2024年6月20日木曜日

マーケットプレイス・ミニスター

 

「マーケットプレイスでのあなた自身の影響力こそが世界を変革する鍵なのです。」(エド・シルボソ)

 

今回は、エド・シルボソ著「変革の鍵〜油注がれたビジネス」より刺激的な考えを分かち合います。

 

365日の主 

キリストも使徒たちも、ミニストリーの舞台は日常の現場、マーケットプレイス

だった。路上や人の家や牢獄や、一般の集会場で神の御業が起こっていく。イエスの弟子は誰一人として宗教専門家がいなかった。すべてフルタイムの職業人だった。イエスは宗教施設の増大を意図していなかったからだ。ミニスター(主の働き人)になる条件は、神学校で教育を受けたかよりも、イエス様と一緒に時を過ごしてきたゆえの霊性なのだ。よく「自分は一般信徒であって、牧師じゃないから」という言葉を聞く。しかし、そういう考えこそが実生活の場で活躍する信徒たちを腰砕にするサタンの狡猾な罠なのだと言う。だから、「一般信徒」という既成概念から飛び出すことが必要だと。実生活の場での信徒の働きを無力化させる4つの誤解があるという。(p24

 

1.      教職者、牧師と一般信徒の間には神が定めた大きな隔たりがある。

2.      教会の働きは、宮(教会堂)と呼ばれる宗教的建造物の中での働きに限定されている。

3.      事業(ビジネス)に関わっている信徒は、教会内のミニストリーをして仕える信徒に比べて、霊性は劣っている。

4.      マーケットプレイス(実生活の現場)で日常の大半を過ごす信徒たちの役割は、教会内のミニストリーに召されたミニスター(献身者、聖職者、)のビジョンを経済的にサポートすることに限る。

 

しかし、聖書的では万人祭司なのであって、信徒はすべてキリストの体の一部であり、キリストは365日の主なのだ。神の働きを教会堂の4つの壁の中に閉じ込めてはならない。あなたは観客ではなく、プレーヤーなのだから。

 

教会というのは、「日曜日に2時間ほど建物の中で過ごすこと」だけになり下がってしまい、1週間の中で、その他の165時間以上は教会の外、すなわち教会とは関係なく過ごしているといった認識につながっていくのです。これは初代教会時代と比べてなんとズレた認識でしょうか。P124)

 

実際、第1世紀のクリスチャンは毎日、そして1日に何度も教会(エクレシア)を持っていた。(使徒2:42)

 

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お勧め動画

クリスチャンは日曜日に "教会に行くべきなのか? 小林拓馬

https://www.youtube.com/watch?v=D65H37WI754

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呪うのではなく、祝福する

教会はこの世から隔離されるのではなく、教会は「神の国=神の支配」をこの地上に持ち運ぶために、存在している。そして、そのために私たちクリスチャンの未信者に対する態度や心が大変、重要になってくる。シルボソの「エクレシア」という本の中で、大使の話が載っている。もし、新しく赴任した大使が「私はあなた方の国や文化は好きじゃない。仕事で仕方ないからここに来た」と言ったら、周りの人はどう思うだろうと。良い関係が築けるとは、とても思えないだろう。しかし、時に私たちクリスチャンはノンクリスチャンに対して「さばき」の目で見てしまうことがないだろうか。ヨナはニネベの人を呪いたかった。しかし、神はニネベの人を愛していた。滅びないよう、悔い改めるようヨナを遣わし、メッセージを送った。

 

キリストはすべての人のために死なれました。それは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためです。ですから、私たちは今後、肉(人間的基準)に従って人を知ろうとはしません。IIコリント5:15―16)

 

キリストは全ての人のために死んだ。十字架の上で「完了した!」と言われた。つまり、全ての人の罪の贖いは、もう完了している。人が裁かれるのは、その人の罪のためではなく、このよきメッセージ(福音)を拒むからであり、すなわち、神の愛を拒むからなのだ。贖いはなされている。人がその償いをする必要はない。あとは信じて受け入れるだけ。未信者とは、ただそれを知らない人たちなのだ。今後、人間的な標準で人を見てはいけない。イスラエルの民がバビロンに捕囚となった時でさえ、偶像の国バビロニアを呪えとは言っていない。むしろ、「その町の平安を求め、その町のために主に祈れ。」(エレミヤ29:7)と言われた。

