2023年11月30日木曜日

獣の印と神の印

 

サタンが提供する繁栄

 

すると悪魔はイエスを高いところに連れて行き、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて、こう言った。「このような、国々の権力と栄光をすべてあなたにあげよう。それは私に任されていて、だれでも私が望む人にあげるのだから。だから、もしあなたが私の前にひれ伏すなら、すべてがあなたのものとなる。」(ルカ4:56)

 

サタンは荒野でイエスを誘惑した。イエスはこの誘惑を退けたが、終末の反キリスト(獣)は、このオファーを受け入れて権力者となる。

 

獣は、全世界を支配する権威が与えられた。(13:7)

 

サタンは常にカウンターフェイト(偽物)を作る。神を真似する。「父」、「御子」、「御霊」を真似て「竜=サタン」、「獣=反キリスト」、「偽預言者=偽りの聖霊、メディア」で対抗する。さらには、「復活」まで真似をして人々の崇拝を勝ち取る。(黙示13:3)

 

全世界に広がるサタン礼拝

人々は復活した獣(反キリスト)に驚き、従い、礼拝する。(黙示13:4)

 

だれが、この獣に比べられよう。だれがこれと戦うことができよう。

 

人々は、獣に最高の賛美を捧げる。キリストに捧げられるべき「賛美」が獣へ向かう。さらに、人々は、この獣に力を付与した、竜(サタン)をも拝むようになる。(黙示13:4)つまり、全世界でサタン礼拝が行われるということだ! 

 

現代においても、世俗の音楽や芸術、哲学の世界では、どんどん反キリスト思想が広がっている。秘密裏に行われていたサタン礼拝が表に出るようになってきている。 

 

 

偽預言者(偏向メディア)は、「反キリストの像」を作り、全世界に それを礼拝するように命じるとある。

 

  獣の像に息を吹き込み、その像がものを言うことができるようにする

実際、これが奇跡なのか、ホログラムなどの技術を使ったものかは、分からないが世界が、この偶像礼拝に巻き込まれる。

 

 その像を拝まない者は皆殺しにされる。

  反対者は抹殺される。これが独裁国家の特徴だ。今も独裁者を批判すると行

  方不明になったり、謎の死を遂げたりすることが起こっている。マスコミの

   偏向報道と誘導は、今もあるのではないだろうか。

 

チップ埋め込みによるデジタル管理社会は、目の前にある。獣(反キリスト)は全世界を政治的宗教的経済的に支配するようになる。最終的には獣が世界統一宗教をも乗っ取り、自分を拝ませるようになる。

 

獣(反キリスト)の世界統治

第二の獣(偽預言者)は、竜のようにものを言う。(つまり、反キリストの代弁者となる)(黙示13:11)この偽預言者は獣の経済的支配をサポートする。

 

 すべての人に「獣の刻印」を押させる。

 右の手か額に押させる。

 その刻印を見せないと売ったり、買ったりできない。経済活動に参加できな

  くなる

 

獣の刻印

獣の数字は666

 ヘブル語のアフファベットは22文字。各文字は数字に対応している。

 ヘブル語で書かれた名前は数字に直せる。

 すべての人が同じ名(合計が666という数字になる名前)を刻印される。

 

神の刻印

しかし、実はこの「獣の刻印」は、これまた「神の刻印」の真似なのだ。患難期の初めに、神のしもべには、その額に「神の印」が押されるのだ。

 

4人の御使たちに、大声で叫んで言った。「わたしたちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。

                       (黙示録7:23)

神からの裁きである「災害」は神の印が押されていない人だけに及ぶ。

 

額に神の印が押されていない人間にだけ害を加えるように言い渡された。

                       (黙示9:4)

 

今日、イエスをキリスト(救い主)と信じるものには聖霊による印が押される。

 

あなた方はあがないの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。    

                     (エペソ4:30)

さらに、パウロはこう言っている。

私は、この身にイエスの焼印を帯びています。

                    (ガラテヤ6:17)

 

通常、焼印は家畜に押され、所有者を判別するために使われる。私たちは神の所有物である。

 

しかし、あなた方は、・・・神の所有とされた民です。

                    (ペテロ2:9)

 

終末には「所属」が明確になる!

