2020年7月30日木曜日

獣化する国家


 獣化する国家
第二次世界大戦中のナチス・ドイツ政権下において、事態を憂慮した牧師たちにより牧師緊急同盟と告白教会が結成され、そこで起草された「バルメン宣言」に依拠してドイツ教会闘争が繰り広げられたことは周知の通りだが、当時のドイツの危機的状況と現在の香港をめぐる諸々の状況を重ね合わせるようにして危機感を抱いた牧師・神学教師たちが、今年5月26日に「香港牧師・神学教師ネットワーク」(中国語:香港教牧網絡、英語:Hong Kong Pastors Network)を結成し、同日、「香港2020福音宣言」を発表したのだった。(2020年6月25日 キリスト新聞)


香港情勢はこの1−2年で急変した。これから香港が中国本土なみになっていくとすれば、教会の自由な宣教活動は制限され、教会自体が弾圧されてゆく可能性が大きい。獣化する国家には獣の霊が働いていると言えないだろうか?

 満州事変から太平洋戦争中への流れも雪崩のように急変した。誰も止められない圧力が働き、戦争へ突入していった。終戦を決断したのは昭和天皇だったが、開戦時を振り返りこう言っている。「もし、私が開戦宣言をしなかったら、私は誰かに殺されていただろう。」と。山本七平は「開戦は『空気』が決めた。」と言う。それは「霊」ではないのか?そして、マスコミもそれを後押しした。そして、その決断の結果、310万人が戦争犠牲となった。しかも、亡くなった兵士の過半数は飢餓や病気で亡くなっている。このような悪魔的な結果を生んでしまったのだ。


獣化する国の特徴は何だろうか?

  国家的リーダーが神格化される。
  思想、信仰、集会、芸術、出版の自由が失われる。
● クリスチャンが迫害される。
  マスコミは体制側になる。(獣を崇めさせる偽預言者の役割)
  強権的になる。(反体制を取り締まる)
  国家が個人に優先。時に無慈悲、人権無視になる。
  敵国に対する憎しみを駆り立てる。戦争モード、覇権主義


神の知恵と悪魔の知恵
人は自分の人生や国家を形成するのに「知恵」を用いる。その知恵はどこから来るのだろうか?

しかし、もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや利己的な思いがあるなら、自慢したり、真理に逆らって偽ったりするのはやめなさい。そのような知恵は上から来たものではなく、地上のもの、肉的で悪魔的なものです。ねたみや利己的な思いのあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

しかし、上からの知恵は、まず第一に清いものです。それから、平和で、優しく、協調性があり、あわれみと良い実に満ち、偏見がなく、偽善もありません。                      (ヤコブ3:14—17)

知恵には「天」からのものと「地上」からのもの、すなわち、「神」からのものと「悪魔」からのものがある。そして、これは対照的だ。

悪魔から来る知恵
  苦々しい妬み
  利己的な思い
  自慢
  偽り
  肉的

その結果は「秩序の乱れ」、「邪悪な行い」である。

どうだろう、国民が抑圧され、自由や喜びを奪われる時、国のリーダーは上記の特質を持っていないだろうか?間違った人生や、間違った国家を築く時には、そのリーダーの動機が妬みであったり、利己的であったりする。サウル王は
ダビデに対して激しい妬みがあった。彼の生涯の後半は暗いものになり、国民にもその陰が及んだ。国家レベルで優越主義を掲げると、そのプライドゆえに負けを認められなくなり、太平洋戦争中の大本営発表のように、偽りの情報を流し、国民を騙す事になる。人生も国家も、それは秩序の乱れを生み、最後は混乱し、錯乱し、追い詰められ、邪悪な行いに走る。(*太平洋戦争末期では集団自決という邪悪が行われた。)

これに対して上からの知恵は
  まず第一に、純真。「ピュア」なのだ。
  平和
  優しい
  協調性がある
  憐れみと良い実
  偏見、偽善がない

獣化する人生も国家も「純真」さがない。むしろ汚れて行く。心が妬みや憎しみで満ちて行く。獣化する人生も国家も戦いを求め、破壊を求め、人権を踏みにじり、心は常に乱れ、平安がない。そして他者に対しては無慈悲(優しさの反対)。協調性がなく、自己流で我を通そうとする。そして孤立する。憐れみより利益、効率。偏見に満ち、メディアを統制し、偽り、都合のいいことだけを報じる。