 

呪ってはいけない。裁いてはいけない。平安を祈り、祝福すべき。

 

さらにシルボソはルカ10:5−9から、イエスが弟子を宣教に遣わした場面から学ぶべきことをリストしている。

 

1.祝福する:平安を祈る  呪ってはいけない。さばいてはいけない。

2.交わる:食事を共にする  関係を深める  信頼を築く

3.ミニストリーをする:必要を知り、必要を満たす。病人を癒すなど。

4.宣言する:神の国(福音)を宣べ伝える。

 

職場の平安を祈ることから始めよう。

 

神様に感謝しましょう。見るに堪えない罪があなたの周囲で目について、その汚臭に耐えられなくても、諦めないで甘い香りをした神の恵をそこに持ち運ぶのです。前向き、かつ肯定的な心の姿勢を保つのです。私たちは不完全な世に生きていて、尚且つサタンの支配下にあるマーケットプレイス(実生活の現場)で働いています。ですからこの世界のどこに行っても、またあなたの特定のお仕事の上でも、いずれにしても、がっかりしたり、怒りを覚えたりする理由はいくらでも見つけることができます。しかし、この不満や憤りは、悪魔がクリスチャンに悪影響を及ぼしていく際の足場(入り口)となります。つぶやいたり、怒っているクリスチャンは、もはやサタンにとって何の脅威でもありません。不満と憤りは悪魔に機会を与え(エペソ4:26−27)クリスチャンの影響力を無にしていきます。神の恵みは罪から来るさまざまな悪に対する治療薬(解決策)ですが、不満と憤りがその神の恵みから逆走していくような行為なのです。p158

 

あなたは変革者

変革(トランスフォーメーション)をスタートさせるには、まずあなたが所属するシステム(組織)を受け入れなければなりません。そして、たいていの場合、最初、そのシステム(組織)は極めて不完全なのです。あなたをその場所に置くことによって、その場を変えてゆくことを神は計画されているからです。あなたは変革者なのです!(159)

 

神の国(神の支配)は、そのようにして実社会の中に広がっていく。悪魔が支配していた場所を神の支配で占領してゆく人々が必要なのだ。単なる我慢ではなく、勝利が約束されているものとして、(第一ヨハネ5:5)信じて、霊的戦いをしてゆく人々だ。

 

マーケットプレイス・ミニスターという存在

そして、それをサポートしてゆくマーケットプレイスミニスターが必要なのだ。特に日本のように会社にクリスチャン一人という状況の中で、霊的に寄り添って支えてゆく存在が必要なのだ。シルボソは職業人一人一人がマーケットプレイスミニスター(変革者)なのだと言うが、すぐには厳しい気もする。その前にそういう人々を育成してゆく存在が必要だ。日本では主の働き人がもっと教会の4つの壁の外に出て、実社会の真ん中で、職場の近くで信者と会い、励まし、祈る必要があるのではないだろうか。まさに、それこそTMCが願い、やってきたことだ。集会を主催して、そこに招き入れるのではなく、彼らのところに出て行って、彼らの現場で会う。職場近くにエクレシアを形成する。

 

そのために、今までの型を破る「働き人」のかたちが必要なのではないだろうか。牧師でもない、宣教師でもない、そう「マーケットプレイス・ミニスター」。

 

 

「エクレシア」エド・シルボソ著 ライフパブリケーション

「「変革の鍵〜油注がれたビジネス」 エド・シルボソ著 プレイズ出版

 

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Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

 

2024年6月13日木曜日

エクレシアは非宗教的用語


今回は、エド・シルボソ著「エクレシア 上・下」から引用しつつ刺激的な考えを分かち合います。

 

エクレシアは非宗教的用語

イエスは、当時のユダヤの宗教機関であった施設を指して「私は神殿を建てる」とか、「私はシナゴーグ」(会堂)を建てるとは言いませんでした。かえって、ギリシア人が構築した世俗的な公共機関を指して「私は私のエクレシアを建てる」と言いました。なぜでしょうか。その答えは驚愕的であり、私たちにチャレンジと権威を与えるものです。P13

 

あの有名な大宣教命令も「会堂を建てよ」との命令ではなく、弟子作りの命令です。単に宗教を続けたいのなら、「神殿を建てる」「シナゴーグ(会堂)」を建てる」で良かったのです。