今は、どっちつかずの人もいるだろうが、終末にはどっちに属するのかが明確になるということだ。

         神に属する VS  サタンに属する

 

そして、その運命も明確になる。

         新天新地  VS   火と硫黄の池

 

神がいても、いなくても、自分には関係ない?神に仕えて、何の得があろうか?

そう言っている人々に、神はこう言われる。

 

彼らはわたしのものとなる。万軍の主は言われる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。あなたがたは再び、正しい人悪しき者、神に仕える者仕えない者の違いを見るようになる。            

                (マラキ3:1718)

 

クリスチャンは、いかなる困難に遭遇しようとも、最後が勝利で終わることを知っている。神に従うものの最後は勝利、悪の清算はつき、全世界に神の支配が来ることを確信している。

 

あなたは、何を、どこを見ながら歩んでいますか?

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年11月23日木曜日

おいしい礼拝

 

以前、西武デパートの宣伝コピーで「おいしい生活」というのがありました。結構、人々の記憶に残ったのではないでしょうか。単に「いい生活」では表せない豊かな表現でした。

 

礼拝は神の愛への応答

ローマ書を見ると、礼拝とは、プログラムや儀式に参加することより、「自分を献げる」行為であることが分かります。

 

ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。   (ローマ12:1)

 

しかし、まずこれに先立って神の愛があることを知らなければなりません。

 

私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

                       (ヨハネ4:10)

 

私たちが神を愛したのではないのです。神が私たちを愛してくださり、御子を下さったのです。つまり、まず犠牲を払い「ささげ物」をしたのは、「神」なのです。

 

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

                         (ヨハネ4:19)

 

この順番が大事です。神がまず、私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して神と人を愛するのです。

 

喜んで献げないと意味がない!

ある人がこう言っていました。「うちの教会で会堂建築のための献金のプレッシャーがある。最近はお金の話ばっかりでうんざりする。」あるいは、あるクリスチャンは、「奉仕疲れで、もう教会に行きたいくない」というでしょう。何とも悲しい話です。そもそも神は、あなたの献金がなければ生きていけない訳ではありません。「父のところには、パンの有り余っている雇い人が多勢いる。」(ルカ15:17)のです。神はあなたのお金を必要としていないのです。献金でも奉仕でも、喜んで献げることが大事なのです。

 

一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです

                       (II コリント9:7)

 

旧約に見る「おいしい礼拝」

旧約聖書の神のイメージは、あのシナイ山での怖い神かも知れません。しかし、他の箇所には「御前で喜び楽しめ」という表現が出てきます。罪を赦されないで神の前に立つことは「恐怖」しかありません。しかし、罪を赦された者は御前で楽しむことができるし、そうすべきなのです。申命記12章を読むと、「えっ、旧約にこんな事が書いてあるの?」とびっくりします。

 

あなたは穀物や新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一のささげ物、牛や羊の初子、またあなたが誓うすべての誓願のささげ物、進んで献げるもの、あなたの供える奉献物のすべてを、あなたの町囲みの中で食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みの中にいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。 (申命記12:17−18)

 

ここでは、

  十分の一を献げるよう言われている。

  捧げものは、町囲みの中では食べられない。

  神が指定される場所で、その捧げものを食べる。

  主の前で喜び、楽しみなさいと命じられている。

 

 

確かに収穫の10分の1を捧げるよう命じられていますが、民が持ってきたささげ物を、民自身が食するようにも命じられています。(申命記14:22−23)「取り上げられる」のではなく、ささげ物を家族で食するのです。このささげ物は「最良のもの」(申命記12:11)なので、文字通り「おいしい礼拝」となったでしょう。「最良」のものを「御前」で、つまり、神を入れた「家族」で共に、食し、共に喜び、共に楽しむのです。(申命記14:26)「主の御前」がキーワードです。神を仲間に入れなければなりません。主こそ、あなたの「人生」の与え主だからです。また、一人でやってはいけません。キリストにある家族が一緒にやるのです。この姿勢はカナの婚礼におけるイエス様の姿にも見られますね。神は一緒に楽しむのが大好きです。

 

あなたの神、主の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

 

「手のわざを喜ぶ」とは、神に与えられた生活、労働を感謝し、喜ぶのです。

あなたは神に与えられた人生を喜び、楽しんでますか?これを楽しむ事が礼拝なのです。たまには会堂の外で、大自然を見て感動することも立派な礼拝です。

 