悪魔のささやき
個人も国家も、どちらの方向に行くのか? ある決断をする時、背後に聞こえる「声」に従っている。

かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。(エペソ2:2)

精神科医で、カトリック作家の加賀乙彦さんの「悪魔のささやき」(集英社新書)で、自殺未遂者の多くが、実行への後押しをする「自分ではない者の意思」のような力、「悪魔のささやき」を聞いていると証言している。政治家が最後の決断しする時、誰の声を聞いているのだろうか?ヒットラーがユダヤ人大虐殺を命じた時、誰の声を聞いたのだろうか?路上での無差別殺人を犯す犯人は誰の声を聞いているのだろうか?「誰でもいい、人を殺したかった」という思いはどこから来るのか? 不従順の子らの中に今も働いている霊は、今日も存在し、働いているのだ。

だから、クリスチャンは祭司として、国のリーダーのために祈ることが必要なのだ。(Iテモテ2:1)神は御心を成就するため異邦人王の心に働きかけることもできるのだ。(エズラ1:1−2)

悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたにあげよう。」 (マタイ4:8)

イエスは、この申し出の信憑性自体を否定しなかった。そうであれば「嘘言うなサタン、お前にそんな力はない。」で終わっていた。しかし、その力があることを知っていたので、「下がれサタン」だったのだ。サタンに魂を売れば、この世の栄華を手に入れることは可能なのだ。しかし、サタンはこの人生たかが80年の栄華を与えて、永遠を失わせるのだ。夢のように過ぎ去る80年そこそこの人生。人生がそれだけならサタンの言うことにも一理ある。後の世が無いなら、「出来るだけこの地上で快楽を得て、楽しんで終わろう。」となるだろう。

しかし、イエスをメシアと信じるものは地上の「御国」に体を持ってよみがえり、1000年間、主と共に地を治める。それだけで終わりではない、その後に、新天新地で神と共に永遠を過ごす。一方、サタンに騙され、サタンに従ったものはたった80年の“幸せ”を味わった後は、永遠の苦しみしかない。
「永遠をどこで過ごすのか?」が最大の問題なのだ。


刹那か永遠か?
クリスチャンの人生観は「地上では旅人であり、寄留者」(ヘブル11:13)なのであり、むしろ神が用意された都、「もっと良い故郷、すなわち天の故郷」(ヘブル11:16)を待ち望んでいる。

サタンに騙されてはならない。刹那的快楽主義に陥ってはならない。それはあっと言う間に過ぎ去る。本物はこれからだ。

ちなみに患難時代後期には、この選択が非常に鮮明になる。反キリスト(獣)に従って生活を保障してもらうか、(黙示13:17)キリストを信じて迫害され、殉教するかと迫られるからだ。二つに一つの選択となる。上記の世界観、生死感をしっかり持っていないとクリスチャンとして生きることは容易では無い。しかし、事実はこうである。悪者に対する裁き、すなわち殉教者の血の復讐は神ご自身が必ずなさる。(黙示6:10−11、19:19−21)

事実は、反キリストが不法に王座に就いてから3年半で滅ぼされるということだ。この3年半を反キリストに従って楽な生活をし、永遠を失うか?3年半を耐え抜いて(聖徒の忍耐、ここにあり!)永遠に生きるのか?ということになる。もちろん、患難期前にクリスチャンとなり、携挙に与ることがベストだが・・・

ちなみに患難期には「繁栄の神学」は役に立たない。クリスチャンはいかに物質的に「豊かに」生きるかではなく、「生きる」か「死ぬ」かという世界になるからだ。今のこの世があまりにも快適ならば、気をつけたほうが良いかも知れない。聖徒たちには、この世はふさわしいところではなかったのだから。(ヘブル11:38、IIテモテ3:12)


「獣化する国家」でのクリスチャン
聖書は基本的には上に立つ権威に従うよう語っている。(ローマ13:1、
Iペテロ2:13)。しかし、国家が獣化し、神格化したリーダーをキリストの上に置き、これを拝めと命じる時は従うわけにはいかない。シャデラック、メシャク、アベ・デネゴの三人のユダヤ人は、バビロン州の行政官として忠実にバビロンに仕えていた。しかし、ネブカドネツァル王が建てた金の像を拝めと命じられた時には、きっぱりと拒否した。それが命取りになると分かっていても。(これを抵抗権という)