しかし、イエスの意図はそれらを超越したものでした。

 

エクレシアは日本語では「教会」と訳され、教会は宗教的な響きを持っている訳です。しかし、エクレシアは元々、宗教的意味合いを全く持たない言葉でした。当時のギリシア・ローマ文化の中で、エクレシアは政治的機能を持つマーケットプレイスでの社会機関を指す言葉だったのです。なので、イエスがエクレシアという言葉を使った時に、現在の宗教的な意味での「教会」をイメージした弟子は一人もいなかった訳です。しかも、イエスはこのエクレシアという言葉を3度しか使っていません。「イエスは、すでに存在している世俗的な概念をとって、御国のDNAと受胎させたかったのです。」(P20

 

エクレシアの起源

イエス誕生から地上での生涯を終えるまで、イスラエルには3つの主要な機関がありました。神殿、会堂、それからエクレシアです。これらの3つはよく宗教機関だと考えられますが、実際には神殿と会堂だけがそのカテゴリーに入ります。エクレシアはもともと、ギリシア民主政で都市国家を収めるための市民の集合体でしたから、宗教とは何の関係もありませんでした。P20

 

実際、パウロの同行者だったガイオとアリスタリコがエペソの劇場に引き込まれた記述で「集会」「集まり」(使徒19:32、39)と出てくる言葉は、新約聖書の他の箇所では「教会」と訳されています。エクレシアは「会衆」「裁判所」を指していることもありました。

 

エクレシアの目的と方向性

イエスのエクレシアと、神殿やシナゴーグの違いは、構造、場所、可動性にあります。神殿とシナゴーグは、信徒たちいが建物が決められたロケーションで機能する、固定された機関です。一方でエクレシアは、建物がない、モバイルナプル・ムーブメントで、すべての人々とすべての事柄にインパクトを与えるために、絶え間なくマーケットプレイスで動くように設計されています。(P.22)

 

イエスの目的は、宗教機関を倍増させることではなく、エクレシアを通してキリストの弟子たちが聖書的価値観を社会の隅々にまで浸透させ、都市や国までもキリスト化(弟子化)することだったのです。

 

この方向性は重要です。キリストの狙いは信者を獲得し、集め、囲い、この世から分離させることではなく、弟子たちを世俗社会のど真ん中において、会社、病院、役所などを神のエクレシアにすることだったのです。別の言い方をすれば、社会のトランスフォーメーション(変革)です。ペンテコステ以来、エクレシアが爆発的に広がっていったのは、権力や組織力(今で言えば大教団の資金力と権威)ではなく、ピープルムーブメントとして日常の中で、食卓が説教壇となり、ミニストリーは日常の路上で行われていったからです。人から人、口から口で、エルサレム中に教えが広まっていったのです。(使徒5:28)

 

私たちのTokyo Metro Community(TMC)も「教会」という宗教用語を最初から避けました。

として、「東京のど真ん中に神のご臨在を!」というコンセプトで、当初は意図的に週日の職場の近くで集まっていたのです。例えば、その一つが丸の内エクレシアです。職場エリアに、いや、「あなたの会社に神はご臨在されている」と認識して頂きたかったのです。

 

社会の只中にあるエクレシア

シルボソは未来に向かって「教会をする」から「エクレシアになる」を提言しています。ただ新しいビジョンを提唱し立ち上がる人は5%、それに同意し追従する人は15%、後の80%は事が起こってから、それを見てからジョインする人々だという事です。最初は理解されないものです。イエスご自身、伝統的なユダヤ教の教師からは理解されませんでした。ペンテコステ以来、エクレシアは社会の革新的なムーブメントとして広がっていきました。しかし、やがて国教化されると共に、形式化し、権力化し、また1つの「伝統」となってしまったのです。ルターたちはこれを「宗教改革」したのです。しかし、今日、プロテスタントもプロテスト(反抗)するより、「伝統」になってしまいました。今こそ教会のビジネスモデルの変化、「教会」が「エクレシア」となるべき時なのです。現状を打破するには、「今まで通り」ではなく「他に何をすべきか」なのです。シルボソは、「週一の教会」から「年中無休のエクレシア」への意識変革を提唱します。もともと主は356日の主なのです。エクレシア活動を日曜の朝2時間に閉じ込めてしまってはいけません。

