2020年4月9日木曜日

この時代、神は何をなさっているのか?


 神は全世界の教会に変革を願っているのだろうか?

「イースター礼拝には教会は空っぽ、お墓も空っぽ。」とあるフェイスブック投稿があった。「お墓が空っぽ」はグッドニュースだが、「教会堂が空っぽ」はどうなのだろうか。今回のコロナウイルス問題ではメガチャーチほど被害を被っているのでは・・しかし、そもそも教会は人を集めることが目的なんだろうか?毎週、大人数を集めて礼拝をする必要があるのだろうか?



この状況下、多くの教会がインターネット礼拝に切り替えている。しかし、高齢者の多い教会では礼拝自体を休止しているところもある。「教会=日曜礼拝」という図式であれば、今回の問題で多くの「教会」が無くなっているということになる。

コロナウイルスが全世界的に広がる中、教会とはそもそも何なんだろう?クリスチャンとして歩むとは何なんだろうと考えさせられている。今回の試練は何なのだろうか? 思い巡らしてみて下さい。

           神は全世界の教会に変革を願っているのだろうか?


メガチャーチからマイクロチャーチへ
メガチャーチの本拠地であるアメリカでもここ数年、マイクロチャーチへの関心が深まってきていた。つまり本来の教会への復帰運動である。エクレシア=「神が召した人の集まり、キリスト中心のコミュニティ」という考えである。組織的、制度的教会に対してオーガニックチャーチと呼ぶこともある。1世紀の教会は家々で集まっていた。ということは1つの家の教会に数名から多くて15人だろう。


エクレシアは無くならない
私達TMCエクレシアでは、顔と顔とを合わせる至近距離での「キリスト中心のコミュニティ作り」を目指してきた。カフェやレストランで数名が集い、近況を分かち合い、人生を分かち合い、分かち合い方式のバイブルスタディ、そして祈祷課題を聞いてお互いのために祈る。シンプルかつ「深み」に行く交わりを求めてきた。今は外出自粛要請で現場で会うことができない。そこでメッセンジャービデオ通話やzoomを使って行うことにした。いつものメンバーがいつものことをやっている。コミュニケーションのツールは変われど、「教会=エクレシア」のあり方が根本的に変わることはない。通常営業だ。今更、思うがこれって凄い事ではないだろうか。エクレシアは無くならない!



そう、キリスト中心の人の集まりなので、場所さえ特定する必要もない。先日の休日に普段、青山で集っているメンバーが日比谷のカフェで集まり、近況の分かち合い、バイブルスタディ、祈り合い。ランチを共にしてから、いい天気だったので、皇居の周りを散策した。「エクレシア」はそこにある!


メガチャーチより弟子作り
人が多く集まるようになれば、組織化する。組織となれば管理が必要になる。お金も必要になる。だから、1000人教会を作るより、10人が集う教会を100作った方が良くはないか?カリスマ牧師に従う1000人より、10人の牧会的リーダーがいた方がいい。時間とお金を組織運営に使うより、弟子を育てることに使った方がいい。



考えてみれば、イエスはメガチャーチを作らなかった。五千人の給食の後、人々はイエスを王にしようと無理やり連れて行こうとした。(ヨハネ6:15)そのままパンの奇跡を継続していれば5000人のメガチャーチはすぐできただろう。しかし、イエスはパンの奇跡に頼らなかった。石をパンに変える物質的祝福に頼るのではなく、神の口から出る一つ、一つのことばによって生きる弟子を育てることを選んだのだ。

アンテオケ教会はパウロやバルナバという逸材を抱えないで宣教のため送り出した。パウロはメガチャーチを作らなかった。エペソのツラノの会堂で2年間(パウロにしては長期)主の言葉を伝えた。エペソはアジア宣教のセンターとなった。(使徒19:9−10)しかし、パウロは、そこにとどまらずマケドニアに向けて出発している。のちにエペソ教会は弟子のテモテに任せている。自分がメガチャーチのヒーローになるよりHero makerとしてテモテというヒーローを育てたのだ。


