言は高慢甚だしいことになりますし、非現実的でさえあります。誰も信じないでしょう。しかし、黙示録11章を読み進んでいくと、そう宣言できるお方である証拠が述べられています。
すると、神の御前で自分たちの座に着いていた二十四人の長老たちが、ひれ伏し、神を礼拝して言った。「私たちはあなたに感謝します。今おられ、昔おられた全能者、神である主よ。あなたは偉大な力を働かせて、王となられました。
(黙示録11:17)
先ほどの文脈からキリストが諸国の王となるのです。ここでは王となられたのは、全能者、神となっています。新改訳第3版では、全能者を「万物の支配者」と訳しています。ヘブル書2:8では・・・
万物をその足の下に従わされました。
とあります。キリストの上の存在はいないという事です。キリストは万物の支配者なのです。それなら諸国の王となることも納得できます。
なぜなら、天と地にあるすべてのものは、見えるものも見えないものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権威であれ、御子にあって造られたからです。万物は御子によって造られ、御子のために造られました。御子は万物に先立って存在し、万物は御子にあって成り立っています。 (コロサイ1:16−17)
ここまでくると宇宙論的キリスト像です。キリストが世界を造り、すべての権威を造られたお方であるなら、当然、世界を、いや宇宙を治めるのは当然であり、真の王 (The Lord of the Universe) はキリストということになります。キリストがこの宇宙を創造されただけでなく、「万物は御子にあって成り立っている」のであり、このお方が手を離せば、大宇宙は跡形もなく崩れていくのです。実際、そのことが将来起こります。(黙示録20:11、I ペテロ3:10)
だから、このお方の前で、
すべてのひざは、わたしの前でひざまずき、すべての舌は、神(キリスト)をほめたたえる。(ローマ14:11)
彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」また私は、天と地と地の下と海にいるすべての造られたもの、それらの中にあるすべてのものがこう言うのを聞いた。「御座に着いておられる方と子羊に、賛美と誉れと栄光と力が世々限りなくあるように。」(黙示録5:12−13)
キリストが聖書に書いてある通りに「万物の支配者」であるなら、上記の賛美と礼拝がささげられるのは当然なのです。
どうでしょう。少しキリスト像が変わりましたか?福音書を学び、キリストの地上生涯を学ぶことは大切です。と、同時に聖書全体から宇宙的キリスト像(三位一体の神)を学ぶことも重要です。少し、視野を広げてみませんか?
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執筆者:栗原一芳
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