 

教会が、一般社会ですでに定着している場所から彼らを追い出すようなサブカルチャーを表しているからです。教会員になるための条件も時には問題です。機能的にはシナゴーグのそれと似ているからです。新メンバークラス、什一献金、セルグループ、マーケットプレイスですでに担っている役割とかぶってしまう教会のイベントへの参加などです。さらに悪いことに、「成熟するまで(クリスチャン言語を覚えるまで)」彼らを会衆席に座らせておくことで、優秀なリーダーたちを無駄遣いし、端っこに追いやっています。パウロは彼らをマーケットプレイスで導き、彼らの信仰の家をどう導くかを教え、マーケットプレイスにあるエクレシアとしました。彼はマーケットプレイスにすでに存在するリーダー達を活用し、彼らが生活し、働いているその場所でエクレシアを確立していきました。そして、それぞれが影響を及ぼすことのできる社会背景に合わせて真理と福音の力を語るのに任せたのでした。

(エクレシア下 P.138

 

イエスや使徒たちの活動の大部分は週日、マーケットプレイス(日常の現場)で起こりました。さらに大宣教命令が「国ごと」の弟子化を語っていることから、教会内の「信者を牧会する」から「街の羊飼いになる」を提唱します。ジョン・ウエスレーは「世界は我が教区」と言ったとか。そうキリストは「全世界へ出て行って」と地球規模の視野での宣教を語っておられます。それは宗教施設を増やすことではなく、世界のトランスフォーメーション(つまり御国が拡大すること=御心が地で行われるエリアが拡大すること)なのです。そのために聖霊に満たされ、神と「協働する」ことを呼びかけていると言うのです。

 

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お勧め本

「エクレシア」上下 エド・シルボソ著 ライフパブリケーション

 

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執筆者:栗原一芳

 

2024年6月6日木曜日

日本の伝道はこれだ!

 

インドで起こる御業

最近、日本人牧師宣教チームが9日間に渡りインドに行ってミニストリーをしてきた。彼らの報告によると、9日間の統計は・・・

 

福音提示:419

信仰告白:316

受洗者 :201

リーダー:23

教会誕生:22教会

 

ある日、家庭で行われた求道者会で、27人中、伝道メッセージに応答して22名が決心、12名がその場で洗礼を受け、2つの教会が誕生した。1日でこんな事が起こっている。日本の現状を見た時に、同じ聖霊、同じ福音なのに、なぜ?と問いたくなる。

 

帰国後、参加者からこのような感想を聞いた。「違いは霊的土壌です。福音を受け入れる心の土壌が準備されているのです。だから誰が福音を語っても救われるのです。」こういう霊的渇きがすでにあり、求めがある状況では、あとは、福音をストレートに語ることだけなのだ。それだけでいい。それが効果的なのだ。

 

インドでそうだから、日本でも同じように・・・という訳にはいかない。外国での成功例を聞かされる度に複雑な気持ちになっていた。日本では福音を宣言する事(種まき)と、存在を持って証する伝道と両方必要なのだ。

 

やっぱり関係作り?

日本ではいまだに爆発的なクリスチャンの増加は見ていない。それどころか教会の「衰退」が言われている。大多数が福音に無関心だし、いきなり個人伝道しようとしても拒否されることが多いだろう。そこで、「関係作り」「信頼作り」という事が言われる。

 

宣教師たちは相変わらず「英会話」を用いて、あるいは「国際的な雰囲気」を用いて、人を誘い、集め、関係を築き、信頼を得てから福音を伝えている。宣教師が、公共の施設を借りて英会話をやる場合には「宗教の話はしません」とわざわざ言い訳しなければならないケースもある。それでも、なんとか人間関係を作ろうと涙ぐましい努力をしている。時間のかかる作業だ。地道だが、それしかないとも思われる。

 

職場や地元コミュニティでは「信頼」を得ることが大事になってくる。自分が救われて間もなく、通っていた教会で、岸義紘著「日本の信徒伝道はこれだ!」を使って勉強会をやっていた。その本にあった「存在で始まり」「関係で進み」「教会で実を結ぶ」が、今でも記憶に残っている。やっぱりこれしかないのかなとも思う。特に郊外の住宅地でゼロからチャーチプランティングをするなら、これなのだろう。

 

⚫️ 「存在」で始まり:あなたが職場に学校にクリスチャンとして存在することが伝道。

あなたがそこにいて、祈っていることで、すでに霊の流れが変えられている!

