菅内閣誕! デジタル省を作るそうだ。スマホ、キャッシュレス、zoom会議、もうその流れは止まらない。コロナをきっかけに国連ではID2020を打ち上げ、ワクチン投与や、支援を名目に、全世界の人にデジタル身分証明を付与するという動きが始まっている。日本でもマイナンバーに運転免許証や保険証が紐付けされる。
2045年問題というのがある。人工知能が人間を超える転換点(シンギュラリティ)だ。株取引、企業の経営判断もAIがこなすようになるだろう。スマホに聞けば、何でも教えてくれる。世の人にとって神への「祈り」は必要なくなる。「悩みはAIに聞け!」と・・・AIこそが全能の神になってゆく。宗教の世界も変わっていく。
そして、同時に、人間の方も変わってゆく。神は人をご自身の似姿に創造した。その人間はまた、自分の似姿にロボットを作り出す。人間により近い精巧なロボットを。家事や、伴侶の代わりに会話するロボットも現れるだろう。今でも単身赴任の男性が夕食時にスカイプで妻と会話している。今後、ディープラーニングしたスクリーン上のAI2次元画面の妻は、本物と見分けがつかなくなるだろう。
今日、zoom会議が爆発的に増加した。スクリーン上で会話している相手は、本物なのだろうかと時々、思ってしまう。今後は、AIと画像技術で見分けがつかないくらいに簡単に代替え出来るようになるだろう。そのうち3Dで立体画像も可能となれば、「お帰りなさい!」と迎えてくれる美人のAI女性がいて、食卓での会話を楽しませてくれれば、独身男性は満足してしまうかもしれない。
同時進行で、人間自身の方も変革されてゆく。すでに、専門家は2025年までに人間の一部は機械になると予測している。サイボーグ化が進む訳だ。人工心臓や人口肺で長生きできれば、いいのかも知れない。すでに目が悪ければ、メガネ、耳が聞こえにくければ、補聴器と、人間の機能のエクステンションとしての機械が活躍している。
しかし、そのエクステンションはどこまで進むのか?何とすでに意識や記憶をハードウエアにコピー転送する実験(精神転送)が行われている! 肉体が死んでも、コンピューターの中で「その人」は生き続けるという訳だ。そうやって「永遠の命」を手にいれる。こういった技術の進歩は「倫理」にも影響する。そもそも、この流れの中で、どこまでが「人間」なのだろうか。ここにトランスヒューマンという用語が登場する。
ウキペディアによると・・
「トランスヒューマニズム(英: Transhumanism)は、新しい科学技術を用い、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させようという思想である。省略して>HやH+と書かれる場合もある。日本語では「超人間主義」などと訳される。トランスヒューマニズムは人間の機能拡張やその他将来の科学技術の開発・使用により、将来起こりうることを研究する学問でもある。
トランスヒューマニストの思想家は、人間の根本的な限界を克服し得る新興技術の潜在的な利益と危険性、およびそれらの技術を使用することの倫理的限界について研究している。最も一般的なトランスヒューマニストの主張は、人類は最終的に、現在の状態から大幅に拡張された能力を持つ異なる存在へと変化し、ポストヒューマンとも呼ぶべき存在になる可能性があるということである。」
ただ、問題なのは、AI技術者、多くのトランスニューマニストは無心論者、世俗的ヒューマニスト。もともと聖書的価値観が無いので、創造的破壊の方向へ進む。(これは今日のアメリカの過激リベラルと同じで、伝統的歴史観、価値観の破壊を目指す。)これに関して、脳科学者の茂木健一郎氏が警鐘を鳴らしている。
そのようにして、通常は人間にとって不可欠だと思われるようなものを「それは本質ではない」と切り捨て、代替していく衝動と運動が人工知能の研究コミュニティ(の最も優秀で先鋭な人たち)を特徴づけている。「人間」にとって「これは本質的ではない」と否定することで、人間が依って立つものを少しずつずらしていく。ポストヒューマニズム、トランスヒューマニズムにも接続するこのような倫理は、まさに否定神学的、そして価値破壊的な傾向である。
「茂木健一郎. クオリアと人工意識」
ある意味では無神論者の方が倫理を飛び越えて、テクノロジーを推し進めてしまうことが出来るのかもしれない。共産主義国で「クローン人間」を造っていたとしても、不思議ではない。すでに人権無視の臓器狩りをやっている国もある。また初めから進化論に立っていれば、人間を超えた人間(ポストヒューマン)への移行に抵抗がないだろう。
宗教界にも動きがある。トランスヒューマニスト達は、身体と精神にテクノロジーを適用して人間の状態を変更するという目標があるが、それを積極的に受け入れる宗教運動体もあるという。麻薬使用時の「変性意識状態」と霊的体験を結びつけ、積極的にニューロテクノロジーを活用し、変性意識を自由にコントロールする可能性を探っている。人工的に「悟り」を得たり、パウロのような「第3天体験」が出来るという訳だ。仏教やニューエイジのメディテーション(瞑想)に見られる心の拡張にもつながってくる。つまり、身体だけでなく、精神の拡張としてのツールともなってゆくのだ。
こうしてAIや拡張機能技術により変容、超越されたトランスヒューマンはポストヒューマン(今の人間ではない、次の段階の人間)となっていく。これをどう考えたらいいのか?全身、サイボーグだが、脳はそのままの人間。逆に脳がコンピューターとつながった人間。あるいは、他人と意識や記憶が入れ替わった人間(そういう小説があった)。どこまでを人間とするのか?どうこれらの「人間」を扱うのか。神学的にも枠組みが必要になるだろう。医学的利便性があることは確かだが、この分野の先端の人々は、ユダヤ・キリスト教の価値観には立っていない。
神はご自身の似姿に人を造った。罪は本来の人間性(愛)を歪ませる。サタンは人間性を剥奪していく。そして人がサタンの性質に染まっていく。やがて利便性が人間性を越えてゆくのだろうか?愛が冷え、不法がはびこっていく。ついには、人権無視の利便主義者「不法の人=反キリスト」が到来する。利益のためには、人の命まで売買する。(黙示18:13)この時代はそこに至る過程としてある。今は不法は「秘密」として働いている時代なのだ。(IIテサロニケ2:7)
ロボットに霊は住まないだろうが、サイボーグ化した人間は、サイボーグとはいえ、人の「自意識」がある以上、魂への責任は問われるだろう。しかし、「自己意識」は難しい問題を含む。「その人」であるとはどういうことだろうか?
例えば、認知症の人は家族が認識できなくなる。最愛の妻さえ認識できなくなる。それを取り扱った映画、渡辺謙主演の「明日の記憶」のラストは衝撃的だった。あの映画を見て以来、「自己意識」とは何だろう。「愛」とは何だろうと考えさせられている。ライトシーンでは、認知症が進んだ主人公は最愛の妻を他人と思い、自己紹介してしまう。認識できないのなら、それまでの「愛」は何だったのだろうか。「愛」は「記憶」なのだろうか?
人は寝て無意識になり、起き上がって意識を回復するが、「自分」という意識の継続性が保たれている。これも不思議だ。つまり、記憶が繋げているのだろう。認知症が進めば、「自分」が誰で、どこにいるのかも分からなくなる。すべては記憶のなすワザか?「記憶」が「その人」であれば、「記憶」を交換してしまえば、もう「その人」ではなくなる?・・そんな事が起こる前に、主は再臨なさるのだろうか?
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執筆者:栗原一芳