2020年7月16日木曜日

「復活」本当に信じてますか?


〜クリスチャンの驚くべき希望〜

死ぬものは幸い?
パウロは言った。

「わたしにとって生きることはキリスト、死ぬことは益です。」
                   (ピリピ1:21)

これは、単なる空元気の言葉だろうか? また、黙示録14:13には、こうある。

また私は、天からの声がこう言うのを聞いた。「書き記せ、『今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである』と。」御霊も言われる。「しかり。その人たちは、その労苦から解き放たれて安らぐことができる。彼らの行いが、彼らとともについて行くからである。」


通常、「死ぬものは幸い」とは絶対に言わない。「死んでよかった」という言葉は禁句なのだ。クリスチャンにとっては、ノンクリスチャンの人とは生死観が全く異なる。本当に「死ぬこともまた益」なのだ。人生がこの地上の80年だけだとすれば、「死」は絶対悪ということになる。しかし、聖書の世界観では死んで終わりではない。もし、死んで終わりなら「食べたり、飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬのだから」(刹那的快楽に走ることが唯一の生きる意味)ということになる。(Iコリ15:32)

クリスチャンにとって、この世は、「来るべき世」(Iペテロ1:17)に行くために一時的に「寄留」しているのであり、地上では「旅人」(Iペテロ2:11、ヘブル11:13)なのである。

そもそもクリスチャンは、この世の人が言う意味では「死なない」。「眠っている」だけだ。

「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくありません。あなたがたが他の望みのない他の人々のように悲しまないためです。イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスと共に連れてこられるはずです。」 ( Iテサロニケ4:13—14)


「使徒信条」に、公の信仰告白として「3日目に死人の中よりよみがえり・・」とキリストの復活への信仰がある。そして、「我は・・からだの蘇りと永遠の命とを信ず。」と自分たちの復活も書かれている。初代教会においては「復活」と「再臨」は重要教理なのだ。


しかし、どうだろう、お題目としての「復活」を唱えていても、本気で自分が体を持って復活すると信じているだろうか?

多くのクリスチャンはギリシア哲学の影響で「魂の永続」を信じている。しかし、それは聖書の言う「体のよみがえり」ではない!

Iコリント15章で、パウロは相当の量を割いて、私たちの「からだの復活」について書いている。レビューしてみよう。


私たちの復活の根拠は、「主イエスの復活」にある


  キリストは私たちの罪のために死なれた。(15:3)
  葬られた。(15:4)
  三日目によみがえられた。(15:4)
  12弟子に現れた。(15:5)弟子たちにはエルサレムで少なくも2回(ヨハネ20:19、26)ガリラヤで2回(ヨハネ21:7、マタイ28:16)オリーブ山から天に昇られた時(使徒1:9−12)、復活のイエスを目撃している。
  500人以上の兄弟たちに同時に現れた。そして、まだ生き証人がいた。
                        (15:6)
  すべての使徒たちに現れた。(15:7)
  最後にパウロにも現れた。(15:8)



もしキリストの復活がなかったなら・・・・

  そもそも死者の復活はない。(15:13、16)
  わたしたちの宣教は空しい。(15:14)伝える内容が空っぽ。
  あなた方の信仰も空しい。(15:14)信じる内容が空っぽ。
  神についての偽証人。(15:15)無かったことを有ったと偽証。
  あなた方は今もなお、自分の罪の中にいる。(15:17)罪の赦しは無い。
  キリストにあって眠ったものは滅んでしまった。(15:18)
  そんなキリストに望みを置いているなら、すべての人の中で一番哀れ。
                         (15:19)


つまり、キリスト教が成立するためにはイエスの復活が歴史的事実でなければ、ならなかったのだ。そして、事実は・・・


  キリストは眠ったものの初穂として死者の中から蘇った。
          (15:20) *「初穂」とは後に続く者がいるということ。

  アダムにあってすべての人が死に、キリストにあってすべての人が
生かされる。  (15:22)

  順番は、まず初穂であるキリスト、次に来臨の時にキリストに属している
人たち。    (15:23)


死者はどのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか?

