再臨2段階説(空中再臨と地上再臨を分ける)は比較的新しい神学で、特異なものだと考える人たちがいる。それでは地上再臨と携挙が同時に起こるケースを考察してみよう。その説だと再臨は1度だけ患難期末に起こる。その時、ラッパが響き、地上の信者は引き上げられ、すでに眠った聖徒たちは復活して携挙に与る。(Iテサロニケ4章13−18)ということは, その時点で地上には信者は一人もいなくなる。そしてハルマゲドンの戦いで反キリスト軍勢(未信者)がすべて滅ぼされる。(黙示19:19−21)ということは、信者も未信者もいなくなり、地上には人類は一人もいないことになる。
すべての聖徒は、すでに天にいるので、千年王国不用論者は、そのまま白い御座の裁き、そして新天新地でいいと考えるだろう。そうすると20章の千年王国の記述が邪魔になる。この説だと千年王国の置き場所に困ることになる。「無千年王国説」や、「千年王国後再臨説」(今の教会時代が千年王国とする説)を主張する人もいるが、黙示録20章を読むとサタンの1000年間の縛りと地上での1000年間のキリスト支配はセットになっている。今の時代はどう見てもサタンが縛られてはいない。また、獣と偽預言者はハルマゲドンの戦いの直後に「火の池」に投げ込まれているが、サタンは1000年間縛られた後、すでに獣と偽預言者のいる「火の池」に投げ込まれる。(20:10)わざわざ時系列的に書かれており、3者同時ではなく、1000年の時間的ギャップがあることが分かる。
もし挙げられた聖徒が天で「千年王国」を体験するとなると、今度は再びサタンが解き放たれて反キリスト軍がエルサレムを攻撃するという記述(黙示20:9)が意味をなさなくなる。誰もいないエルサレムに攻め入る意味がないからだ。そもそも天はすでに永遠なので、「千年」という期限付きの王国である意味がない。地上の統治なので千年王国(期限付き)なのだ。
また、天に上げられた聖徒たちが即、キリストと共に地上に戻り千年の間、地を治める場合はどうだろう(患難期後携挙説)。空中再臨でイエスを出迎え、地上にイエスと共に戻ってくるとする説だ。(空中で主と「会う」の「会う」はギリシア語で「出迎える」の意味があることを根拠にしている。)この場合、千年王国の人類はすべて復活の体を持ったクリスチャンということになる。そうなるとサタンが解き放たれた後の反キリスト軍はどこから出てくるのだろうか?これらが人間ではなく、サタンと悪霊どもということならあり得るかも知れない。黙示19章の終わりでは偽預言者、獣、反乱軍は滅ぼされるが、サタンと悪霊はまだ滅ぼされていない。しかし、20:8節では「ゴグとマゴグを惑わすために出てゆき」とあるので、悪霊をわざわざ惑わす必要はあるまい。そうすると千年王国の終わりには惑わされる人々が存在していなければならないことになる。
患難期前携挙説の場合
それでは地上再臨と携挙(空中再臨)を分けて考えた場合はどうだろう。地上再臨は患難期末期に起こり、空中再臨は患難期前に起こるとする。
患難期前携挙説の定番説明は・・・
1) 黙示録2−3章は教会について書いてあり、4−5章は天に上げられた教会。つまり24人の長老による礼拝。「長老」は御使を表す時には言及されない。旧約の聖徒でもない。これは新約のクリスチャン達を代表する言葉だ。
2) 黙示録5章以降、「教会」という言葉が忽然と消える。もういないから。
3) Iコリント15:52の終わりのラッパは黙示録10:7のラッパと同一ではない。なぜなら、パウロがこれを書いた時点でヨハネ黙示録は書かれておらず、第7のラッパの概念は知らされていなかった。したがって、Iコリント15:52とIテサロニケ4:16のラッパは旧約の「ラッパの祭り」を念頭に書かれた。「ラッパの祭り」は時系列的に「大贖罪の祭り=患難時代をよ評する」の前なので、患難期前のラッパとなる。また、黙示10:7の第七のラッパは御使によって吹かれ、Iテサロニケ4:16でのラッパは「神のラッパ」となっている。(御使は号令をかける)
4) IIテサロニケ2:7の反キリストの出現を引き止めている者(人格を持つ存在)は聖霊であり、聖霊を宿すクリスチャンが上げられ、いなくなることで、反キリストが活躍し始める。その順番が正しい。