イエスもパウロも弟子を育てた
イエスの弟子は12人。彼らが世界宣教に出て行った。コアの弟子はペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人。イエスの神性が現れた変貌山にはこの三人だけを連れて行っている。弟子を育てる環境は少人数のコミュニティ。パウロの弟子の代表格はテモテとテトス。テモテはエペソの教会に、テトスはクレテ島の教会の伝道、牧会に遣わされた。たくさんの人に福音を伝えた。しかし、「わが子よ」と呼びかけられる弟子は数名だったろう。それでいい。一生の間に直接、関われる弟子はそんなに多くない。多い筈がない。1000人教会の1000人の信徒に同じく関わることは不可能だ。


主に聞いてみよう。主はあなたに誰に関われと言われているだろうか?


イエスもパウロも「神の国」の福音を宣べ伝えた
結局は大宣教命令。そしてそれは、伝道と弟子訓練。ゲームのルールを変える時だ。何人プログラムに集まっているかではなく、何人の弟子が育っているか。

ところで、私が観察するに3種類のクリスチャンがいる。1から3へレベルアップし献身度が深まる。

1.      クリスマス・クリスチャン:自分のための救い主がお生まれになった。
自分の人生をベターにするためのキリスト教。「あなたは愛されてます!」的なメッセージで信仰に入る。自分のための救い主ではあるが、救い主のための自分ではない。入り口はそこでもいいが、そこに止まっていてはならない。

2. イースター・クリスチャン:十字架だけではなく、復活信仰に立つ。
聖霊に満たされ、積極的に奉仕をしている。でも救いはまだ個人的出来事。福音理解が部分的。「死んだら天国」の確信はあっても、神の贖いのドラマの全体像を見ていない。

3.      黙示録クリスチャン神の贖いのドラマの全体像:創世記から黙示録から被造物全体の救いを見ている。今がどんな時か、これからどうなるのかを理解している。個人的終末、世界の終末の聖書的知識。何より主の再臨を待ち望んでいる。千年王国、新天新地を待ち望んでいる。これは、パウロが賞賛したテサロニケの教会に見られる。(Iテサロニケ1:7、9−10)

イエスもパウロも「神の国」の福音を宣べ伝えた。聖書のテーマは神がもたらす「神の国」。具体的には地上に実現する「千年王国」、そして最終的な新天新地。この視野に立って「今を生きる」弟子を育てる必要がある。ある意味、この「トンデモ話」を真剣に信じているなら「本物」と言える。「携挙」「キリストの地上再臨」「千年王国」などはノンクリスチャンから見れば「トンデモ話」でしかないだろう。しかし、そもそもキリスト教は「キリストの復活」というトンデモ話に基づいている。復活がなければクリスチャンの信仰の中身は無いのだ。(Iコリント15:13—19)だからキリストの復活が本当なら、聖書のすべてのトンデモ話は本当になる。単なるヒューマニズムは吹き飛んでしまう。リベラル神学は役に立たない。クリスマス・クリスチャンは迫害があると屈してしまうかもしれない。クリスチャンとしてこの時代を生き抜くには歴史の支配者をしっかり認識した「黙示録クリスチャン」の視野と信仰が必要なのである。時(カイロス=決定的な瞬間=携挙)が近づいているのである。(黙示1:3)



自分の心に聞いてください。私はキリストの来臨と「神の国」の到来を待ち望んでいるだろうか?

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2020年3月19日木曜日

ユダヤの祭りとキリスト


 旧約聖書には色々な「祭り」が出てきます。ユダヤ人は世界に離散した後もこうした例祭を守ることで民族としてのアイデンティティを保ってきました。そのようにして今日まで聖書に記された主の例祭が伝えられてきたのです。これらは単なる「お祭り」ではありません。新約聖書(メシア成就編)が旧約聖書(メシア預言編)を土台に書かれていることからすれば当然なのですが、これらの「祭り」はキリストに関する大切な歴史的イベントの予表となっているのです。

「こういうわけですから、食べ物と飲み物について、あるいは、祭りや新月や安息日のことについて、誰にもあなたがたを批評させてはなりません。これらは、次に来るものの影であって、本体はキリストにあるのです。」(コロサイ2:16−17)