そして、そこには、実の家族と奴隷の差もありません。みんなで楽しむのです。

 

あなた方は、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。(申命記12:12)

 

そこには差別も格差もありません。一緒に楽しむのです。何と素敵な光景でしょうか。これが神の願う事であり、礼拝の本質です。罪赦されたもの達は、主の御前で、「惜しみなく与える方」を喜ぶのです。

 

神はあなたの献金を目当てにするようなケチなお方ではありません。神は、アナニヤとサッピラが土地を売ったお金が必要だった訳ではありません。(使徒5:1−11)神は他からも、そのくらいの金は、いつでも用意できるのです。むしろ、お金なんていらないから、神は御前で、この二人に「喜び」、「楽しんで」欲しかったのではないでしょうか?申命記が教えているのは、正にそれです。主の豊かさと、愛を覚え、主の家族として感謝し、主を喜ぶのです。それが「礼拝」なのです。それこそ神が、あなたに望んでおられる事なのです。

 

さらに、これらを行う事で

 

「あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである」(申命記12:28)

 

と神が言われているのです。あなたは「しあわせ」ですか?奉仕疲れ、献金疲れは、悲しい姿です。神も望んでいないでしょう。

 

主の前で喜び、楽しみなさい。(申命記12:12)

 

これが礼拝の「本質」であり、主の「命令」です。

 

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年11月16日木曜日

実は分かりやすい旧約聖書

 

分かりにくい新約聖書

死んだら天国に行く。当たり前のようにクリスチャンはそう信じています。ところが「死んだら天国」とはっきり書いてある箇所がないのです!ルカ23:43から、その「天国」とは、「パラダイス」のことと推察できるのですが、その「パラダイス」に関しては詳細な説明も描写もないのです。「素晴らしいところらしい」以上に、説明できますか?

 

パウロは「わたしの願いは、世をさってキリストと共にいることです。」(ピリピ1:23)と言っていますが、それ以上の詳細な描写はありません。キリストと共にいるのだということは分かります。しかし、そこで、どんな生活をするのか皆目分からないのです。天国=パラダイスは良いところだろうとは想像できますが、実は詳細な描写がないのです。正直、私はよく分からないので、あまり魅力を感じません。地上に実現する「千年王国」の方がワクワクします。

 

新天新地も「天から下ってくるエルサレム」が中心で、聖なる都(エルサレム)の記述は21:11以降、あるのですが、私たち異邦人の国=諸国に関しては26節に、ちょっと出てくるだけで、詳細な説明はありません。「天国良いとこ〜♪」と言っていますが、実は、どんなところで、どんな生活をするのか、よく分かっていないのです。

 

「天に宝を積む」という表現も、それは「天国へ行ってからの霊的報い」ですと言われても、「霊的報い」って何かよく分かりませんね。「すべての霊的祝福」(エペソ1:3)も分かったようで分かりません。「冠」や「地位」を頂いても、そんなに嬉しいでしょうか。もちろん、主キリストを知ったこと、神の家族に加えられたことはこの上ない祝福です。しかし、「病気にならない」、「長寿」、「豊かな富」というのに比べて、やはり漠然とした感があります。

 

よく「聖書は難しい」と言う日本人がいます。新約は「天」とか「霊」とか「次元」の違う話が入ってくるので難しいのです。クリスチャンでさえ、分かったようで分からなくなるのです。それにギリシア哲学の霊肉二元論が入ってきて、中世の「キリスト教」を形成していくので、(カトリック僧の肉体苦行など)輪をかけて分からなくなるのです。霊的成長とは、「我もなく、世もなく、キリストのみ」という言わば「神に吸い込まれること」になっていくのですが、だとしたら、それって、霊肉二元論じゃないでしょうか。それだと、私たちの体や、この被造物世界はどうでもいい事になってしまいます。現世には関係ない「キリスト教」に、多くの人は魅力を感じないでしょう。

 

分かりやすい旧約聖書

それに比べて、旧約聖書は「地上的」です。祝福や呪いも「具体的」です。例えば、約束の地に入る直前に新世代に神の戒めをリマインドした申命記を見ると・・・

 

今、イスラエルよ、私が教える掟と定めを聞き、それらを行いなさい。それはあなたがたが生き、あなたがたの父祖の神、主があなたがたに与えようとしておられる地に入り、それを所有するためである。  (申命記4:1)