5) 患難期は「神の怒りの時」(黙示6:14−17、15:1)なので、罪
赦された信者が神の怒りを通らなければならないのは理にかなわない。それで「携挙」は患難期前という理解になる。ソドムが滅ぼされる前に義人ロトは連れ出された。戦争の前に神はご自分の大使(IIコリント5:20)をご自分の国(天)に引き戻す。
ここは重要なので、さらに説明してみよう。
ここでの患難期の「神の怒り」は不信者に向けられており、クリスチャンの成長のための訓練とは違う。(ヘブル12:10)患難期の苦難は「神ご自身」が行なっている「未信者への裁き」である。黙示録9章に現れる「サソリのような尾を持つイナゴ」は「額に神の印を押されていない人間にだけ害を与えるよう言い渡された。」(9:4)など「裁き」の対象が明確にされている。
一方、罪赦され義と認められたクリスチャンは裁きに会わない。(ローマ8:1−2)サタンからの攻撃や迫害はある。主からの訓練もある。しかし、神からの「罪に対する裁き」は、もはや有り得ないのだ。(あるならばキリストの十字架が十分ではないことになる。)
「この御子こそ、神が死者の中からよみがえらせた方、やがてくる御怒りから私達を救い出して下さるイエスです。」(Iテサロニケ1:10)
「やがてくる御怒り」とは何だろう?AD70年のエルサレム崩壊か?確かにベルゼブル論争で公にイエスがキリストであることを否定したことへの裁きと考えることはできる。そうであれば、神の怒りだろう。しかし、その時、天からキリストが来られて、救い出されたのだろか? NO。あるいは、「白い御座の裁き」だろうか?しかし、すでにキリストにあって罪に定められることのないクリスチャン(ローマ8:1)はそこにはいない。一番フィットするのが、「患難時代」だ。患難時代は先に述べたように「神の怒り」の時なのだ。「救い出す」とは、そこを通らないという意味だろう。Iテサロニケ5:9も「御怒り」を受けないことが繰り返されている。つまり、患難期前に「携挙」があり、天に上げられるということだ。
忠実な教会のモデルであるフィアデルフィアの教会に、主は約束された。「地上に住む者たちを試みる(試みるは「誘惑」と訳せる。つまり、さらに反キリスト側につくよう誘惑される機会。)ために全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。」(黙示3:10)「試練の時には」ここはギリシア語でエクが使われており、英語ではOut ofあるいはfromの意味だ。従って、試練の中より取り出すというイメージが強い。実際は、これらの苦難で人々は神に立ち返るどころか、神に怪我しことを言い、悔い改めず、心をさらに頑なにしてサタン側について行く。(黙示9:20−21、16:21)
「全世界」に来る試練とは局所的なローマ時代の迫害ではなく、終末の患難時代の神の裁きのことだ。全世界への神の裁きは一度あった。そう、ノアの洪水である。地上の全ては水に飲まれ失われたが、ノアの家族は方舟で水の上にあり、守られた。これは携挙の型とも言える。人々は世界的な洪水をバカにして日常生活を続けていたが、大雨が来て全てをさらってしまうまで分からなかったのである。ちょうどそのように突然、信者が上がられてしまうまで人々は気づかない。そのあと、パニックが起こり、大ニュースになる。患難時代は全人類に訪れるので、局所的な「出エジプト」の出来事と比較するより、「ノアの洪水」と比較した方がより意味をなす。
さらに、ヨハネ14:2−3、「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」も携挙への言及と思われる。
ちなみにこの「場所」は永遠の住まいというより、「宿泊所」の意味で、一時的に滞在するパラダイスを示しているものと思われる。引き上げられ、一時的に休息してから、主の再臨時に、主と共に、再び、地上に戻ってくるのだ。ここで両手を広げて「迎え入れる」キリストのイメージと、黙示録19章の地上再臨の白い馬に乗った戦闘態勢時のキリストのイメージとは異なっている。
地上再臨の時にどうなるか?
