聖書を神の言葉と信じるクリスチャンは基本、字義通りに聖書を解釈する。
旧約時代、少なくとも二人の神の聖徒が生きたまま天に上げられている。一人はエノク、一人はエリア。
「エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。」
(創世記5:24)
「こうして、彼ら(エリヤとエリシャ)がなお進みながら話していると、
なんと、一台の火の戦車と火の馬とが現れ、このふたりの間を分け隔て、
エリヤは、たつまきに乗って天へ上って行った。」
(II列王2:11)
その後、人々はエリアを3日間探したが、見つからなかった。そして、私たちの主イエスも復活後、生きたまま天に戻られた。
「こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれ、
見えなくなられた。」 (使徒1:9)
従って、聖書の記述としては、すでに実例がある。そして、これと対照的に生きたまま、火の池(地獄)に落とされるものもいる。
「すると獣(反キリスト)は捕えられた。また獣の前でしるしを行い、それ
によって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ
預言者も、彼らと一緒に捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃
えている池に、生きたままで投げ込まれた。」 (黙示19:20)
この事実は、逆真理として聖徒が生きたまま天に上げられることを証明しているとも言える。
再臨の記述に2種類ある
マタイ24:21−30、イエスご自身が終末のことを語っておられる中で、再臨の記述がある。ここでの描写は・・
1) いなずまが東から出て、西にひらめくように、そのように来る。
2) いまだかつてなかったような苦難。(患難期の苦難)
3) 顕著な天変地異が起こる。
4) 地上のあらゆる種族が、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。
とあり、誰の目にも明らかなようにスペクタクルな状況が展開されているのが分かる。しかし、37−44を見ると対照的に、人に分からないように来られるという描写になっている。
1) ノアの日のよう。平和に日常生活をしている。(38)
2) 人の子が来て人がいなくなってからでないと分からない。(39)
3) 一人は取られ、一人は残される。(40)
4) 目を覚ましていなさい。主は夜中の盗人のように来る。(43)
一方は、未だかつてないような苦難や天変地異があって、その時、稲妻のように輝かしい栄光を帯びて、天の雲に乗って来られ、全ての種族がその来臨を見る。一方は、人の子は夜中の盗人のようにやって来るという。思いがけない時に来るので用心していなさいと。(44)どう考えても2つの違う状況について語っているとしか思えないのだ。そして、「一人は取られ、一人は残される」(40)はIテサロニケ4:17の信者は、一瞬にして雲の中に引き上げられる携挙に言及していると思われる。
またIIテサロニケ2章は興味ふかい箇所だ。主の再臨について考えを正している。ここでは主の再臨の前提が語られている。
1) まず背教が起こる。(3)
2) 不法の人(滅びの子=反キリスト)が現れる。
3) 不法の人の到来以前には主の日は来ない。(3)
4) まだ引き止めてるものがあるので、まだ不法の人が現れない。(6)
5) その時になると不法の人が現れる。(8)
6) 主が来臨し、不法の人を滅ぼす。(9)
パウロはこの順番が決まっているので、今すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせないように(2)と勧めている。これは「人の子は、思いがけない時に来る。」(マタイ24:44)のイエスの言葉と矛盾する。つまりある程度、時系列的に順番の決まっている患難期最後にあるイエスの地上再臨と、いつでも起こり得る空中再臨(携挙)の2種類あると考える方が自然である。
(続く)
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執筆者:栗原一芳
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