〜ヘブル書のメッセージ〜
人はなぜ死ぬのか?
人は死ななければならないという厳粛な事実。これは誰も否定できない。だから人類、誰もが永遠の命を願ってきた。そもそも、どうして人は死ななければならないのか? 聖書によれば、「罪」によって「死」が入ったのだ。
「そういうわけで、ちょうど一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死
が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからで
す。」(ローマ5:12)
アダムは「命の木」ではなく、神が禁じた「善悪を知る木」を選択してしまった。自らを判断基準とし、そこから神への不信が始まった。人間が神に取り代わるという悪魔的傾向が始まった。神を除外し、人間の力を見せしめる。バベルの塔はその象徴である。そして、その傾向は今日まで続いている。
だから、「罪」の問題を解決しないと、「死」の問題が解決しない。逆に「罪」の問題が解決されれば、「死」の問題は解決され、「永遠の命」が手に入ることになる。
罪の報酬は死
聖書は言う。
「罪から来る報酬は死です。」(ローマ6:23)
● つまり、罪は命を要求する。
● 「肉のいのちは血の中にある。」(レビ17:11)
● 「血を注ぎ出すことがなければ、罪のゆるしは無いのです。」 (ヘブル9:22)
● 「いのちとして贖いをするのは血である。」
(レビ17:11)
大祭司キリストの完全な贖い
そして、大祭司としてのキリストは・・・(ヘブル9:11−12)
● 手で作ったものでない、さらに偉大な幕屋を通り、
● ヤギと子牛との血によってではなく、
● ご自分の(罪なき子羊の)血によって
● ただ一度、まことの聖所(天の幕屋)に入り、
● 永遠の贖いを成し遂げられた。
「罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座(至聖所)に着
かれました。」
(ヘブル1:3)
だから、「ご自分によって神に近づく人々を完全に救うことがおできになる。」
(ヘブル7:24)
もう一度この3つのキーワードに注目してみよう。イエスは、「ただ一度」で、「完全」で、「永遠」の救いを成し遂げられた。
● ただ一度
もし、私の犯す罪のため毎日、羊を殺して血を流さなければならないとしたら、どうだろう?お金もかかる、労力もかかる、気持ち悪いし、不快だし、気持ちは落ち込むし、もういい加減に嫌になるだろう。キリストはただ一度、完全な犠牲を捧げ、贖いのワザを成し遂げてくださった。
● 完全
完全とは95%のことだろうか? 異端はワザを要求する。つまり、「キリストは95%やってくれた、あとの5%はあなたのワザで救いを勝ち取れ。」と言っているわけで、キリストの贖いのワザを格下げしているのだ。もっと献金しろ、伝道しろ、成果を上げろと。しかし、それはキリストを引き降ろすことになる。完全とは100%という意味で、添加物はいらない。付け加えるべきものは無い!救い=永遠の命は神の下さる賜物(ギフト)なのだ。(ローマ6:23)信仰による救いとはただキリストの御業を、ありがたく受け取ることだ。誕生日プレゼントは「ありがとう!」と言って受け取るものだ。1000円支払ったら、相手は傷つくだろう。神はご自分を完全に信頼するものを喜ばれる。(ヘブル11:6)救いは神の業なので、救われた者には「感謝」と「賛美」しかない。
● 永遠
もし、救いが期限付き保証だったらどうだろう?3年は保証する、しかし、3年後は保証しかねる・・・3年過ぎたらおちおち寝てもいられまい。
キリストの救いの保証は永久保証だ。その契約書には聖霊の証印が押されている。(エペソ1:14)しかも、神はこの救いのプランを2つの事で確証してくださった。それは神の「約束」と「誓い」である。(ヘブル5:17、ヨハネ10:28)神がこうした以上、この計画は変更されないのだ。家売買の契約書を交わした以上、その家は自分のものとなり、そこに住む。同じように必ず、私達は「御国」を頂き、そこに住む。
新しい契約の下では・・・
● 「罪と不法が赦されるところでは、もう罪の清めのささげ物はいりません。」
(ヘブル10:18)
● 「第二のものを立てるため、初めのものを廃止されるのです。」
(10:9)
動物の犠牲は罪と罪責感を除去することはできなかった。(10:11)むしろ、罪を思い出す要因となっていた。(10:3)良心を清めることができなかった。(9:9)不完全だったのだ。そこで神は罪なき子羊による新しい契約をお立てになった。新しいものが立てられたので、古い契約(旧約の律法よる贖い)は廃止され、消えてゆく。(8:13)
新しい契約の下で、私達は・・・
● あなたは、聖なるものとされている。(10:10)これをPositional Truth (位置的真理)という。つまり、実際には完全に聖でなくても、神の目にはすでに「聖なるもの」とされている。十字架のワザでそうなっている。
● あなたは永遠に完成されています。(10:14)実際には未完成でも神の
目にはあなたは「完成品」となっている。
● 神はあなたの罪と不法を思い起こさない。(10:17)
十字架のゆえに、神はこの契約を守る。
希望の錨
ヘブル6:19−20はあまりにも素晴らしい。
「私たちが持っているこの希望は、安全で確かな、たましいの錨のようなもの
であり、また幕の内側にまで入って行くものです。イエスは、私たちのため
に先駆けとしてそこに入り、メルキゼデクの例に倣って、とこしえに大祭司
となられたのです。」