主な例祭はレビ記23章に出てきます。

1.  過越の祭り(ペサハ)
イスラエルの民がエジプトから脱出したことを記念する祭り。エジプトに最後の災いが下される時、イスラエルの民は子羊の血を門柱と鴨居につけた。それを見て主なる神が通り越し、災いはイスラエルの民を打たなかった。(出エジプト12:13)7日間、「種無しパンの祝い」(出エジプト12:15、ルカ22:1)として祝われる。

パン種は通常、聖書では「罪」を表すので、「種無しパン」は「罪のない子羊イエス」が十字架で私たちの罪を負って死に血を流したことを予表していることになる。


      
   主イエスは子羊がほふられる「過越の晩餐」を弟子達と過ごし、翌朝、      
   (過越の祭の間)午前9時に十字架につけられ私達の罪を負って死なれ
   た。同じ時間に神殿では過越の小羊が屠られていた。


2.  初穂の祭り
レビ23:10〜14 収穫の初穂の束を祭祀のところに持ってくる。
祭司はそれを揺り動かし、主への捧げ物とする。Iコリント15:20「今やキリストは眠ったものの初穂として死者の中からよみがえられました。」

これはキリストの「復活」を表している。


3.      7週の祭り=五旬節
(シャブオット=ペンテコステ<ギリシア語>)
過ぎ越しの祭りから数えて50日後の祭り。これはモーセがシナイ山で十戒を授かった出来事を記念する祭り。主は外側からの律法では人は救われないので、聖霊を内に住まわせ、神の定めを守り行わせようとした。(エゼキエル36:27)ペンテコステの日に聖霊が下って教会が誕生した。

「聖霊降臨」のペンテコステの出来事。


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ここまではすでに起こっているのです。ペンテコステから秋の「ラッパの祭り」までの夏の間のインターバルが「今の時代」と解釈することもできます。そうすると使徒1章6節、弟子の一人が訪ねた「イスラエルの再興はいつなのか?」という質問もあながち的外れではないのです。イスラエルの再興(メシア王国成就)はこの後、説明する「仮庵の祭り」が予表していることだからです。つまり順番としては、ペンテコステの次の大祭は「仮庵の祭り」すなわち、約束の地である「メシア王国」だからです。
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4.  ラッパの祭り(ロシュ・ハシャナー)
夏の終わりが、ユダヤの新年。新年はヘブル語でロシュ・ハシャナー。聖書では「ラッパの祭り」と呼ばれ、ユダヤ式のラッパ(ショファーと呼ばれる角笛)を100回吹きならす。10日間、畏敬の念を抱いて過ごす。このラッパを「神のラッパの響のうちに、ご自身天から下って来られます。」(Iテサロニケ4:16)だとすると、

「携挙」の予表ということになる。


ただし、携挙のラッパは黙示録の第7のラッパと解釈する立場もある。(黙示11:15)


5.大贖罪日(ヨム・キプール)
  ラッパの祭りの10日間のクライマックスが大贖罪日で、深い悔い改めの
  時。今日でもこの日、断食する人が多い。祈りと礼拝の日。これは将来の
    イスラエル民族の悔い改めと霊的大覚醒の時、

  すなわち「大患難時代」の予表と考えることができる。


5.  仮庵の祭り(スコット)
  断食から数日後には壮大な「仮庵の祭り」が行われる。これはイスラエル
  民族がエジプトを脱出し、約束の地への途中、荒野で天幕生活したことに
  機縁する。実際に「スカー」と呼ばれる仮小屋を作って体験的に祭りを祝
  う。スコットは今日では最大のパーティで町中が飾られ、コンサートなど
  も開催される。


  


  これはやがてくる約束の地、地上に成就する「メシア王国=千年王国」の
  祝福を予表している。


これに関して、ゼカリヤ書の最後の方に興味深い記事がある。14:16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。」とある。「生き残ったもの」とは黙示録19:19にあるハルマゲドンの戦いの生き残り(軍勢は滅ぼされるので、軍勢を送り出した諸国の国民と思われる。)の事であろう。エルサレムに攻めて来た全ての民が仮庵の祭りを祝いにエルサレムに上ってくるとは大変興味深い。つまり、これは異邦の民であり、エルサレムの敵であった国々の民が祭りを祝いに上ってくるという事で、こんな事は未だかつて起こったことがない。