さて、彼らはこの悪い王を暗殺すべきだったろうか?ドイツの牧師、ボン・ヘッファーがヒットラーの暗殺に関わったという噂がある。ヒットラーが死ねば、何百万というユダヤ人が虐殺されずに済んだかもしれない。人間的には正しいようにも思える。しかし、新約の思想にはテロや暗殺がない。使徒たちがローマ皇帝の暗殺や国家転覆を煽った記事もない。


「愛するものたち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間で燃えさかる試 
 練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思ってはいけま
 せん。むしろ、キリストの苦難にあずかればあずかるほど、いっそう喜びな
 さい。キリストの栄光が現れる時にも、歓喜にあふれて喜ぶためです。」
                         (Iペテロ4:13)

 むしろ、敬虔なクリスチャンが迫害を受けることは予期されるべきこと
パウロも言っている。(IIテモテ3:12)あわてないことだ。むしろ、その苦しみは何のためなのかを確認する。キリストのためであるなら恥じることはないと聖書は言っている。

「しかし、キリスト者として苦しみを受けるのなら、恥じることはありません。
 帰って、このことのゆえに神をあがめなさい。」Iペテロ4:16)

「もし、だれかが不当な苦しみを受けながら、神の御前における良心のゆえに苦しみに耐えるなら、それは神に喜ばれることです。」Iペテロ2:19)

ここでは「不当な」苦しみにも抗議ではなく、「耐える」ことが勧められている。キリストのために苦しむのは喜びであり、栄光であるという思想だ。


「キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった。」Iペテロ2:22−23)

キリストの十字架刑ほど理不尽なものはない。不正な苦しみを味わったキリストが、その模範である。そして、最終的な裁きは神に委ねる。

「ですから、神のみこころにより苦しみにあっている人たちは、善を行いつつ、
 真実な創造者に自分のたましいをゆだねなさい。」
                         (Iペテロ4:19)

国家権威への反抗よりも、「お任せになる。」「たましいを神に委ねる」という態度が見られる。そして、復讐は神に任せるのだ。(黙示6:10)

クリスチャン迫害の背後には悪魔がいる。(Iペテロ5:8)、そして、世界中で兄弟たちが同じ苦しみ(迫害)を通ってきている。私たちは「堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。」と命じられている。(Iペテロ5:8—9)悪魔に対抗するとは信仰を捨てない、告白し続けるということだろう。唯一、サタンに打ち勝つ方法は「子羊の血」と「証しのことば」なのだ

「兄弟たちは子羊の血と、自分たちの証しのことばゆえに竜に打ち勝った。彼
 らは、死に至るまでも自分たちの命を惜しまなかった。」(黙示12:11)

ドイツ「バルメン宣言」のように、今回の香港2020福音宣言のように、私たちはキリストを宣言する。そして、たましいは創造主にお任せする。

「子羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てた証
 のゆえに、殺されたものたちのたましいが、祭壇の下にいるのを見た。」
                          (黙示6:9)

この人たちは「キリストを証しした」ゆえに殺されている。つまり殉教。一見、悪者の権威に屈服したように見える。しかし、殉教者には「希望」があったのだ。

「たとえ義のために苦しむことがあっても、あなたがたは幸いです。人々の脅
 かしを恐れたり、怯えたりしてはいけません。むしろ、心の中でキリストを
 主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を
 求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」
                      (Iペテロ3:14—15)

「あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあって永遠の
 栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦し
 の後で回復させ、堅く立たせ、強くし、不動のものとしてくださいます。」
                         (Iペテロ5:10)

ここにクリスチャンの希望がある。「しばらくの苦しみ」とあり、苦しみは限定的なのだ。1Cの迫害下にあったスミルナの教会にも「10日の間、苦しみに会う」(黙示2:10)と苦しみが限定的であることを示しながら、「死に至るまで忠実であれ。」(黙示2:10)と命じている。これは単に歯を食いしばって、忍耐のための忍耐なのではなく「待ち望む」という姿勢である。やって来られるイエスにしっかり目を留めるということ。ここにすべての希望がある。このまま終わりではない!


歴史はキリストの再臨に向けて動いている。時間軸の中で「来たるべき世」がくる。(ヘブル2:5)「来るべき都」を待ち望んでいる。(ヘブル13:14)「あの世」ではない、未来に、やって来るのだ。また、「来るべき方」が来られる。(ヘブル10:37)この地上に「来られる」のだ。その時、私たちは回復され、強くされ、不動のものとされる。

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「悪魔のささやき」加賀乙彦 集英社新書


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東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳

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