携挙に関して一番、明確に書かれているのがIテサロニケ4章16節〜17節だ。
書かれた背景は「眠った人々」、すなわち主を信じてすでに死んでしまった人たちはどうなるのか?主が来られる時、彼らはどうなるのか?とテサロニケのクリスチャンが悩んでいた時に、パウロは「あなたがたが、他の望みのない人のように悲しみに沈むことのないため。」(13)書いたものだ。つまり、クリスチャンには他の人とは違う望みがあることを知らせたかったのだ。ラザロの姉マルタは、「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」(ヨハネ11:24)とイエスに答えていることから、当時のユダヤ人は「終わりの日」の復活を信じていたと思われる。
イエスは「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)と言われた。つまり、イエスご自身が「復活」を司る本人であり、「いのち」そのものであると宣言されたのだ。
Iテサロニケ4章に戻ろう。「私たちはイエスが死んで復活したことを信じています。」(4:14)パウロは続ける「それならば・・・」ここで次に言おうとしていることが、復活に関連していることが分かる。「イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。」(4:14)まず、誤解のないようにイエスにあって「眠った」と言う表現を使い、世の人が言う「死んだ」のではないことを強調する。「イエスと一緒に連れてくる。」これは将来的なことを言っている。それはいつなのか?ユダ書14節には「見よ、主は何万もの聖徒を引き連れて来られる」とある。ユダ15節は裁きのことが書かれているので、これが起こるのが終わりの日の裁き(すなわちキリストの地上再臨時)であることが分かる。その時、復活した「何万もの聖徒」を連れてくると言うのだ。「ご自分のすべての聖徒と共に再び来られる時」(Iテサロニケ3:13)ここでは「ご自分のすべての聖徒」とある。そうならば、それまでに聖徒の復活(少なくも新約時代のすべてのクリスチャン)が起こっていなければならない。キリストにあって眠った者の復活は主の地上再臨の前ということになる。そして聖書の言う復活は「魂の永続」ではない。非物質ではない!新しい朽ちない体のことだ。キリストは体を持って地上再臨し、私たちも体を持って千年王国を主と共に治めることになる。ここに驚くべきクリスチャンの希望がある。
そして、キリストにあって眠った者の復活は「携挙」との関連で書かれている。
この2つは一連の出来事として記されている。Iテサロニケ4:15は、順番について書かれている。順番は主の御出でになる時にまず、すでに眠った聖徒の復活、そして地上に残されているクリスチャンの「変貌」と「引き上げ」となる。(Iテサロニケ4:16−17、Iコリント15:51−52)。実際、神の奥義によれば、クリスチャンは「死ぬ」のではなく、単に「眠る」のでさえなく、「変えられる」のだと言う。ラッパの響きのうちに一瞬にして変えられる。死者は朽ちないものに変えられる。(Iコリント15:52)
携挙という言葉は聖書に無いが、Iテサロニケ4:16にある、信者が天に引き上げられる現象を指す。順番としては、
1. 号令と御使のかしらの声とラッパの響き。
2. 主ご自身天から下って来られる。
3. キリストにある死者がよみがえる。
4. 生き残っている私たちが彼らと一緒に・・
5. 雲に包まれて引き上げられ、
6. 空中で主と会う。
7. こうしていつまでも主と共にいることになる。
ラッパが黙示録の第7のラッパとする見解と、旧約の「ラッパの祭り」のラッパとする見解がある。第7のラッパとすると携挙は患難時代の中間に起こることになる。「ラッパの祭り」は大贖罪の祭り(患難期の予表)の前なので、患難期前の携挙という解釈になる。ただ、パウロがテサロニケの手紙を書いた時点ではまだ、ヨハネの黙示録は書かれておらず、パウロは黙示録の第七のラッパをまだ知らない。念頭にあったのはユダヤの祭りのラッパということになる。
「引き上げられ」はギリシア語で「ハルパゾー」、「強引に引っこ抜く」「連れ去る」という意味だ。日常生活をしている時、あっという間に引き上げられる。マタイ24:40−42に呼応している。大きなしるしもないまま、それは突然起こる。(マタイ24:37−38)まるでノアの日の洪水のようだ。主は「夜中の盗人」のように来る。(マタイ24:42−44)携挙に関してはこの「突然性」が特徴だ。ちなみにキリストの地上再臨は「すべての目」(黙示録1:7)がこれを見るが、携挙は瞬時に行われ、しかもキリストは空中にまでしか来られないので、すべての人が見るわけではない。
Iテサロニケ4:14に戻ろう。イエスの地上再臨の時に聖徒たちを連れて来る。そうであれば、聖徒たちは「復活の体」で、すでに天にいなければならない。それで、地上再臨の前に「携挙」があり、それまでにキリストにあって眠った者、および、地上に残されている信者が引き上げられ天で待機している必要があるということになる。
(続く)
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執筆者:栗原一芳
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