  死ななければ、生かされない。(15:36)
  天上のからだもあり、地上のからだもある。(15:40)輝きが異なる。
  朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされる。(15:42)
  卑しいもの蒔かれ、栄光あるものによみがえらされる。(15:43)
  弱いもので蒔かれ、力あるものによみがえらされる。(15:43)
  血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされる。(15:44)
  血肉のからだがあり、御霊のからだもある。(15:44)御霊のものは後に来る。(15:46)
  私たちは、土で造られた人のかたちを持っていたように、天に属する方のかたちも持つことになる。(15:49)
  血肉のからだは神の国を相続できない。朽ちるものは朽ちないものを相続できない。(15:50)
  奥義、私たちはみな、変えられる。(15:51)
  終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちに変えられる。死者は朽ちないものによみがえる。(15:52)
  朽ちるべきものが朽ちないものを必ず着るようになる。死ぬべきものが、死なないものを必ず着るようになる。(15:53)
  その時、「死は勝利に飲み込まれた。」「死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」というみ言葉が実現する。(15:54−55)
  復活があるのだから、主にあっての(この地上での)労苦は無駄でない。
                         (15:58)


もともと人は大地のちりから作られた肉体に、神が命の息(霊)を吹き込まれ人間となった。(創世記2:7)従って、人間が霊だけで存続するのは不自然なのだ。朽ちるべきもの(肉体)が、朽ちないもの(新しい体)を必ず着ることになるとはそういう意味だ。人間であるということは、からだを持つということだ。問題は新しい体をもらって何をするのかだ

アダムには地を治める仕事があった。仕事することは人間の創造のDNAとして組み込まれていた。人が死んで、天の雲の上で毎日ハープを聞いて浮遊しているなら「体」は必要ない。そうではないのだ!新しい体で、この地上に戻り御国(千年王国)をキリストと共に統治する。体を持ってする仕事があるのだ。そうでなければ、新しい体をもらう意味がないし、やがて消え去っていく地上での働きは無駄なことになってしまう。今の天と地が消え去ってしまう前に(黙示20:11)、地上に御国が成就しなければ、Iコリ15:58は意味をなさない。


垣間見る復活のからだ
そうは言っても、今の私たちには復活のからだを完全には理解できない。イエスの復活の姿から我々の復活の体を多少は、推測することができる。

  戸に鍵がかけられていたのに、部屋に入られた。おそらく今の体を構成する
物資とは全く違うもので造られているので、壁をすり抜けられる。
                         (ヨハネ20:19)
  弟子たちはイエスの顔を認識できた。復活前との連続性。
           (ヨハネ20:20)
  息を吹きかけられる。(ヨハネ20:22)
  指や脇腹に触れられる。透明な幽霊ではない。(ヨハネ20:27)(ルカ24:39)
  魚を召し上がった。(ルカ24:43)食事の必要はないかもしれないが、食事をして楽しむことができる。
  エマオの途上で普通に2人の弟子と会話された。(ルカ24:27)
  姿を消すことができる。(ルカ24:31)


義認・聖化・栄化
今、イエスを救い主として信じるものは罪赦され、義と認められる。たましいの救いを得るので、キリストを直接見てはいないけれども、キリストにあっての喜びを体験している。(Iペテロ1:8−9)これを「義認」という。そしてクリスチャンとして様々な試練に遭いながらこの地上を生きる中で魂が清められ、キリストの似姿に日々変えられていく。これを「聖化」という。救いはプロセスであって、まだ完成していない「救い」がある。やがて、体が贖われ、キリストの花嫁として、輝くきよい亜麻布をまとうことが許される。これを「栄化」という。これは将来に起こる「救い」である。

「あなたがたは、信仰により、神の御力により守られており、
 終わりの時に現されるように用意されている救いを
 いただくのです。」          Iペテロ1:5)

これはイエス・キリストが再臨される時に与えられる恵みであり、クリスチャンは、それを待ち望んでいる。(Iペテロ1:13)

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死んでも生きる方法?
人類は長年、不老長寿の薬を目指してきた。今もアンチエイジング、そして寿命を延ばすことに必死になっている。しかし、人はいつか死ぬ。そもそもなぜ死ぬかというと、「罪からくる報酬は死」(ローマ6:23)だからだ。その罪の解決ができれば、死ななくてよくなる。死なない方法があるのだ。罪によって隔てられた永遠者と繋がり、永遠の命を宿すことだ。エデンの園の「命の木」とはキリストである。創造主が人類に送った救い主、イエス・キリストに解決がある。これが、キリストが語られた約束の言葉だ。

「イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。
 わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 また、生きていて
 わたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬ ことがありません。
 あなたは、このことを信じますか。」
                         (ヨハネ11:25)

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「意味ある人間関係と祈りで広まるキリスト中心のコミュニティ」
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳



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