ペンテコステを持って始まった新約の教会は携挙を持って終わるが、時代はイスラエルの救いへと移っていく。世界に離散する「14万4千人」のイスラエル人の宣教師たちとエルサレムで宣教する「2人の証人」によって多くのものが改心する。その影響で異邦人でも救われるものが出てくるだろう。しかし、患難期後半は「獣」が支配し、多くのクリスチャンは殉教する。患難期後期は「今から後、主にあって死ぬ者は幸いである。」(黙示14:13)とある。逆説的だが、迫害があまりに激しいので死んで主の元に早く行った方が幸いなのだ。
殉教したクリスチャンはよみがえって千年王国に入る。(黙示20:4)キリスト再臨時に地上に生き残っていたクリスチャンは、そのまま千年王国に入るだろう。(*) そうすると千年王国には天からキリストと共に下って来た「復活の体」を持つ聖徒たちと、地上に残っていた「肉体」を持つ聖徒たちのミックス状態となる。ちょうど復活したイエスが弟子たちと朝食を取られたような状況である。(ヨハネ21:10−14)復活の体は「御使」のようであり結婚、生殖はしないが(マタイ22:30)、肉の体は世代維持のため、そうする。そうなると千年の間には、現在のクリスチャン2世、3世に起こっているような「いい加減なクリスチャン」も出てくると予測される。ただ、サタンがいないので誘惑されないのだ。それが千年王国終わりにサタンが解き放たれた時に誘惑され、反乱軍に加わることはあり得ることになる。
------------------------------------------
(*)この説には1つ問題がある。Iコリント15:50で、「血肉の体は神の国を相続できません。」とはっきり書いてある。地上の肉体を持った信者が千年王国(御国)に入るのはおかしいことになる。ただし、「御国」はいくつかのステージを経て完成する。キリストの初臨で「神の国」は到来した。(ルカ11:20)私たちの只中に神の国は来ている。血肉の体で「神の国」を味わっている。しかし、フルスケールではまだ来ていない。千年王国は旧約の「メシア王国」の成就であり、地上に起こる「イスラエルの復興」(使徒1:6)と考えるなら、これもステージの1つだ。復活の体と血肉の体が共存することもあり得るのではないか?そして最終的な完璧な御国は新天新地となる。新天新地は今の天と地ではない。(黙示21:1)ここには血肉の体は入れない。すべて復活した朽ちない体を持つものだけが入ることになる。
----------------------------------------
このように解釈すると19章終わりから20章、そして21章が字義通り、時系列的に解釈できる。ちなみに地上に成就する千年王国については以前のブログに書いた通り、旧約聖書の預言の成就として無くてはならないものなのだ。黙示録から千年王国を外してしまうことは黙示22:19に反する。
どう携挙を待ち望むのか?
間違いなく、それは緊張感と希望の時である。携挙は明日かもしれない、いや今日かも知れない。空を見上げて「今」天が開け、イエス様が現れるかもと期待することもある。携挙を信じる者は、このワクワク感に生きている。同時に主にお会いする用意があるだろうかと、心をチェックするいい機会ともなる。今日にも上げられるとしたら、自分は地上に未練があるだろうか?喜んでイエス様に「お迎え」に来て欲しいだろうか?
ただ、過去、「携挙待望運動」が行き過ぎることもあった。この問題に関しては、次回詳しく述べることにする。「携挙」さえあれば、全て解決ということで、学業や仕事を放棄し、伝道さえも後回しに、ひたすら「携挙」を求め祈っていた現象が起こった。しかし、聖書はこのように言っている。
「また、私たちが命じたように、落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕
事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるま
うことができ、また乏しいことがないようにするためです。」
(Iテサロニケ4:11−12)
これが携挙の記事の前に、インストラクションとして書かれていることを覚えておきたい。
(続く)
---------------------------------------------------------------------------------------------------
]
意味ある人間関係と祈りで広がるキリスト中心のコミュニティ
東京メトロ・コミュニティ
Tokyo Metro Community (TMC)
執筆者:栗原一芳