ハルマゲドンでの主の圧倒的な勝利を見て(黙示19:20−21)地上の諸国民はある意味、強制的に王なるイエスに従わざるを得なくなるのだろう。主は「鉄の杖で彼らを牧される。(黙示19:15」とあり、千年王国ではキリストに絶対主権が与えられている。今は「信じるか信じないか」という信仰の問題だが、千年王国では目に見える形で主イエスが王として世界統治をなさっているので、「従うか、従わないか」の問題となる。逆らえば罰せられ、悪がはびこることはない。

事実、ゼカリヤ14:17−19 「地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下るこれが、エジプトへの刑罰となり、仮庵の祭りを祝いに上って来ないすべての国々への刑罰となる。」とある通りだ。ここでは対象はユダヤ人ではなく、「諸国の民」となっている。言い換えれば、これは主イエスが王としてこの地上を統治する「千年王国」で実現する話である。

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付録:大艱難時代から千年王国への流れ

「荒らす忌むべき者」、「獣」、「不法の人」とも言われるサタンの化身である反キリストは3年半活動し聖徒たちを迫害する(黙示13章)。かつてないほどの苦難となる。(マタイ24:21)彼を中心に政治、経済、宗教が統一され管理されてゆくであろう。彼にとってはキリストの再臨を阻止するために、ユダヤ人を絶滅させる必要がある。彼は反キリスト軍勢をハルマゲドン(メギドの丘)から見下ろすイズレエルの平原に集合させる。(黙示16:16)

反キリスト軍勢はまずエルサレムに攻め入り略奪する。(ゼカリヤ12:2−3、14:1−2)反キリストを避け、神を畏れるイスラエル人はボツラに避難してゆく。ボツラ(ギリシア語ではペトラ)がある地域(エドム、モアブ、アモン)は反キリストによる征服を免れる。(ダニエル11:36—45)ここでイスラエルは国家的にイエスをメシアと告白し、主の来臨を願い、マタイ23:39の条件が満たされる。イエスはボツラに再臨し、反キリストの軍勢と戦い、(ゼカリヤ14:1−3、イザヤ34:6、63:1)軍勢を押し戻し、ヨシャパテの谷で彼らを滅亡させ、(ヨエル3:1−15)オリーブ山に立ち勝利を宣言される。(ゼカリヤ14:4)その後、栄光の王として神殿の東門(黄金門)からエルサレム入城され(エゼキエル43:4)、諸国の王として御座に着座される。(黙示1:5、ゼカリヤ2:10−11)

その後、サタンは底知れぬところに千年間閉じ込められ、(黙示20:2)地上ではキリストを王とするメシア王国(千年王国)が成就する。聖徒たちはキリストと共にこの王国を治めることになる。(黙示20:6)諸国の民は仮庵の祭り(この時点では成就した「メシア王国」を祝う祭り)を祝うためエルサレムに上ってくる。祝いに来ないものの上には災害が下る。(ゼカリヤ14:17−18)興味ふかいのは「諸国の民」となっておりイスラエルにいるユダヤ人だけに向けられた宣告ではない。この時点では文字通りイエスが全世界の王となっている。

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2020年1月19日日曜日

初代クリスチャンの信仰


 「主は1つ、信仰は1つ、バプテスマは1つです。」(エペソ4:5)とパウロが言うとき、信仰は1つとは何を意味したのだろうか?