 

神に聞き従う目的は「死んだら天国へ行く」でもなく、「霊的祝福を受ける」ためでもないのです。「生きて」、「土地を所有する」ことです。非常に分かりやすいですね。神の命令に従わない者は、根絶やしにされたのです。(4:3)「死んでから地獄で苦しむ」のではなく、シンプルに、この地上から消し去られるのです。これも分かり易いです。旧約は死後のことに、関心が無いのです。「地獄」の思想がありません。5節でも「土地の所有」が書いてあります。また、子孫が幸せになり、土地を永久に保持し、永く生きられるのです。(6:2、11:9)これが神の命令に従った「結果」なのです。

 

神に従わず、偶像を拝むなら、「根絶やし」にされ、または諸国に散らされ、自分の土地を失うのです。(25−27節)呪いも非常に具体的です。さらに7章を見ると・・・

 

もしあなたがたがこれらの定めを聞き、これを守り行うなら、あなたの神、主は、あなたの父祖たちに誓われた恵みの契約をあなたのために守り、あなたを愛し、あなたを祝福し、あなたを増やす。主があなたに与えるとあなたの父祖たちに誓われた地で、あなたの胎の実も、穀物、新しいぶどう酒、油などの大地の実りも、またあなたの群れの中の子牛、群れの中の子羊も祝福される。あなたはあらゆる民の中で最も祝福される。あなたのうちには、子のいない男、子のいない女はいなくなる。あなたの家畜も同様である。主はあらゆる病気をあなたから取り除き、あなたが経験したあのエジプトの悪疫を、一つもあなたにはもたらさず、あなたを憎むすべての者にこれを下される。

                      (申命記7:12−15)  

 

つまり、神の命令を守ると、

 

1)      子沢山になり人口が増える。

2) 家畜や産物が増え豊かになる。

2)      病気にならない。

 

ここでも、「天国」に行くとは一言も書いてありません。「霊的祝福を受ける」も無いのです。全ては、この地上での「祝福」です。正に、「家内安全」「無病息災」「商売繁盛」ですね。実に分かりやすい。そして、そのように目に見える形で祝福されることが、諸国への「証」となると明記されています。

 

これを守り行いなさい。そうすれば、それは諸国の民にあなたがたの知恵と悟りを示すことになり、彼らはこれらすべての掟を聞いて、「この偉大な国民は確かに知恵と悟りのある民だ」と言うであろう。(申命記4:6)  

 

実は、旧約聖書は、日本人にも分かりやすく、入りやすいのではないでしょうか。あるクリスチャンビジネスマンの方は、伝道する時、まず旧約の神(創造主)に持っていく、まず、神を認めさせる。そして、その後で、人生の勝利者となるためにキリストを語ると言っていました。なかなか面白い発想ですね。

 

新約でも、基本、神の御心はあなたが健康であり幸いなことです。

 

愛する者よ。あなたのたましいが幸いを得ているように、あなたがすべての点で幸いを得、また健康であるように祈ります。 III ヨハネ2)

 


注意しないといけないのは、今回挙げた申命記は、イスラエル民族に、「約束の地」に入る直前に与えられた契約であり、現在のクリスチャンにそのまま適用できない面もあるとうことです。実際、敬虔なクリスチャンが大病を患ったりしますね。お金があってハレルヤ、健康だからハレルヤ、仕事がうまくいったからハレルヤ・・それは分かりやすいけれど、ある意味、信仰がなくても「ハレルヤ!」と言える訳です。それでヨブは、神への信仰を試されるために所有物が取り去られ、自分の健康さえ取り去られます。

 

さて、病気になっても平安と喜びを持てるためには?お金持ちにならなくても平安と喜びを持つには?子供がいなくても、あるいは独身者でも平安と喜びを持つには?そう、それがイエス・キリストを信じる信仰による勝利です。新約の祝福は、そういう意味では深いし、レベルが高いのです。やっぱり、旧約も新約も必要ということですね。

 

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執筆者:栗原一芳

 

2023年11月9日木曜日

イスラエルの回復

 今、毎日のようにイスラエルと武装テロ組織ハマスとの戦いのニュースが流れています。「イスラエル」という名前が世界のトップニュースとなっている自体、不思議な気がします。今から3000年以上も前、イスラエルの12部族がカナンの地(現在のパレスチナ)を与えられた時、すでにガザという地名がありました。聖書は「昔むかし、あるところに・・・」で始まる神話ではありません。現実の歴史です。ユダ族がそのあたりに住んでいたのです。ちなみに、ガザ周辺はサウル・ダビデ王の時代には「ペリシテ人」が住んでおりイスラエルと敵対関係にありました。あの巨人、ゴリアテもペリシテ人でしたね。私たちクリスチャンは現在のイスラエルをどのように見て、祈ったらいいのでしょうか?