頭の中で描いて欲しい。嵐の夜の海。はるか向こうに港が見える。私の乗った船は嵐に揉まれている。潮の流れに流されそうになっている。しかし、私の船の錨はすでに港の岸壁の杭に縛り付けられている。船のモーターで錨をつなぐ金属製のロープを手繰り寄せている。船は少しづつ、しかし確実に港に近づいてゆく。そして、ついには港の中に入る。そこは防波堤に囲まれており、波は穏やかだ。やがて岸壁にまで確実に船は到着する。その岸壁とは幕の内側、すなわち、至聖所=神の御前だ。贖いの御業を成し遂げたイエスは先駆けとしてもう、そこに入っている。(ヘブル1:3)天の幕屋、天の至聖所、父なる神の右の座に。
そして、私たちもやがて新天新地において、父なる神を仰ぎ見るようになる。(黙示22:3)旧約時代は神を見るものは死ぬとされた。しかし、キリストの十字架で神へのアクセスが可能になった。今は、大胆に恵の御座(至聖所)に近づくことができるようになった。(ヘブル4:16)
だから、ヘブルの記者はこう命じる。
「ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはいけません。その確信には大きな報いがあります。あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です。「もうしばらくすれば、来たるべき方が来られる。遅れることはない・・・」 (ヘブル10:35−37)
もはや、死なないクリスチャン
キリストの完全な贖いの業により、死の問題は完全に解決された。キリストは聖霊による新生と更新の洗いをもって私たちを救ってくださった。(テトス3:5)将来、この滅びゆく肉体も原子分子レベルから新しくされる。外側も内側も新しくされ、アダムの系列ではなく、キリスト系列の新人類とされ(エペソ2:15)、新しくキリストの命で生きるものとなった。(ガラテヤ2:20)
死ぬという現象は一時的に滅びゆく肉体を離れ、キリストと共にパラダイスで休息(パウロは「眠っている」という表現を用いる。)することであり、この世の人が言う「死」ではない。時が来ると新しい体を頂いて地上に実現するメシア王国(千年王国)に戻ってくる。聖書が約束しているのは、この世の人がぶっ飛んでしまうような話なのだ。(この点、正しく理解していないクリスチャンも多い。)福音は「御国の福音」なのであって、単に死んで魂が天国に行き、永遠にそこでイエスと共に住まうことではない!
「キリストも多くの人の罪を負うために、一度ご自身をささげられましたが、
二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのため
に来られるのです。」(ヘブル9:28)
なぜ、キリストは、また来られる必要があるのか?我々が、死んで「天国」に「行く」のであれば、キリストがわざわざ「来られる」必要はない。この箇所は不思議な箇所だ。しかも、2000年前、キリストは「救い」のためにすでに「来られた」のではないか?もう一度「救い」に来るとはどういうことか?
1つは「救い」はプロセスであって、「義認」され、今、地上で「聖化」されつつあり、やがて来臨の時に体が贖われ「栄化」される。従って、ここでの「救い」は「体の贖い=栄化」のことと考えられる。もう1つは、何から「救う」ため来られるのか?すでに罪からは救われている。また、ローマの8:1からは「裁き=白い御座の裁き=罪人の裁き」からも免れている。罪に定められることのない者が裁かれる必要はない。わざわざキリストが来臨しなくても、「罪に定められることはない」ことは確定している。とすると、何から救われるのか?この箇所を「携挙」と考えれば、「大患難時代」から救われると考えられる。第一テサロニケ1:10には「やがて来る御怒りから救い出してくださるイエスを待ち望む」とあり、同じ事を言っていると解釈できる。第3には、「救いの成就」のため来られると解釈すると、地上に実現する御国=千年王国の設立のためということになる。
キリストはなぜ、もう一度来られるのか? キリストが地上再臨なさるのは、この地上に用があるからだ。最終的に反キリスト勢力を滅ぼし、この地上に御国を成就する。地上に成就しないなら、「来られる」必要なない。聖徒を天に引き上げて終わりだろう。この再臨信仰は新約のクリスチャンにとって重要なテーマであり、信仰告白だったのだ。「来てください!」が切実な祈りだった。御国がこの地に実現するから「福音」なのだ。(マタイ6:10)そうでなければ、「主の祈り」=「御国が来ますように!」は、出来もしないことを妄想して願う、虚しい祈りになってしまう。サタンによって蹂躙されたこの地を神は必ず、贖い、癒し、回復する。福音は「御国」の福音なのだ。
パウロは大胆に勝利を宣言する。
「こういうわけで、今はキリスト・イエスにある者が罪に定められることは決
してありません。」 (ローマ8:1)
「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着る時、『死は勝
利に飲み込まれた。』と記されている、みことばが成就します。『死よ、おま
えの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』
(Iコリント15:54−55)
イエスご自身もこう語った。
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生き
るのです。」(ヨハネ11:25)
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執筆者:栗原一芳
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