旧約時代、神殿は天界と地上の世界が出会う場所であった。そこは、
神のご臨在の場所であり、聖なる神が住まわれる、近づきがたい場所
であった。神殿には、普通の祭司が入れる聖所の奥に大祭司だけが年
に1度入る至聖所が設けられていた。そこで、犠牲の動物の血を携えて
至聖所に入って、贖いをした。しかし、時が満ちて完全な犠牲、神の
子羊イエスが十字架で死んで、贖いは完成した。ただ1度で、完全で
永遠の贖いを成し遂げられたのである。
イエス様の十字架と復活により起こった重要なことを見てみよう。
イエスの復活後、至聖所のカーテンが上から下まで裂けた。すなわち
神が我々の世界に降りてこられた。イエスが人となって来られ、我々
の罪のため十字架で死に、贖いを成し遂げ、復活された。至聖所が
オープンになった。カーテンがいらない。イエスを信じる者は大胆
に恵みの御座、神のもとへと行けることとなった。神殿はAD70年に
破壊され、以来再建されていない。その後、再建されていないし、
不思議なことに、神は、それ以降、神殿を再建せよとは命じていない。
十字架と復活の出来事の後、信じる者に聖霊が注がれた。
(ヨハネ7:37-39)信じる者のうちに神が宿ることとなった。
つまり、どういうことか? イエスの御業ゆえに私たち、イエスを
信じる者が神の宮となった。旧約時代に捧げられた無数の動物犠牲を
考えてみてください。もう必要ないのです。完全なる子羊イエスが
捧げられたからです。私たちは罪許されて、神の御前に出て、
楽しめるのです。イエスは私たちに聖霊を注いでくださった。
聖霊は神です。すなわち、私たちのうちに神が宿っているのです。
神の住まうところは本当の神殿です。神の家です。神に出会うため、
神殿に行く必要はありません。事実、「教会に行く」とう表現は
第1世紀には無かったのです。私達が教会だからです。神が私たち
のウチにおられるのです。ヨハネ4:21の成就なのです。イエス様
があのサマリアの女と話したとき、非常に興味深いことを語りました。
「イエスは彼女に言われた、わたしの言うことを信じなさい。あなた
がたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、
そういう時が来ます。。。真の礼拝者たちが霊とまことによって父を
礼拝する時がきます。今がその時です。父はこのような人を礼拝者と
して求めておられるからです。」
神を礼拝するのに特定な場所が無くなることをイエスは言われたのです。
特別に「聖なる」建物は無くなったのです。エペソ2:20-22を読んで
ください。救われた人に聖霊を注ぎ、神の宮とし、神の住まいとする。
そして、救われた個々人を結びつけ、共に成長させ、ユダヤ人、異邦人の枠を
越えた、一人の新しい人、キリストの花嫁、神の生きた生命体としての、新しい
神殿を造り上げている。これが神の目的なのです。
あなたもわたしも、この真の霊的神殿(キリストの生命体としての体)を建て
上げる大事な石の1つなのです。お互いそのように考えましょう。体は魂の
表現です。キリストはご自身の神殿(教会)を通して、ご自身の考え、計画、
愛を表しているのです。あの人のうちにも、この人のうちにも神が宿っている。
神が、その人の人生に働いておられる。
あなたは既に、用いられているのです。神はその大きな目的に従って、あなたを
わたしを神殿建設の石として組み込んでくださっているのです。
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