以前、西武デパートの宣伝コピーで「おいしい生活」というのがありました。結構、人々の記憶に残ったのではないでしょうか。単に「いい生活」では表せない豊かな表現でした。
礼拝は神の愛への応答
ローマ書を見ると、礼拝とは、プログラムや儀式に参加することより、「自分を献げる」行為であることが分かります。
ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。 (ローマ12:1)
しかし、まずこれに先立って神の愛があることを知らなければなりません。
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(I ヨハネ4:10)
私たちが神を愛したのではないのです。神が私たちを愛してくださり、御子を下さったのです。つまり、まず犠牲を払い「ささげ物」をしたのは、「神」なのです。
私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。
(I ヨハネ4:19)
この順番が大事です。神がまず、私たちを愛してくださったので、私たちはその愛に応答して神と人を愛するのです。
喜んで献げないと意味がない!
ある人がこう言っていました。「うちの教会で会堂建築のための献金のプレッシャーがある。最近はお金の話ばっかりでうんざりする。」あるいは、あるクリスチャンは、「奉仕疲れで、もう教会に行きたいくない」というでしょう。何とも悲しい話です。そもそも神は、あなたの献金がなければ生きていけない訳ではありません。「父のところには、パンの有り余っている雇い人が多勢いる。」(ルカ15:17)のです。神はあなたのお金を必要としていないのです。献金でも奉仕でも、喜んで献げることが大事なのです。
一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです
(II コリント9:7)
旧約に見る「おいしい礼拝」
旧約聖書の神のイメージは、あのシナイ山での怖い神かも知れません。しかし、他の箇所には「御前で喜び楽しめ」という表現が出てきます。罪を赦されないで神の前に立つことは「恐怖」しかありません。しかし、罪を赦された者は御前で楽しむことができるし、そうすべきなのです。申命記12章を読むと、「えっ、旧約にこんな事が書いてあるの?」とびっくりします。
あなたは穀物や新しいぶどう酒、オリーブ油の十分の一のささげ物、牛や羊の初子、またあなたが誓うすべての誓願のささげ物、進んで献げるもの、あなたの供える奉献物のすべてを、あなたの町囲みの中で食べることはできない。ただ、あなたの神、主が選ばれる場所で、あなたの息子、娘、男奴隷、女奴隷、およびあなたの町囲みの中にいるレビ人とともに、あなたの神、主の前でそれらを食べなければならない。あなたの神、主の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。 (申命記12:17−18)
ここでは、
● 十分の一を献げるよう言われている。
● 捧げものは、町囲みの中では食べられない。
● 神が指定される場所で、その捧げものを食べる。
● 主の前で喜び、楽しみなさいと命じられている。
確かに収穫の10分の1を捧げるよう命じられていますが、民が持ってきたささげ物を、民自身が食するようにも命じられています。(申命記14:22−23)「取り上げられる」のではなく、ささげ物を家族で食するのです。このささげ物は「最良のもの」(申命記12:11)なので、文字通り「おいしい礼拝」となったでしょう。「最良」のものを「御前」で、つまり、神を入れた「家族」で共に、食し、共に喜び、共に楽しむのです。(申命記14:26)「主の御前」がキーワードです。神を仲間に入れなければなりません。主こそ、あなたの「人生」の与え主だからです。また、一人でやってはいけません。キリストにある家族が一緒にやるのです。この姿勢はカナの婚礼におけるイエス様の姿にも見られますね。神は一緒に楽しむのが大好きです。
あなたの神、主の前で、あなたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。
「手のわざを喜ぶ」とは、神に与えられた生活、労働を感謝し、喜ぶのです。
あなたは神に与えられた人生を喜び、楽しんでますか?これを楽しむ事が礼拝なのです。たまには会堂の外で、大自然を見て感動することも立派な礼拝です。
そして、そこには、実の家族と奴隷の差もありません。みんなで楽しむのです。
あなた方は、息子、娘、男奴隷、女奴隷とともに、あなたがたの神、主の前で喜び楽しみなさい。(申命記12:12)
そこには差別も格差もありません。一緒に楽しむのです。何と素敵な光景でしょうか。これが神の願う事であり、礼拝の本質です。罪赦されたもの達は、主の御前で、「惜しみなく与える方」を喜ぶのです。
神はあなたの献金を目当てにするようなケチなお方ではありません。神は、アナニヤとサッピラが土地を売ったお金が必要だった訳ではありません。(使徒5:1−11)神は他からも、そのくらいの金は、いつでも用意できるのです。むしろ、お金なんていらないから、神は御前で、この二人に「喜び」、「楽しんで」欲しかったのではないでしょうか?申命記が教えているのは、正にそれです。主の豊かさと、愛を覚え、主の家族として感謝し、主を喜ぶのです。それが「礼拝」なのです。それこそ神が、あなたに望んでおられる事なのです。
さらに、これらを行う事で
「あなたも後の子孫も永久にしあわせになるためである」(申命記12:28)
と神が言われているのです。あなたは「しあわせ」ですか?奉仕疲れ、献金疲れは、悲しい姿です。神も望んでいないでしょう。
主の前で喜び、楽しみなさい。(申命記12:12)
これが礼拝の「本質」であり、主の「命令」です。
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執筆者:栗原一芳
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