 

2つの種族

聖書的に言うならば、全人類は2つの種族に属しています。アダム系人類とキリスト系人類です。アダム系はパウロの言う「生まれながらの人間」(Iコリント2:14)で救われておらず、御霊を持たない人。肉(古い人=アダム以来の罪の性質)だけで生きている人。アダム以来の罪は全人類を支配しているので(ローま5:12)、そのままでは、罪の結果である「死」に至るのです。(ローマ6:23)しかし、キリストを信じて生まれ変わった人(ヨハネ3:3、テトス3:5)は、御霊を持っており、(ローマ8:9)、「神の所有とされた民」となっています。(Iペテロ2:9)結果は永遠の命(ローマ6:23)です。

この分岐点はキリストを誰と言うかです。

 

あなたがたは、わたしを誰だと言いますか?(マタイ16:15)

 

キリストはすべての人にこの質問をしています。すべては、この質問にかかっているのです。「生ける神の子、キリスト」と告白できるのは聖霊によるのです。(マタイ16:17、Iコリント12:3)

 

選ばれたけど、救われていない

神はアブラハムを選び、祝福しました。(創世記11:1−3)それは確かです。

ただ、それは、「すべての民族があなたによって祝福される」(11:3)ためだったのです。事実、全人類の救い主キリストはユダヤ人として生まれました。

 

さらに申命記7:7を見ると、神がイスラエル民族を選んだ理由が書かれています。

 

主があなたがたを慕い、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。事実あなたがたは、あらゆる民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから、主は力強い御手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王ファラオの手からあなたを贖い出されたのである。  

 

それは神の一方的な愛によるのであり、イスラエルの民が優れていたからではないのです。事実、彼らは反抗的な民でした。

 

その方は私に言われた。「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの民に、わたしに反抗する国民に遣わす。彼らもその先祖たちも、今日までわたしに背いてきた。彼らは厚かましく、頑なである。わたしはあなたを彼らに遣わす。

                       (エゼキエル2:3−4)

 

しかし、イスラエルの家はあなたの言うことを聞こうとはしない。彼らがわたしの言うことを聞こうとしないからだ。イスラエルの全家は額が硬く、心が頑なだからだ。見よ。わたしはあなたの顔を、彼らの顔に合わせて硬くし、あなたの額を、彼らの額に合わせて硬くする。わたしはあなたの額を、火打石よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らを恐れるな。彼らの顔におびえるな。彼らは反逆の家なのだから。」          (エゼキエル3:7−9)

 

これが「選ばれた民」の姿だったのです。この民が救われるのは神の憐れみ以外にありません。

 

「選ばれた民」であることは確かです。同時に、彼らがイスラエル人であるがゆえに、「自動的」に救われているのではないことも明白です。イエスは、偽善のパリサイ人や律法学者には厳しく、そのままでは神の国に入れないこと(マタイ21:43、23:13)、それどころかゲヘナ行きであることも語られました。(マタイ23:15)

 

パウロもローマ書2−3章で、律法を守っているから、あるいは割礼を受けているから自動的に救われているのではないことを語っています。

 

つまり、ユダヤ人も、異邦人同様「罪人」であり、キリストを信じる信仰によらなければ救われないのだと主張しているのです。

 

イスラエルの回復

現在のイスラエルは、まだ2000年前と同じく、イエス・キリストを拒んでいます。つまり今だに「反抗の民」なのであり、今後、苦しみを通ることになるのです。今は、世俗国家であり、常に御心を行なっている訳ではありません。

 

彼らは、福音に関して言えば、あなたがたのゆえに、神に敵対している者ですが、選びに関して言えば、父祖たちのゆえに、神に愛されている者です。

                        (ローマ11:28)

 

