2024年6月13日木曜日

エクレシアは非宗教的用語


今回は、エド・シルボソ著「エクレシア 上・下」から引用しつつ刺激的な考えを分かち合います。

 

エクレシアは非宗教的用語

イエスは、当時のユダヤの宗教機関であった施設を指して「私は神殿を建てる」とか、「私はシナゴーグ」(会堂)を建てるとは言いませんでした。かえって、ギリシア人が構築した世俗的な公共機関を指して「私は私のエクレシアを建てる」と言いました。なぜでしょうか。その答えは驚愕的であり、私たちにチャレンジと権威を与えるものです。P13

 

あの有名な大宣教命令も「会堂を建てよ」との命令ではなく、弟子作りの命令です。単に宗教を続けたいのなら、「神殿を建てる」「シナゴーグ(会堂)」を建てる」で良かったのです。

しかし、イエスの意図はそれらを超越したものでした。

 

エクレシアは日本語では「教会」と訳され、教会は宗教的な響きを持っている訳です。しかし、エクレシアは元々、宗教的意味合いを全く持たない言葉でした。当時のギリシア・ローマ文化の中で、エクレシアは政治的機能を持つマーケットプレイスでの社会機関を指す言葉だったのです。なので、イエスがエクレシアという言葉を使った時に、現在の宗教的な意味での「教会」をイメージした弟子は一人もいなかった訳です。しかも、イエスはこのエクレシアという言葉を3度しか使っていません。「イエスは、すでに存在している世俗的な概念をとって、御国のDNAと受胎させたかったのです。」(P20

 

エクレシアの起源

イエス誕生から地上での生涯を終えるまで、イスラエルには3つの主要な機関がありました。神殿、会堂、それからエクレシアです。これらの3つはよく宗教機関だと考えられますが、実際には神殿と会堂だけがそのカテゴリーに入ります。エクレシアはもともと、ギリシア民主政で都市国家を収めるための市民の集合体でしたから、宗教とは何の関係もありませんでした。P20

 

実際、パウロの同行者だったガイオとアリスタリコがエペソの劇場に引き込まれた記述で「集会」「集まり」(使徒19:32、39)と出てくる言葉は、新約聖書の他の箇所では「教会」と訳されています。エクレシアは「会衆」「裁判所」を指していることもありました。

 

エクレシアの目的と方向性

イエスのエクレシアと、神殿やシナゴーグの違いは、構造、場所、可動性にあります。神殿とシナゴーグは、信徒たちいが建物が決められたロケーションで機能する、固定された機関です。一方でエクレシアは、建物がない、モバイルナプル・ムーブメントで、すべての人々とすべての事柄にインパクトを与えるために、絶え間なくマーケットプレイスで動くように設計されています。(P.22)

 

イエスの目的は、宗教機関を倍増させることではなく、エクレシアを通してキリストの弟子たちが聖書的価値観を社会の隅々にまで浸透させ、都市や国までもキリスト化(弟子化)することだったのです。

 

この方向性は重要です。キリストの狙いは信者を獲得し、集め、囲い、この世から分離させることではなく、弟子たちを世俗社会のど真ん中において、会社、病院、役所などを神のエクレシアにすることだったのです。別の言い方をすれば、社会のトランスフォーメーション(変革)です。ペンテコステ以来、エクレシアが爆発的に広がっていったのは、権力や組織力(今で言えば大教団の資金力と権威)ではなく、ピープルムーブメントとして日常の中で、食卓が説教壇となり、ミニストリーは日常の路上で行われていったからです。人から人、口から口で、エルサレム中に教えが広まっていったのです。(使徒5:28)

 

私たちのTokyo Metro Community(TMC)も「教会」という宗教用語を最初から避けました。

として、「東京のど真ん中に神のご臨在を!」というコンセプトで、当初は意図的に週日の職場の近くで集まっていたのです。例えば、その一つが丸の内エクレシアです。職場エリアに、いや、「あなたの会社に神はご臨在されている」と認識して頂きたかったのです。

 

社会の只中にあるエクレシア

シルボソは未来に向かって「教会をする」から「エクレシアになる」を提言しています。ただ新しいビジョンを提唱し立ち上がる人は5%、それに同意し追従する人は15%、後の80%は事が起こってから、それを見てからジョインする人々だという事です。最初は理解されないものです。イエスご自身、伝統的なユダヤ教の教師からは理解されませんでした。ペンテコステ以来、エクレシアは社会の革新的なムーブメントとして広がっていきました。しかし、やがて国教化されると共に、形式化し、権力化し、また1つの「伝統」となってしまったのです。ルターたちはこれを「宗教改革」したのです。しかし、今日、プロテスタントもプロテスト(反抗)するより、「伝統」になってしまいました。今こそ教会のビジネスモデルの変化、「教会」が「エクレシア」となるべき時なのです。現状を打破するには、「今まで通り」ではなく「他に何をすべきか」なのです。シルボソは、「週一の教会」から「年中無休のエクレシア」への意識変革を提唱します。もともと主は356日の主なのです。エクレシア活動を日曜の朝2時間に閉じ込めてしまってはいけません。

 

教会が、一般社会ですでに定着している場所から彼らを追い出すようなサブカルチャーを表しているからです。教会員になるための条件も時には問題です。機能的にはシナゴーグのそれと似ているからです。新メンバークラス、什一献金、セルグループ、マーケットプレイスですでに担っている役割とかぶってしまう教会のイベントへの参加などです。さらに悪いことに、「成熟するまで(クリスチャン言語を覚えるまで)」彼らを会衆席に座らせておくことで、優秀なリーダーたちを無駄遣いし、端っこに追いやっています。パウロは彼らをマーケットプレイスで導き、彼らの信仰の家をどう導くかを教え、マーケットプレイスにあるエクレシアとしました。彼はマーケットプレイスにすでに存在するリーダー達を活用し、彼らが生活し、働いているその場所でエクレシアを確立していきました。そして、それぞれが影響を及ぼすことのできる社会背景に合わせて真理と福音の力を語るのに任せたのでした。

(エクレシア下 P.138

 

イエスや使徒たちの活動の大部分は週日、マーケットプレイス(日常の現場)で起こりました。さらに大宣教命令が「国ごと」の弟子化を語っていることから、教会内の「信者を牧会する」から「街の羊飼いになる」を提唱します。ジョン・ウエスレーは「世界は我が教区」と言ったとか。そうキリストは「全世界へ出て行って」と地球規模の視野での宣教を語っておられます。それは宗教施設を増やすことではなく、世界のトランスフォーメーション(つまり御国が拡大すること=御心が地で行われるエリアが拡大すること)なのです。そのために聖霊に満たされ、神と「協働する」ことを呼びかけていると言うのです。

 

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お勧め本

「エクレシア」上下 エド・シルボソ著 ライフパブリケーション

 

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意味ある人間関係と祈りによって深まり広がるキリスト中心のコミュニティ

東京メトロ・コミュニティ

Tokyo Metro Community (TMC)

執筆者:栗原一芳

 

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