初代のクリスチャンたちは何を信じていたのだろうか?「主は1つ」と言ってもすでにキリストは神と同質なのか、被造物なのかという、激しい論争があり、AD325のニケア会議で以下のごとく決着がついた。

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ニカイア信条
Nicene Creed

(1) 1ニカイア公会議 (325) において採択された信条。エルサレム教会の洗礼式の信条を土台に,アリウス派に対して正統信仰を擁護する目的でつくられ,一部議員の躊躇を押切ってホモウシオス (同一実体のという聖書にはみられない神学用語を挿入して父と子の絶対的同一性を強調。さらにアリウス主義に対する4つのアナテマ (断罪文が付加された。 (2) ニカイア=コンスタンチノポリス信条略称としても用いられる。


我らは、見えるものと見えざるものすべての創造者にして、
すべての主権を持ち給う御父なる、唯一の神を信ず。
我らは、唯一の主イエス・キリストを信ず。
主は、御父より生れたまいし神の独り子にして、御父の本質より生れ、(神からの神[3])、光からの光、
まことの神からのまことの神、造られずして生れ、御父と本質を同一にして、
天地万物は総べて彼によりて創造されたり。
主は、我ら人類の為、また我らの救いの為に下り、しかして肉体を受け人となり、
苦しみを受け、三日目に甦り、天に昇り、生ける者と死ぬる者とを審く為に来り給う。
また我らは聖霊を信ず。
主の存在したまわざりし時あり、生れざりし前には存在したまわず、
また存在し得ぬものより生れ、
神の子は、異なる本質或は異なる実体より成るもの、造られしもの、
変わり得るもの、変え得るもの、と宣べる者らを、
公同なる使徒的教会は、呪うべし。

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それ以前に、もっとシンプルな信仰告白が確立されていた。現在でも多くの教会で「主の祈り」と共に告白されている「使徒信条」である。使徒が書いたわけではないが、2世紀の終わりには諸教会の共通の信仰告白として確立されていた。

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出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア
使徒信条【しとしんじょう】

ラテン語でSymbolum Apostolicumキリスト教最古の信条(信仰告白)たる〈ローマ信条〉(2世紀後半)にもとづいて作られた信条。全12で,十二使徒がその各節を記したという伝説がある。カトリック,プロテスタントがともに用いるほとんど唯一の信条で,文語訳の全文は以下のとおり。


〈我は天地の造り主,全能の父なる神を信ず。我はその独り子,我らの主,
イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり,処女マリヤより生まれ,ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け,十字架につけられ,死にて葬られ,陰府(よみ)にくだり,三日目に死人のうちよりよみがえり,天にのぼり,全能の父なる神の右に坐したまえり。かしこより来りて,生ける者と死ぬる者とを審きたまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会,聖徒の交わり,罪の赦し,身体のよみがえり,永遠の生命を信ず。アーメン〉。


まず、「身体のよみがえりを信じていること。これは単なる「霊魂の永続」とは違う。第一コリント15章でパウロが詳細に述べているので、ここでは省力するが、クリスチャンの信仰のユニークかつ重要な部分だ。我々は復活の体、御霊の体、朽ちない体を頂く。人間はそもそも霊と体によって成り立っている。
霊だけで永続するのではない。

キリストは3日後に「私達の初穂として」(Iコリ15:20)復活され、天に昇り、現在は父なる神の右に座している。しかし、そこに留まるのではなく、「かしこより来たりて」すなわち、天から再び地上に来られる、来臨される。再び来られるので「再臨」とも言っている。この「再臨」思想も新約聖書を読めば疑いようもないほど明白なクリスチャンの信仰内容となっている。事実、黙示録の結論は「アーメン、主イエスよ、来てください!」である。「アーメン、天国へ行かせてください。」ではない。

その次は、「生ける者と死ぬる者とを審きたまわん」つまり、再臨のイエスは審判官として来られる。この表現はIコリント15:51−52、使徒の働き10:42、Iペテロ4:5、IIテモテ4:1と複数回出てくる。この側面を忘れてはならない。現在、地上に生きている全ての人そして、歴史を通してすでに死んだ人、すなわち人類全てをさばく方としてのキリストを告白しているのだ。

ちなみに裁きは父ではなく、御子イエスに任されている。(ヨハネ5:22)。全ての裁きが終り、全ての悪の権威、権力を滅ぼし、全てにカタがついた時、「国を父なる神にお渡しになります。」(Iコリント15:2426)興味深いことに黙示録21、22章の「新天新地」ではキリストは「裁き主」「王」としてではなく「子羊」と表記されている。

