「マーケットプレイスでのあなた自身の影響力こそが世界を変革する鍵なのです。」(エド・シルボソ)
今回は、エド・シルボソ著「変革の鍵〜油注がれたビジネス」より刺激的な考えを分かち合います。
365日の主
キリストも使徒たちも、ミニストリーの舞台は日常の現場、マーケットプレイス
だった。路上や人の家や牢獄や、一般の集会場で神の御業が起こっていく。イエスの弟子は誰一人として宗教専門家がいなかった。すべてフルタイムの職業人だった。イエスは宗教施設の増大を意図していなかったからだ。ミニスター(主の働き人)になる条件は、神学校で教育を受けたかよりも、イエス様と一緒に時を過ごしてきたゆえの霊性なのだ。よく「自分は一般信徒であって、牧師じゃないから」という言葉を聞く。しかし、そういう考えこそが実生活の場で活躍する信徒たちを腰砕にするサタンの狡猾な罠なのだと言う。だから、「一般信徒」という既成概念から飛び出すことが必要だと。実生活の場での信徒の働きを無力化させる4つの誤解があるという。(p24)
1. 教職者、牧師と一般信徒の間には神が定めた大きな隔たりがある。
2. 教会の働きは、宮(教会堂)と呼ばれる宗教的建造物の中での働きに限定されている。
3. 事業(ビジネス)に関わっている信徒は、教会内のミニストリーをして仕える信徒に比べて、霊性は劣っている。
4. マーケットプレイス(実生活の現場)で日常の大半を過ごす信徒たちの役割は、教会内のミニストリーに召されたミニスター(献身者、聖職者、)のビジョンを経済的にサポートすることに限る。
しかし、聖書的では万人祭司なのであって、信徒はすべてキリストの体の一部であり、キリストは365日の主なのだ。神の働きを教会堂の4つの壁の中に閉じ込めてはならない。あなたは観客ではなく、プレーヤーなのだから。
教会というのは、「日曜日に2時間ほど建物の中で過ごすこと」だけになり下がってしまい、1週間の中で、その他の165時間以上は教会の外、すなわち教会とは関係なく過ごしているといった認識につながっていくのです。これは初代教会時代と比べてなんとズレた認識でしょうか。(P124)
実際、第1世紀のクリスチャンは毎日、そして1日に何度も教会(エクレシア)を持っていた。(使徒2:42)
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お勧め動画
クリスチャンは日曜日に "教会に行くべき" なのか? 小林拓馬
https://www.youtube.com/watch?v=D65H37WI754
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呪うのではなく、祝福する
教会はこの世から隔離されるのではなく、教会は「神の国=神の支配」をこの地上に持ち運ぶために、存在している。そして、そのために私たちクリスチャンの未信者に対する態度や心が大変、重要になってくる。シルボソの「エクレシア」という本の中で、大使の話が載っている。もし、新しく赴任した大使が「私はあなた方の国や文化は好きじゃない。仕事で仕方ないからここに来た」と言ったら、周りの人はどう思うだろうと。良い関係が築けるとは、とても思えないだろう。しかし、時に私たちクリスチャンはノンクリスチャンに対して「さばき」の目で見てしまうことがないだろうか。ヨナはニネベの人を呪いたかった。しかし、神はニネベの人を愛していた。滅びないよう、悔い改めるようヨナを遣わし、メッセージを送った。
キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。ですから、私たちは今後、肉(人間的基準)に従って人を知ろうとはしません。(IIコリント5:15―16)
キリストは全ての人のために死んだ。十字架の上で「完了した!」と言われた。つまり、全ての人の罪の贖いは、もう完了している。人が裁かれるのは、その人の罪のためではなく、このよきメッセージ(福音)を拒むからであり、すなわち、神の愛を拒むからなのだ。贖いはなされている。人がその償いをする必要はない。あとは信じて受け入れるだけ。未信者とは、ただそれを知らない人たちなのだ。今後、人間的な標準で人を見てはいけない。イスラエルの民がバビロンに捕囚となった時でさえ、偶像の国バビロニアを呪えとは言っていない。むしろ、「その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。」(エレミヤ29:7)と言われた。
呪ってはいけない。裁いてはいけない。平安を祈り、祝福すべき。
さらにシルボソはルカ10:5−9から、イエスが弟子を宣教に遣わした場面から学ぶべきことをリストしている。
1.祝福する:平安を祈る 呪ってはいけない。さばいてはいけない。
2.交わる:食事を共にする 関係を深める 信頼を築く
3.ミニストリーをする:必要を知り、必要を満たす。病人を癒すなど。
4.宣言する:神の国(福音)を宣べ伝える。
職場の平安を祈ることから始めよう。
神様に感謝しましょう。見るに堪えない罪があなたの周囲で目について、その汚臭に耐えられなくても、諦めないで甘い香りをした神の恵をそこに持ち運ぶのです。前向き、かつ肯定的な心の姿勢を保つのです。私たちは不完全な世に生きていて、尚且つサタンの支配下にあるマーケットプレイス(実生活の現場)で働いています。ですからこの世界のどこに行っても、またあなたの特定のお仕事の上でも、いずれにしても、がっかりしたり、怒りを覚えたりする理由はいくらでも見つけることができます。しかし、この不満や憤りは、悪魔がクリスチャンに悪影響を及ぼしていく際の足場(入り口)となります。つぶやいたり、怒っているクリスチャンは、もはやサタンにとって何の脅威でもありません。不満と憤りは悪魔に機会を与え(エペソ4:26−27)クリスチャンの影響力を無にしていきます。神の恵みは罪から来るさまざまな悪に対する治療薬(解決策)ですが、不満と憤りがその神の恵みから逆走していくような行為なのです。(p158)
あなたは変革者
変革(トランスフォーメーション)をスタートさせるには、まずあなたが所属するシステム(組織)を受け入れなければなりません。そして、たいていの場合、最初、そのシステム(組織)は極めて不完全なのです。あなたをその場所に置くことによって、その場を変えてゆくことを神は計画されているからです。あなたは変革者なのです!(159)
神の国(神の支配)は、そのようにして実社会の中に広がっていく。悪魔が支配していた場所を神の支配で占領してゆく人々が必要なのだ。単なる我慢ではなく、勝利が約束されているものとして、(第一ヨハネ5:5)信じて、霊的戦いをしてゆく人々だ。
マーケットプレイス・ミニスターという存在
そして、それをサポートしてゆくマーケットプレイスミニスターが必要なのだ。特に日本のように会社にクリスチャン一人という状況の中で、霊的に寄り添って支えてゆく存在が必要なのだ。シルボソは職業人一人一人がマーケットプレイスミニスター(変革者)なのだと言うが、すぐには厳しい気もする。その前にそういう人々を育成してゆく存在が必要だ。日本では主の働き人がもっと教会の4つの壁の外に出て、実社会の真ん中で、職場の近くで信者と会い、励まし、祈る必要があるのではないだろうか。まさに、それこそTMCが願い、やってきたことだ。集会を主催して、そこに招き入れるのではなく、彼らのところに出て行って、彼らの現場で会う。職場近くにエクレシアを形成する。
そのために、今までの型を破る「働き人」のかたちが必要なのではないだろうか。牧師でもない、宣教師でもない、そう「マーケットプレイス・ミニスター」。
「エクレシア」エド・シルボソ著 ライフパブリケーション
「「変革の鍵〜油注がれたビジネス」 エド・シルボソ著 プレイズ出版
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東京メトロ・コミュニティ
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執筆者:栗原一芳