「民族」としては選ばれてはいても、「救われて」はいないのです。イスラエルの国家的救いにはタイムテーブルがあるのです。

 

さらに、ローマ書11章から見てみましょう。まず、パウロはイスラエルに対する神の御心は変わっていないことを確認します。

 

そして、イスラエルのことをこう言っています。

 

「わたしは終日、手を差し伸べた。不従順で反抗する民に対して。」

                        (ローマ10:21)

 

以下、11章のまとめ

 

 イスラエルが退けられてしまった訳ではないことを書いている。(11:1)

 恵により救われるユダヤ人は今日もいる。(11:5)

 しかし、国民としては霊的に盲目状態である。(11:8)

 ユダヤ人はイエスに躓いたが、結果、それが世界伝道へとつながった。

                      (11:11)

  神の側からは、そのようにしてユダヤ人に妬みを起こさせたい。

                     (11:11)

  神は本来の枝(ユダヤ人)をあわれみ、再び接ぎ木される。(11:23)

  ユダヤ人は、もっと容易く元のオリーブに接ぎ木される。つまり、霊的覚醒が早い期間で起こり得る。(11:24)

 

兄弟たち。あなたがたが自分を知恵のある者と考えないようにするために、この奥義を知らずにいてほしくはありません。イスラエル人の一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時が来るまでであり、こうして、イスラエルはみな救われるのです。 (ローマ11:25−26)

 

  ユダヤ人が拒絶したので、福音は先ず異邦人世界へ伝えられた。世界宣教を通して異邦人の救われる人の数が満ちるとイスラエルも覚醒が始まり、ついにはイスラエルに民族的リバイバルが起こり、皆、救われることになる。

 

  ユダヤ人は、今はクリスチャンに敵対しているが神に愛されている。

                         (11:28)

  神のイスラエルへの召命と賜物は変わらない。(11:29)

  異邦人が不従順であったが、あわれみを受けたようにユダヤ人もあわれみを受ける。(11:31)

 

現在のイスラエル人もパレスチナ人もキリスト(救い主)が必要です。王の王であり、主の主である、キリストを信じ、赦され、御前に膝まずき、このお方を礼拝する必要があります。

 

イスラエル人の個人的な救いと共に、国家的救いが来るよう、祈りましょう。

 

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お薦め動画

【超感動】ユダヤ人とアラブ人が共に賛美する様子に爆泣きパーティー開幕

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執筆者:栗原一芳

 

 

2023年11月2日木曜日

愛おしき、この地

 

愛おしき、この地

以下、内村鑑三の言葉です。

 

余は今日まで天然を愛して、実はこれを卑しめたのである。物といい、肉といえば卑しきものと思い、これに超越しこれを脱却するのが霊的生命の目的であると思うた。余は、余の愛するこの地この天然と永久に別れて、しかる後に完全なる霊的生命に入るのであると思うた。しかし、これ大いなる誤りである。生命は霊と肉であり、宇宙は天と地とである。余の救わるるは、余の霊と共に肉の救わるることであって、また余の救いは宇宙の完成と共におこなわるるものである。余は肉を離れ地より挙げられて救わるるのではない。新しき朽ちざる体を与えられて、新しき天地に置かれて、救わるるのである。ゆえに余の救いは万物の完成と同時におこなわるるのである。(P.36ー37 「キリスト再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」(1918年12月「聖書之研究」)

 

実は、自分も同じ思いがあったのです。正直、天国は素晴らしいところと聞かされても、あまり魅力を感じられませんでした。むしろ、この地上で美しい花を見、緑の木々の中を歩くとき、幸せを感じます。この肉体が喜ぶのです。確かに、この世は汚れている部分があります。しかし、それは「部分」なのであって、それでも自然は美しいのです。

 

死んで、肉体と魂が分離し、魂だけが天国に行き、イエスと共に永遠に過ごす。それが一般のクリスチャンの考えではないでしょうか?それなら、当初、神が人を地のちりから肉体を作り、神の息を吹き込んで人間となったという人間は何なのでしょうか?霊的なものが、より崇高であるなら、なぜ神は初めから人間を霊的存在(御使と同様)として造らなかったのでしょうか?