 

⚫️ 「関係」で進み:ノンクリスチャンと友達になり時間を過ごすことは立派な伝道。誕生

日にカードを送ったり、祝ってあげることは大事な伝道。家に食事に招いて、話を聞い

てあげることは「聞く伝道」

 

⚫️ 「エクレシアで実を結ぶ」:伝道はチームワーク。色々な人の証を聞くことはインパクト

がある。そして、人はコミュニティの中に救われる。(ヨハネ1:1−3)救われるこ

とは家族体験でもある。

 

それでも種まきは必要

自分は高校生の時、地元の駅で配っていたHi-BAキャンプのパンフレットを手にしたことがきっかけで、キャンプに行き、福音を聞き、クリスチャンになった。なので、きっかけ作りになって欲しいとの願いから、今でも路上で福音トラクトを配布している。先日、山手線全30駅でのトラクト配布を完了した。これはこれで続けなければならない事だと思っている。これをCoverage (福音浸透、福音の種まき)と呼ぶこともある。イエスは1つ所に留まっていなかった。ニーズがあっても他の町村へ行ってしまったイエスの行動は興味深い。それは広範囲に福音を伝えるためだった。

 

彼を見つけ、「皆があなたを捜しています」と言った。イエスは彼ら言われた。「さあ、近くにある、別の村や町へ行こう。わたしはそこでも福音を伝えよう。そのために、わたしは出てきたのだから。こうしてイエスは、ガリラヤ全域にわたって、彼らの会堂で宣べ伝え、悪霊を追い出しておられた。(マルコ1:37−39)

 

自分は日本という地で、宣教団体スタッフとして過去40年間、宣教に携わってきた。アウトリーチで見ず知らずの人に個人伝道して10人に一人はイエス・キリストを信じる人が起こされることを見てきた。福音に応答する人がいない訳ではない。しかし、インドのようには、いかない。信じても、フォローアップで落ちていってしまうことも多い。それでも今でも路傍伝道に携わっている。種まきは必要だからだ。また稀に関心ある人がいて、路上で個人伝道できる場合もある。人通りの多い、駅前では、それなりにインパクトがあるのでは?と思わされている。

 

・・・では、どうしたら?

⚫️ 土壌の話に戻ろう。日本人の心が耕されるために、また日本を覆う霊的雰囲気が変えら

れるために、「祈り」(霊的戦いの祈りを含め)が必要だろう。神は風向きを変えること

ができる。これを「祈りの伝道」ともいう。

 

⚫️ S N S、メディア、路上、あらゆる手段で「福音の種まき」は継続されなければならない。

今後、人口が増えていく東京湾岸のタワーマンションは、従来の方法ではアウトリーチ

できない。インターネットの活用はマストだろう。

 

⚫️ 「存在で始まり」、「関係で進み」、「エクレシアで実を結ぶ」イベントに頼るより、一人

一人の信者はこのような意識で生活する。シンプルに神と人を愛して生きる。

 

⚫️ エクレシアが「良きわざ宣証共同体」として機能し、社会にインパクトを与える。

 

具体的には「子ども食堂」「被災地支援」「ホームレスミニストリー」など。やはり、地元から「浮いた」存在、「孤立した」存在では地元にインパクトを与えることはできない。地元からも喜ばれ、必要とされる存在となれれば理想だろう。初期のエクレシアは「民全体から好意を持たれていた」(使徒2:47)。福祉の発達していない時代に、福祉事業を担ったのはエクレシアだったからだ。(ガラテヤ2:10)

 

⚫️ 教会自体のビジネスモデルの変革。会堂中心・宗教儀式を中心とした「宗教」ではない、

キリスト中心の「コミュニティ」としてのエクレシア。いつでも、どこでも、誰でもが始

められる、人で繋がる「モバイル エクレシア」の方向性。宗教は敬遠されても、「命あ

る楽しいコミュニティ」は、高齢者、若者を問わず常に魅力的なのだ。特に都心では、

場所にこだわらない「人でつながる」エクレシア形成が鍵となるだろう。

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

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執筆者:栗原一芳