大事なことはこの世界はこのままではないということ。今の世を見て人は「神も仏もあるものか!」と言うかもしれない。確かに今はサタンの大活躍の時。悪や暗闇が支配する時。しかし、神は指を加えて現状に甘んじている訳ではない。2000年前に御子イエスを送り、十字架での贖いを完成させ、今は世界宣教の時代。福音が宣べ伝えられ、奥義としての御国=教会が始まっている!(エペソ3章)そして、キリストは、やがてもう一度、地上に来られ全ての悪を滅ぼされる。(黙示19:19−21、20:7−10、20:13−15)

多くの教会は「受難のメシア」「救い主」としてのキリスト・イエスを語っている。それは必要なこと。しかし、今度やって来られるキリストは「裁き主」であり「諸国の王」(黙示1:5)であることを忘れてはならない。



ちなみに「死ねるもの」を裁くとはどういうことだろうか?多くのクリスチャンが「イエスを信じて死ぬものは即天国、信じない者は即地獄、そこに永遠に留まる。」と思っているようだが、聖書的にはもっと複雑だ。「また私は、死んだ人々が大きい者も小さい者も御座の前に立っているのを見た。」(黙示20:12)とあるので、死んだ後、これから最終的な裁きを受けることになる。

イエスを信じた者は「パラダイス」に行く。信じないものは「ハデス」に落とされる。パラダイスはイエスと共にいる「休息」の場であることは間違いないが、永遠の場ではない。中間的な場所なのだ。そして「ハデス」も苦しみの場所ではあるが永遠の苦しみの場(地獄)とは区別される。

「このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出てくる時が来ます。善を行ったものは、よみがえっていのちを受け、悪を行なったものは、よみがえってさばきを受けるのです。」(ヨハネ5:28−29)

「海はその死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:13)これはキリストの最終的裁き「白い御座の裁き」の記述だ。

一時的に「ハデス」にいた罪人は「よみがえって」白い御座の裁きを受ける。そして、その「「ハデス」自体も火の海に投げ込まれて無くなる。(黙示20:14)これで「ハデス」は永遠ではなく一時的な場所であることが分かる。ここで言う「火の池」がいわゆる「地獄」であり、永遠の苦しみの場所であることが分かる。(黙示20:10)

キリスト再臨時に生きている不信者(獣=反キリストに従う者たち)は獣、偽預言者とともに火の池に投げ込まれるとある。(黙示19:19−21)つまり、「死んだもの」も「生きたもの」も審判者なるキリストに裁かれるのである。

一方、信者は天で「キリストの御座のさばき」を受けるが、これは「救いVS滅び」の裁きではない。クリスチャンは罪に定められることが無いからです。(ローマ8:1)これはむしろ地上でクリスチャンとしてどう生きたかが「評価」される時であり、「報酬」の時なのだ。(Iコリ3:9−15)

黙示19:8を見ると「白い衣を着ることが許された。」とあるので、全ての評価が終わり、「よし」とされ花嫁である教会はいよいよ花婿キリストとの婚姻に臨むのです。(黙示19:7)その後、キリストの地上再臨の際、それにお供するのです。(黙示19:14)そして、反キリストが滅ぼされ、サタンが縛られた後、千年間、聖徒たちはキリストと共に王となるのです。いわゆる「千年王国」です。そして、その期間はいわばキリストとの結婚式後の披露宴のような祝福の時です。なにせキリストが地上の王であり、サタンは地上にいないのですから。そして黙示録21章からの新天新地という永遠の秩序に入っていきます。

これで単に死んだ後「天国、地獄」というシンプルなステップではないことが分かります。そして、主の「再臨」「信者の肉体的復活」、地上に成就する「千年王国」(メシア王国)は「聖書の比喩的解釈」をする新神学(オリゲネスに代表されるアレキサンドリア神学)が入ってくるまでは文字通り信じられていたのです。

もう一度、初代クリスチャンが何を信じていたのか確認することは今日大事な作業ではないでしょうか?

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