 

この被造物世界は「悪いもの」で、消滅すべきものなのでしょうか?それなら、なぜ、神は創造のワザを終えて、「それは非常に良かった」と言ったのでしょうか?そう、良かったのです。今でも「悪い部分」を取り除けば、非常に良いのです。

 

自分も上記のような一般的な考えをしていて、死んだら天国と漠然と考えていました。しかし、この地上に実現する「キリストの王国」=「千年王国」の事を学ぶに連れ、考えが変わりました。というか、希望に満ち溢れてきたのです。「そうだ、この愛しい地に戻るんだ。それもさらに良き地に」と思った時に、飛び上がるほど嬉しかったのです。

 

「キリスト教」はギリシア哲学の影響を受け、肉体や物質は悪いもの、「この地」は悪いもの、この地を逃れて「天国」という「霊的な場」に行くのだという思想が蔓延していったのです。しかし、これは、新約の記者が警告した「グノーシス主義」という異端と同じ思想です。そして、「この地はどうせ、滅ぶんだから、どうなっても良い」という天国への逃げの姿勢を生んでしまいます。これでは、神の代理者としての「地を治めるクリスチャン」としての責任を放棄していることになります。

 

老いてゆく、だから愛おしい

老いは悪。老いてゆくのは醜くなること。そういう面もありますが、熟した柿の方が美味しいし、葉が散る前の紅葉が一番美しいと言う面もあります。日没前の夕日に照らされた風景は一段と美しいですね。人間も永遠に青春であったらと思う反面、人生を重ね老いてゆく、だから愛おしいという面もあります。人生は中年以降に熟するのです。刻まれたシワには人生の喜怒哀楽を重ねた重厚さを感じます。いつまでもツルンツルンの肌では面白くないのです。ある人が言いました。「肉体があるからこそ、神の栄光を表せる。」なるほど・・・

 

教会の礼拝に行くと、生まれたばかりの赤ちゃんがいる。走り回る子供達がいる。思春期の女の子や男の子がいる。働き盛りの壮年がいる。定年した高齢者もいる。皆が1つになってキリストを賛美している。「これでいいのだ」と思うのです。しっかり、この世の「生」を生き切って、次のステージに移行していきましょう。

 

「霊肉二元論」からの脱却

天国への逃げの思考ではなく、「天の国籍」を持ったまま、この世でしっかり生きる。神の造った肉体を肯定する。聖俗二元論からも脱却する。文化(音楽・芸術など)は単なる救霊の「手段」ではなく、創造主の姿に通られた人間にとって、それ自体に意味があるし、それ自体を楽しんでいい。「我もなく、世もなし、キリストのみ」の世界は霊的に聞こえるけれど、それは聖書的というより、ギリシア哲学的なんじゃないでしょうか?

 

この点、旧約聖書は非常に「地上的」です。地に足がついてます。「天国」だ「地獄」だの話は出てきません。裁きはこの地上で成されます。祝福とは「地を受け継ぎ、子沢山であり、長寿を全うすること」。呪いとは、「地を失い、齢が短くなり、不妊になり、あるいは、惨めな死を遂げること。」非常にシンプルなのです。旧約は神とともに「この地上」を生きた人々の物語なのです。旧約と新約が一貫性ある「神のことば」であるなら、旧約の「地に根を下ろした生き方」にも学ぶべきでしょう。

 

新約も実は上(天)を目指すより、「来るべき世=次の時代」を目指しているのです。(エペソ2:7)「来たるべき世」は霊的なものではなく、この地上に実現する「千年王国」です。最近は多くのクリスチャンが「新天新地」も回復された「この地上」と言う立場を採っています。そして、そこには復活した「肉体」を持って入るのです。内村が言ったように、自分の救いの完成は、万物の贖い・回復・救いの完成と共に起こるのです。霊だけが天に行くのではありません。

 

滅ぶべきは、この世の「悪」、「罪」、「サタンの支配」すなわち、地上にある悪い「部分」なのであって、この被造物世界そのものではないのです。何せ、それは創造時には「良かった」のですから。

 

私の大学時代の聖書研究会の同輩で、最近は「創造の回復」という視点でのメッセージを配信している島先さんという方がいます。最後に彼の言葉を分かち合います。

 

「私たちも、被造世界の中で、被造世界と共に、被造世界に仕えながら、創造主・贖い主・主権者である神を讃えたいと思います。」

 

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お勧め資料

 

創造の回復  島先克臣

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執筆者:栗原一芳