「神はこの世界を造った。しかし、人が罪を犯し、その影響が
世界にも及んだ。そして、それはダメになったので、神は新しい
天と新しい地を造ることにした。一人でもそこに入れるため、神は
イエスを地上に送った。これを私は人類救出大作戦と呼びます。」
他の牧師は「教会のやってることのほとんどは天国に行っても
あるが、地上でできる唯一のことは伝道なのだ。この教会の
空席を埋めること、それが何よりも優先されなければならない。」
皆さんはどう思いますか。私、自身以前は、このような考えを
していました。どんなに慈善事業しても、どうせこの世は滅ぶ。
救霊に励んだほうが良いと。しかし、この考えでいくと、この
世の出来事、自分の世俗の仕事(宣教の働き以外)は意味の
ないもの、宣教のための舞台装置でしかなくなります。
ダラス・ウィラードは「訓練の御霊」の中で次のように説明して
います:「新約聖書は信仰をそのような単に精神的なものと捉えて
いません。新約聖書が教えている信仰とは、ローマ書10:17
に書かれているように、神のみことばによってインパクトが
与えられ、生きる力となるものです。そして、私たちの肉体、
社会的、政治的な環境をも含むあらゆる分野に決定的な影響を
与えるものです。
神は被造物を放棄することはなく、この世界とそこに住む人々を
贖うように、最初から計画しておられました。神はすべての被造物、
それが堕落において失われたものとなっていても、贖おうとして
くださっています。そして、神の贖いのわざは人間の魂だけでは
ないのです。宇宙全体、地球、全地、海、動物すべてです。また、
芸術や産業、労働、休息ににも及ぶのです。
黙示録でヨハネが新しい天と地を見るところでは、ふたつの
ギリシャ語が用いられています。ウイックリフ注解書によると、
「それはneosとkainosという語で、これは私たちの朽ちたひび
の入った古い世界から湧きあがってくる新しいいのちという
意味です。ですから、この箇所は天と地がここで初めて存在した
と語っているのではなく、それらは新しい性格を持つように
なったと教えているのです。つまりトランスフォーメーションです。
天のエルサレムは天からこの地上に下ってくるのです。」とある。
私達が主の購いのプロセスに参与し、被造物のトランス
フォーメーションにかかわっていると考えれば、すべての善行は
意味のあることになります。それは神のよろこばれることだから
です。正しいことする。なすべきことをする。仕事を通して人々に
仕えることは意味のあることとなるのです。
罪赦されて、天国行きの切符をもらって終わりではないのです。
私達が罪を犯して堕落してしまってはいても、神は人類のこの
地上における統治権を破棄してしまったわけではありません。
むしろ、人々にキリストにある「新しい命」を内在させ、統治を
完成させ、被造物のトランスフォーメーションを推進している
のです。
チェコの神学者、フロマートカの主張は面白い。マルクスの
無神論は教会が貧しい人への奉仕をせず、むしろ、体制側に
ついたことへの結果から出たもので、マルクスは無神論という
仮説を取らざるを得なかった。クリスチャンが教会に逃げ込み、
社会諸問題に対処しなかったので、キリスト教離れが起こった。
クリスチャンの悔い改めは未信者に対してしなければならない。
未信者とともに、これからの社会をよいものに構築してゆかね
ばならないなど大変チャレンジを受ける。
罪ゆえに人間社会は歪んでいます。ゼカリヤ6には神のお心を
痛めているケアすべき4つのグループの人々が述べられています。
同じく東京で在留異国人、やもめ(シングルマザー)、孤児、
貧困者(ホームレスなど)のために善を成す
ことは救霊活動と同様に神のよろこぶミニストリーです。
東京でやることはまだまだ、沢山あります。
なんか勇気が涌いてきますね。
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TMCでは毎月土曜日に赤坂で、定例会を持っています。
東京を変革してゆくために、失われた魂にどのように届いて
ゆけるか、どのようにキリストの体であるクリスチャン
コミュニティを形成していったらいいのかについて話し合う
「場」を持っています。ご関心のある方はメールください。
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