神はいない。そして、人間は死んでいる。消極派は虚無的なニヒリズムとなる。しかし、積極派は、ならば、価値を作り出そうと。実存主義は、ニヒリズムを超越する努力と言える。「存在は本質に先立つ」自分の行動で生きる意味や実感を作り出せ!そこでは選択や意思による決断が大事になってくる。政治への参加で、世界を変えてゆく事も出来る。この世界観のポイントは・・・
1)
客観的な世界では、宇宙は物質のみで成り立っている。神はいない。しかし、意識を
持つ人間は主体的に「今」を生きる事が出来る。人間がコントロールできる「意識」
の世界で価値や意味を作り上げることができる。
2)
「存在は本質に先立つ」。人間は自分のあり方(存在)を作り上げる事が出来る。
3)
個々人は全く自由である。個人の主観的な世界においての王である。考え、夢見、行動 を起こす事が出来る。価値はその人の内にある。
4)
客観的な世界は、主体的人間に対して、そこに存在するが、それは「ばからしい」意味 のないものである。しかし、人は、死に向かう存在であるという緊張の中に「生」を生きなければならない。意味のない世界に対抗し、自ら価値を作り出さなければならない。従って「良き行動」とは「意識的に選択した」行動のことである。
大変、重要なので、ここでカミュの「ペスト」を取り上げよう。実存主義実験小説として傑作であり、相当の説得力がある。アルジェリアのオラン市にペストが蔓延する。街は閉鎖されるが、これは哲学的には「神なき閉じられた世界」のショーケースとなる。なぜ、この街に、今、ペストが流行るのか。子供までが死んでゆくのか?ここで客観的世界は「馬鹿らしい意味のないもの(不条理)」として描かれる。酒場の賑わいに見られるように、人はこの「生」を愛するものとして存在しているが、同時に「死」が確実という緊張の中にいる。神なき不条理の世界にほっぽられた登場人物は様々な反応をする。アパートの門番、ミッシェル老人はネズミ(不条理な世界)の存在をはじめは否定するが、認めざるを得なくなったとき、死んでしまう。ある人は50歳で退職してベッドから出ず、毎日、豆を剥いている。その繰り返し。この狂人的行動は、ニヒリストの象徴。他者の苦しみを軽減するよう助けるよりも、それを利用したタルーは神なき世界の「悪人」である。一方、ペストが存在する「馬鹿らしい世界」で、人助けに奔走する、神なき世界の「聖人」を演ずるのが医師リウーとタルーである。信者も未信者も災害時には救援のために最善を尽くす。
結局、信仰があっても無くても同じ行動をするなら、神はいなくても同じではないかとの、チャレンジがこの書にはある。しかし、カミュの閉じられた世界には「善」と「悪」が存在するではないか。なぜ人は「生」を肯定し、それを破壊するペスト自体が「悪」として描かれるのか。なぜ、カミュは善を選ぶのか。晩年、カミュはキリスト教的説明が正しいと、だんだん感じるようになり、洗礼まで望んだという。
実存主義はニヒリズムを超越できたのか?どうもモラルという点で、その根拠を提示できないままのようだ。「実存」を感じるには「善」でも「悪」でもどちらでもいいはずだが、どうしてカミュもサルトルも「善」の方向性を向くのだろうか?
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