黙示録を学ぶものは幸いである
キリスト教は世界観、歴史観です。世界はどう始まり、どう終わるのか、神が歴史を通して何をなさっているのかが書かれています。特に創世記と黙示録が重要です。創世記には世の始まり、人間の始まり、罪の始まり、サタンの存在が書かれています。そして、黙示録にはサタンの終焉とキリストの勝利が描かれています。当然、サタンは黙示録を嫌います。サタンは何とかして人々を惑わし、黙示録から遠ざけるように仕向けるのです。そして神学的にも攻撃するのです。
「この預言のことばを朗読する者とそれを聞いて、そこに書かれていることを心に留める人々は幸いである。時が近づいているからである。」(黙示1:3)
だからわざわざ黙示録だけはこう書かれているのです。こういう言い方は、他の新約の手紙にはありません。こう書かれている以上、心を留めることは大事なのです。
書かれていることとは・・・
「あなたの見たこと、今ある事、この後に起こることを書きしるせ。」
(黙示1:19)
という内容です。黙示録は「この後に起こること」つまり終末に関しての啓示の書です。前回、書いた主の再臨、悪しき者達への裁き、御国の到来です。ヨハネがこれを証している以上、これらに関してクリスチャンははっきりと理解し、希望を持つべきです。クリスチャンはこの世界がどこへ向かっているか知らされているのです。
3つのタイプのクリスチャン
クリスチャンと言いながら話していると違和感を感じる人が時々います。3種類のクリスチャンがいるのではと最近思わされています。
● クリスマス・クリスチャン
「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりまし
た。この方こそ主キリストです。」(ルカ2:11)
素晴らしいクリスマスのメッセージです。「あなたがたのために」そう、「私
のための救い主」です。ただ、そこで止まってしまっているクリスチャン
がいます。自分の人生の助けになるから、自分の人生の足しになるから。
自分中心のクリスチャン生活です。ともすると判断基準が自分の好みや自
分の主張になってしまいます。「聖書はいいけど、この箇所はちょっと」と
自分の判断で選り分け、選り好みしてしまいます。自分の理性に反するか
らと超自然的な奇跡を否定することもあります。「まあ、信仰はいいけど、
ほどほどに、そんなに熱心にならなくて、神の愛を信じて気楽に生きまし
ょう」となります。そのようなクリスチャンは根がないので、迫害が来る
と容易につまずいてしまいます。(マタイ13:21)
黙示録は言っています「死に至るまで忠実でありなさい」(黙示2:10)
こういう生き方は後で述べる黙示録的視点に生きてないとできないのです。
● イースター・クリスチャン
一般にはイースターよりクリスマスがポピュラーですね。「使徒の働き」で
クリスマスを祝っていた記事はありませんが、「復活を非常に力強く証し」
している事実があります。(使徒4:33)そして初代クリスチャン達は、
主の復活を記念してユダヤ教の安息日(土曜日)ではなく日曜日に礼拝を
始めました。初代クリスチャンにとって復活は重要な信仰内容であり、希
望だったのです。
日本には、十字架クリスチャンで止まっている人が多いように思います。
罪を悔い改め十字架を仰ぐことは大事ですが、受難のメシアから進みませ
ん。顔を上げて復活のイエスを仰ぎ見ましょう。また、復活を信じてはい
ても、復活をよく理解しているクリスチャンは少ないようです。「死んだら
天国」くらいの理解しかありません。パウロは第一コリント15章のほと
んど全てを信者の復活について書いています。ある意味、クリスマスより
イースターに意義を感じるクリスチャンは初代教会の信者の信仰に近いか
もしれません。クリスマス・クリスチャンより信仰的には進んでいます。
イースター・クリスチャンには復活の希望があります。信仰が生き生きし
ています。イースター・クリスチャンは素晴らしのです。ただ、それだけ
だと、「個人の救い」で終わってしまいます。それだけでは足りないのです。
ローマ書8章で書かれている被造物の贖いへの視点が欠けています。忠実
で教会奉仕にも熱心です。しかし、個人的終末だけでなく、世界の終末は
どうなるのかという理解と視点が必要なのです。
● 黙示録クリスチャン
黙示(英語ではRevelation)とは「隠されていることを明らかにする。」と
いう意味です。黙示録クリスチャン、正確には「創世記から黙示録クリスチ
ャン」でしょうか。この人たちには聖書的時代認識があります。大河ドラマ
のように神の「救いの物語」を聖書から読んでいます。今がどのような時な
のか、これからどうなるのか。神の物語の結末はどうなのか。そういった 聖
書的な歴史観があります。その中での自分の立ち位置と役割を知っています。
神が黙示録を下さっているということは、こういう視点に立つクリスチャン
になって欲しいと願っているからではないでしょうか。(マタイ24:32−
34)
迫害を耐え抜く希望
黙示録2〜3章で、キリストは7つの教会に励ましと叱責を送っています。ほとんどの教会は迫害下にあったのです。その中で主が再び来られ、反キリスト勢力を裁いてくださるという信仰が大きな励ましであったことは疑い得ません。(Iテサ1:4−11)そして「後に来る世よ」(エペ2:7)、「御国を受け継ぐ」(エペ1:11)を確信することも大きな前進力になったはずです。
黙示録2章で神は、スミルナの教会に対して「あなたがたは10日の間、苦しみを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」と語られます。10日間の苦しみ。そう苦しみは限定されています。マタイ24:21−22でも苦難の日数が少なくされるとあります。いつまでも苦難が続くのではありません。また、主は私たちを耐えられないような試練に会わせない(Iコリ10:13)と約束くださっています。大患難時代の獣は42ヶ月間活動する権威が与えられている(黙示13:5)とあります。ここでも限定付きです。「権威が与えられている」に過ぎないのです。獣(反キリスト)はいつまでも活動できるわけではありません。
霊的戦いの中にいるという点では、今日の私達も同じです。今は「空中の権威を持つ支配者」(エペソ2:2)であるサタンが獲物を探して歩き回っています。(Iペテロ5:8)これが今日の霊的現実です。イエス様も「麦と毒麦」の例えで「神の国」と「悪の国」の両方がグローバル化していくことを示唆されました。私たちはその戦いの只中にいます。しかし、聖書は教えています。「わたしを信じるものは死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)敵は私たちの魂まで奪えないのです。(ルカ12:4)(ヨハネ10:28−29)
黙示録クリスチャンは悪が滅ぼされることを知っているのです。いつまでもこのままではありません。
黙示録クリスチャンは知っています。私達が今、死ねば主と共にパラダイスです。(ルカ23:42)地上にいるならば、主が近いうちに花嫁である教会(キリストを信じる者の群れ)を迎えに来ます。つまり携挙です。そして私達は天に挙げられ、主と共にいることになります。(Iテサ4:17)終わりの時、ラッパの音と共に朽ちない体に蘇ります。(I コリ15:52−53)世の終わりにはキリストは王として再臨され、悪を滅ぼし、世を改めます。(マタイ19:28)そして、新しい時代(千年王国)が始まるのです。(黙示19章—20章)
患難期前携挙説を取れば、天にあげられてから約7年後にまた地上に戻って来てキリストを王とする御国で愛する兄弟姉妹と復活の体で千年間、悪の無い、そして自然環境が回復された地上生活を楽しむことができるのです!ワクワクしてきますね。そして、その後、新天新地の永遠の秩序が始まります。
「ですから私たちは勇気を失いません。たとい私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」(Iコリント4:16−17)
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意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
japantmc@gmail.com (栗原)
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